21−41 血の一滴に至るまで
いくらなんでも、お咎めなしだなんてあり得ない。とっくに自分が裏切り者だという事は、知られているはず。それなのに……どうして、背中の翼は「白い」ままなのだろう?
アリエルは真っ先に翼を捥がれると覚悟していたし、セフィロトという後ろ盾を得た今となっては……一刻でも早く、忌まわしいマナの女神との繋がりを捨て去ってしまいたいとさえ、思っている。だが、アリエルの背には純白の翼が恩着せがましくくっついたまま。彼女を見捨てる素振りさえ見せない。
「……ねぇ、おかしいと思わない?」
「そう、だね。普通ならば、アリエルがこちら側にやってきた時点で……命綱を取り上げるはずだよね、あの冷酷女神は」
マモンとリッテルに追い立てられ、サタンの側にいたオーディエルにも見られている時点で、アリエルがグラディウス側に降ったことはとうに伝わっているはず。普段の情報連携のスピード感からしても、アリエルの出奔はとっくにマナの女神の知るところになっているだろう。
(もしかして……試されているの? それとも、まさかまだ、私を思い出せないというのかしら……?)
だとしたら、許せない。
アリエルは屈辱にさえ思える女神の無関心に、沸々と怒りを再燃させている。だが……アリエルはただ、知らないだけだ。マナが彼女の離脱を知っていながら、翼を敢えて取り上げないのだということを。
長いこと神界にいる「古株」であるが故に、アリエルは神界の事を知り尽くしていると思ってもいたが、アリエルは重要な事を見落としている。そう、マナ自身の決定によって懲罰で翼を取り上げたのは、後にも先にも1度きり……始まりの大天使達に対する粛清の時だけなのだ。ルシフェルの翼の削減はリンカネートによるものであるし、ルシエルの降格は当時の大天使達が独断で行ったことである。アリエルはこの2件にもマナの意思が介入していると考えていたが……実際には、彼女の意向は一切反映されていない。
《マナ側の意思で天使達を見捨てることは基本的にしない代わりに、干渉は常に精神にも及ぶ》
確かに、この事は天使達には大々的に伝えられてはいない。だが……明確に伝えられずとも、彼女達天使が肌で感じている事であり、背中で受け止めている事でもあり……紛れもない事実である。マナは呆れるほどに愛情深いと同時に、恐ろしいほどに執念深い。だからこそ、彼女は「余程のことがない限り」、「自発的に愛し子達を手放す」事はしない。
それを愛情と取るか、束縛と取るかは天使の心情次第だが。彼女の愛に縋る者がいるからこそ、堕天する者が出てしまうのだし、こうして……アリエルも「白い翼」に心を捕えられては、苦しんでいる。そして、もどかしい狂おしさに、とうとう嫌気が差したアリエルは……いよいよ、自らの翼に手をかけた。
「……これさえ、なければいいのよね。……セフィロト。悪いのだけど……」
「うん、分かってる。……翼を落としたらすぐに、代わりの翼を授けてあげる」
「えぇ、頼むわ。それにしても……自ら翼を捥ぐだなんて、それも私が初めてかもね?」
しかし、その先の勇気はなかなか捻出できるものでもなかった。口先では強気でも……正直なところ、アリエルは恐怖に身が竦むのを必死に堪えている。
それもそのはず、天使の翼は魔力の供給器官だけあって、魔力の器に密接に紐づいているし、肉体に「生えている」のだから、引っこ抜けば壮絶な痛みが襲いくることも想像に容易い。しかも、魔力の器は血に含まれる魔力因子の集合体であるため……天使の翼の神経は肉体の隅々、それこそ血の一滴に至るまで緻密にリンクしているのだ。
アリエルは魔力の器の本当の姿を知らないが、翼の喪失に付随する本能的に恐怖は確かに感じている。それは純粋な「死」に対する恐怖ではなく、存在意義の死滅をそこはかとなく予感させるもの。生き物として死を迎えるのではなく、魔法生命体としての死を迎える結果になるのではないか……翼を失ったら、魔法を永遠に使えなくなるのではないか? そんな気がして、彼女は決心を鈍らせると同時に、翼にかけていた手をついぞ離してしまう……。
「おや、決心がつかないのでしたら、お手伝いしましょうか?」
「あ、あなた……誰?」
アリエルが躊躇しているのを、何故か見咎めるように翼を掴んでいるのは、見覚えのない若い紳士。だが、彼の瞳の奥に覗く剣呑な光を見つけては……アリエルは俄かに身震いする。
「まさか……あなた、あのプランシー神父……かしら?」
「えぇ、そうですよ。お初にお目にかかります、アリエル様。……あなた様のことはセフィロト様からもお伺いしております」
「そ、そう……。お願いだから、手を離してくれないかしら? ……意外とデリケートなのよ、天使の翼は」
魔力と一緒に神経も通っているため、天使の翼は殊の外、感覚が敏感なパーツでもある。羽1枚を抜くのにも相当の痛みを伴うし、そっと触れられただけでも過剰なまでにくすぐったく感じる。そして……天使が翼を触らせるのは、心を許した相手だけ。それなのに……プランシーは遠慮も配慮もなくアリエルの翼を鷲掴みにしては、グイグイと力を込める。
「や、やめて! それ以上は……」
「何だとおっしゃるのです? 翼がなくなれば、あなたは自由になれるのでは? そして……晴れてセフィロト様の眷属になれるのでは?」
「そ、そうかも知れないけど! でも……」
やっぱり、アリエルの心は迷っている。翼が残されているという事は、もしかしたら、まだ見捨てられていないのかも知れない……という期待もそこはかとなく残されている気がするのだ。無論、マナ自体は未だにアリエルに気づいていない可能性もゼロではないが。それでも、少なくとも現代の大天使達は彼女を無視しなかったし、きちんと実力も認めようとしてくれていた。そして……実際に飛び出してみて、アリエルはいよいよ後悔している。翼を失うかも知れないことも、今の神界での居場所を失うかも知れないことも。
……あの時、飛び出さなければ。「自分の人生の主役」でいられる可能性はまだあったのかも知れないのに。
「全く……仕方ないな。アリエルは昔から、意気地がないんだから。……プランシー、手伝ってあげて」
「承知しました」
「えっ……? なっ、何を言っているの、セフィロト! その位、自分で……」
自分で翼を捥ぐ事くらい、容易い。そう、啖呵を切りたかったが。ゾワリと這い寄る神父の手掴みの触感に、恐怖以上に嫌悪を感じては……アリエルは次の言葉を紡ぐことさえ忘れてしまう。ただただ、フルフルと瞳に涙を溜めて首を振るのが、精一杯だ。しかし……。
「いっ……いやぁぁぁッ⁉︎」
翼の根元を無理やり引き千切られ、アリエルの背に灼熱の痛みが走る。ドクドクと流れる真っ赤な鮮血が噴き出すのを、止める術も知らないまま……アリエルは朦朧とし始めた意識の中で、辛うじてギロリとセフィロトを睨む。
「そんなに生意気な顔、しないでよ。……大丈夫。僕が新しい翼をあげるから」
一方で、アリエルのありったけの反抗も軽く受け流し、セフィロトは片翼の天使の背に優しげな仕草で手を伸ばす。しかし……所作は優雅でも、彼のやり口には容赦がない。今度はアリエルの傷口を穿つように、セフィロトが彼女に埋め込んだのは、まるまると肥えた金色の果実。それが彼女の血に触れた瞬間、弾けるように果皮が破れ、バラバラとアリエルの肌に潜っていく。
「はっ、はぁ……はぁ……こ、こんな……事って……。私、どうなってしまうの……?」
「別に、これ以上は悪くはならないよ。君は僕の手で、改めて新しい女神になるんだ。血の一滴に至るまで、僕が守ってあげる」
「めっ、女神……? それに、守るって……?」
「うん、そうさ。……だって、君は女神としての資質を、魂に受け継いでいるのだもの。いいかい? 君は失敗作なんかじゃなかったんだ。ただただ、あの冷酷なマナが認めなかっただけで……本当に神様になるだけの資格はあったんだよ。だから、僕は君を新しい世界のお嫁さんにしたい。……だって、僕自身がこうして動いていられるのは、今のうちだからね。例え神であろうとも……仮初の使者である以上、時が来たら霊樹に先祖返りしてしまうんだ」
そうして、優しく微笑むと同時に、プランシーに意味ありげな目配せをするセフィロト。そんな彼の意図を受け取って……神父が嬉々として、アリエルの残っている方の翼も一思いに引き抜く。
「ヒッ……ヒィ……」
「あっ……ちょっと、急にやりすぎちゃたかな? ……アリエル、気絶しちゃったみたい」
「そのようですな。しかし……天使というのは、やはり脆い。悪魔は腕の1本や2本を落とされても、平気だというのに……この程度で、気絶とは」
「そう言わないであげて。……天使の翼はかなり特殊な器官だから。痛みも腕や足を失う程度の比じゃないんだよ」
「ほぉ? 左様でしたか……」
無慈悲に彼女に種まきをした手を翳し、セフィロトが何もなかったはずの空間に豪奢な寝台を出現させる。そしてプランシーが指示されるまでもなく、気を失ったままのアリエルを純白の台座に横たえると……先程まで激痛の苦悶で顔を曇らせていたアリエルの頬が穏やかに綻び、すやすやと寝息をたて始めた。
少々、強引で乱暴な衣替えになってしまったが。彼女こそに「育ての親」として一緒にいてもらうのならば、同じ階位に登ってきてもらわねばならない。新しい神の母親はやり直しの天使ではなく……歴とした女神でなくては。
「さて……と。アリエルはもう、大丈夫。それで……彼女が目覚めるまでに、外のあれも排除しておかないとね。この世界に神は1人でいい。昔にママが他の全てを拒絶したように……僕も、他の神を排除することにするよ」
セフィロトの敵はこの世界の全て。仮想敵は古き神・マナと地底神・ヨルムンガルドの双方であり、対象は天使と悪魔全てを含む。そして、今まさに彼らの旗印として人間界に降臨したドラグニールに想いを馳せては……生意気な霊樹は燃やし尽くしてやろうと、セフィロトはようよう顔を歪ませた。




