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天使と悪魔の日常譚  作者: ウバ クロネ
【第19章】荊冠を編む純白
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19−39 臆病なその身1つ

 辺りは闇に飲まれ始めており、すっかり暗くなっていた。本当は鍛冶屋を買い取り、夜もそのまま居座るつもりでいたのだけど。勇気を鼓舞するための気付け薬は想定以上に、刺激的な付随効果をゲルハルトに与えたらしい。

 勢い余って暴れた後にやってくる、必要以上の静寂。思い出した恐怖によって、急激に酔いを醒ました彼には……目の前に広がる暗がりの道は、更なる不幸を予期させる不気味さに満ちているように見えた。


「チクショウ……! クソアマどもが……!」


 酒の勢いという蛮勇を剥がされた暴れ者に残るのは、臆病なその身1つのみ。いくら口先で毒づいても、体の方は威勢の良さに付いてこない。しかも右腕の出血はまだ止まっていない上に、飲酒によって血の巡りが良くなっていたせいもあるのだろう。今度は酔いではない意識の混濁がゲルハルトを襲い始めた。


「……あぁ、ちょいと……疲れたな。しかも……」


 なんだか、寒い。先程から、無性に薄寒い。その上、なんとなくだが……誰かに見られている気がする。

 腕の痛みを思い出す前に、得体の知れない恐怖に飲み込まれては、ゲルハルトはキョロキョロと辺りを見渡す。彼の視界に広がるのは、目抜き通りから少し入り込んだ陰鬱な小道の景色だけ……のはずだった。だが……。


(ぉん? ありゃぁ……なんだ? あそこの影、妙にザワザワしているような?)


 どうも、自分はまだ酔っているらしい。きっと、そうだ。

 努めてゲルハルトは全てを酒の勢いのせいだと決め込むと、もう歩くのも嫌だとばかりに、ドカリとその場に腰を下ろす。だが……やはり、何かが気になる。そうして、恐る恐る……先程から見るまいと避けていた「上の方」に視線を泳がせれば。ざわめく影の持ち主だろうと思われる、真っ黒な異形がニタリと笑っているのがようよう、目に入る。


「……こいつは、まさか……⁉︎」


 ゲルハルトが「勇気を出して」見上げた先の壁には、噂では散々聞かされていた気がする、「出会ってはならない化け物」が張り付いている。ギロリと並んだギザギザの牙を覗かせ、口元からはみ出した長い舌は粘着質の唾液に覆われている。その唾液がポタリ、ポタリと落ちる度に、なんとも言えない腐臭がゲルハルトの鼻に届き始めた。これは明らかに……座り込んでいていい状況ではないだろう。


「ひ、ヒィぃぃぃッ!」


 逃げろ、とにかく逃げなければ。

 しかし、相変わらずゲルハルトの体は緊急事態の威勢にも適応できないまま。気分ばかりが急いて、足もまともに動かなければ、恐怖から脱却することもできない。そうして、つんのめってドサリと無様に石畳に転がると。今度は意外にも軽やかな足音が、彼の背後から響いてくるのに、ゲルハルトは更なる戦慄を覚える。


「お、お前は……」

「……やっぱり、役立たずは役立たずのままなのね。ビル様の言っていたこと……理解できなかったのかしら?」

「い、いや……俺だって、最初はきちんと話し合いで……」

「嘘おっしゃい。あなたは店に入る前から、へべれけだったじゃない。……最初から、穏便に買い取るつもりもなかったのでしょう? あぁ……なるほど。そう言うこと? ビル様がご用意された支度金は懐に入れる算段だったのかしら?」

「ちがっ……」

「そう。それで、店を手に入れた後は店主に収まって、ビル様に逆らおうとしたのね? 武器も金もあれば、勝てるとでも思ったのかしら?」

「だから、違うって言って……」

「……もう、いいわ。あなたの顔……見飽きちゃった」


 黒い煤のような曖昧な影に覆われているばかりだと思っていた化け物の姿が、いつの間にか更に不気味に変化している。本体は黒々と渦巻き、実体も掴みどころもない。それなのに……まるで全身に毛皮を纏ったかのように、黒い煤が彼女のボディラインを形作り始めるではないか。そして、器用にニョキっと生やした足でコツコツとヒールの踵を鳴らして歩み寄るのは、アンバランスにも美しい顔をしたビルの側近らしき者。しかし、その正体はやはり……人間ではなかった。


「うふふ……とっても、いい匂いがする。私、血の匂い……大好きよ」


 黒い化け物はビルの側近・ヨフィの顔のままで、ベロリと長い舌を出す。そうされて、追い討ちの恐怖を前にヘナヘナと2重の意味でへたり込むゲルハルト。多量の失血と無稽な鬼胎。肉体的にも、精神的にも……ゲルハルトは既に生きることを諦めつつあった。

 人間は人形などを愛でるクセに、人形がリアルに人間に近づけば近づくほど、途端に嫌悪感と不安感を抱くらしい。今のゲルハルトの心持ちもまさにそれで……目の前の化け物は刻々と姿を変えながら、ヨフィは忙しく人間の姿に近づこうとしているが。途中経過を刷新するほどに、ゲルハルトの恐怖心も目まぐるしく塗り替えていく。そうしてとうとう、ヨフィがほぼ見慣れた姿でありながら……背に2枚の翼をはためかせると。今度は、朦朧とした意識の中でゲルハルトは畏敬の念に駆られ始める。

 あぁ、なんて……美しくも不気味で、どこまでも残酷な光景だろう。


「……て、て……天使……様?」

「そう? あなたには今の私が……天使に見えるのね? でしたら……どう? その天使に殺される気分は。気分がいい? それとも……怖い?」

「……気分が、いい……です」


 意外にも、ゲルハルトの口から漏れたのは好意的な感傷。右腕は鉛のように重たいままで、上げることも出来ない役立たず。もう2度と、誰かに乱暴な拳固を浴びせることも、誰かに不当な凶弾を打ち込むこともない。そして、自分は強いのだと錯覚し、勘違いして……本当は弱い自分を取り繕う必要も、もうない。


「思いっきり、痛くしてあげる。あなたが生きていることを……しっかりと忘れないために、ね」


 間に合わせではなく、本心から「おぉ、天使様!」と空を仰ぐゲルハルト。あの時は見上げた空は、夕刻の橙色だったが。今のそれは、どこまでもドス黒く深い闇の色をしている。だけど、ゲルハルトが見つめているのは夜空の色ではない。白い翼が滑稽にさえ見える、化け物の抱擁による漆黒だった。


***

「何ぞ、一思いに食らい殺してしもうたのか?」

「えぇ。あんなにも“いい匂い”を撒かれたら、我慢なんて出来ませんわ」

「まぁ、いい……。店の方は明日、小生が直々に買い取りに行くか。恐怖で支配するのも一興だが……より良いものを生み出そうとするのなら、手懐ける方がいい事もある。職人の積極性も必要だからこそ、ゲルハルトには買い取ってこいと命じたのだがな」


 どうせ、失敗するだろうことも目に見えていたが。しかし、今夜中に買い取ってこい……というのは、流石に無謀が過ぎたか。ただターゲットの恐怖心と警戒心を煽った結果になったことに、時期尚早だったと後悔し始める陸奥刈穂。ゲルハルトがしでかした失態は、ある意味で懐柔のハードルを上げたに等しい。


(……後悔先に立たず……か。小生としたことが。少しばかり……焦り過ぎたかの)


 もちろん陸奥刈穂が例の鍛治工房に目をつけた理由は、ルルシアナが密造していた拳銃の性能を上げるため、が大部分を占める。しかし、それ以上に重要だったのは……彼自身に「焼き直し」が必要になった時の作業者の確保だった。

 ナマクラになった刀を「鍛え直す」ことはできない。切れ味を取り戻すために出来る事と言えば、「焼き直し」という手直しが必要なるのだが……焼き直しは素人に到底こなすことはできない、職人技なのだ。だからこそ、刀を始めとした刀剣にはナマクラにならないように、普段からきめ細やかなメンテナンスが必須とされる。だが……魔界を飛び出し、持ち主を「飽きた」という理由で屠ってきた陸奥刈穂には、満足のいくメンテナンスを施せる相棒は未だない。


(そろそろ……正当な持ち主が欲しい。例えば……)


 そこまで考えて、ビルの体でイヤイヤと首を振る陸奥刈穂。それこそ、魔界を飛び出したことさえも時期尚早だったのではないかと、後悔したところで何も変わらない。最後に生み出されたらしい真祖の手に握られることを望んだところで……彼に刃を向けた以上、実現は難しいだろう。

 アケーディアの手を選んだのも、彼の手で魔界を飛び出したのも。突き詰めて考えれば、己の判断の結果だ。何せ……陸奥刈穂を含む落つ神の刀5振りには、持ち主を選ぶという傲慢が許されている。いざ、気に入らない相手の手に取られたとなったらば……その柄を握る手首を落とせばいい。ただ、それだけのことである。


(ふん……ほんに、何もかもが上手く行かぬ。小生は果たして……どこに行き着くのだろうな……)

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