17−35 禁断の果実
ウリエル経由で示された「約束場所」に出向けば、彼女の眼下には栄華ごと消し飛ばされたヴァンダートの残骸が広がっている。ゴラニア大陸の半分を掌握していた大国さえも、強欲の真祖の前にはなす術もなかったらしい。ミカエルの視界に広がるのはただただ、荒涼な砂漠と同化した瓦礫の山だった。
(オアシスごと、干上がっている……か。これでは折角の肥沃な大地にはもう、命が芽吹くこともなかろうか……)
特に堆く積もった残骸はきっと、ヴァンダート城のものだろう。城跡の周辺には無数の深い竪穴が空いており、その趣にかの真祖が使った魔法が風属性の最上位魔法だと俄かに思い至るミカエル。しかし……。
(これ程までの範囲を焼き尽くすとなると……相当数の多段構築だったのだろうな。悪魔というのは、本当に……)
予想以上に恐ろしい相手なのだな。
属性の相性から、悪魔は天使には絶対に勝てないとされていた。闇属性を標準で持ち合わせる以上、圧倒的に有利な光属性を持つ天使に悪魔は抵抗する手段さえ持たないとまで言われていたし、それは神界の常識ですらあった。しかし……実際にはそうではないことを、ミカエルは既に知ってもいる。天使を前にして悪魔は必ずしも裸足で逃げ出すわけでもないし、抵抗手段を持ち得ないわけでもなかったのだ。
(今はそんなことを考えている場合でもない……か。とにかく、ハインリヒとやらに会う方が先だ)
ウリエルによれば、彼は地下に潜伏しているらしい。それは神界側のシステムを掻い潜るためだということだったが……それ以上の事情を感じ取っては、ミカエルは尚も好奇心と興味を唆られていた。何せ、地下というのは魔力の奔流が渦巻く場所であり、霊樹の不可侵領域が広がる天使にとっても未知の世界である。人間がたまに掘り起こしては魔力を無作為に貪ることもあったが、一緒に大量の瘴気をも放出してしまう事があり、その度に仕方なしに救済部門の方で浄化してやっていたりする。しかし……そのルーチンも詰まるところは人間のためだと考えると、これ程までに馬鹿馬鹿しいことはないとミカエルは尚も神界に失望の色を濃くしていた。
「ここ……か?」
「おや……あなたがウリエルさんのお友達ですか?」
「そういうお前がハインリヒ、か?」
「えぇ、そうです。こっちではハインリヒと名乗っていますよ」
思い切って飛び込んだ最も大きな竪穴の底で待っていたのは……何やら含みのある受け答えを寄越す、悪魔と思しき男。悪魔に似つかわしくない純白の毛髪に、何かを射抜くように輝く紫の瞳。見た目には凡そ、20歳前後の麗しい若者にも見えるが……しかして、相手は悪魔である。中身や実年齢は外見とは決して、一致しないだろう。
「新しい霊樹の礎を所望しているという話だったな。……これでいいか?」
「それは?」
「マナツリーの化石……言わば、霊樹の一部だ。神界から齎された霊樹は全て、マナツリーと同じ魔力構成を持っている。そして……霊樹の死骸を苗床にしてこれを埋め込めば、新しい霊樹を育てる事ができるのだよ」
「へぇ。そんな事ができるんですね。ふふ。……流石は大天使様。やっぱり、話が早い上に物知りですね。そうそう、僕が求めていたのは、まさにそれですよ」
「……要らんおべっかは不愉快だ。口を慎め」
「おや……それはそれは、失礼しました。しかし……その偉大なる大天使様がこんな所にやってくるのは、きっと悪巧みがあってのことなのでは? でなければ……悪魔の提案に乗ったりしないでしょうから」
何かを見透かしたように、肩を竦めてはハインリヒがお手上げと皮肉まじりのポーズを取る。その様子に、やはり目の前の悪魔も大天使を恐れていないと感づいては、尚も不愉快を募らせるが。しかし、彼の指摘通りミカエルにはちょっとした悪巧みがある手前、ここは辛抱だと口答えせずに平静を装う。それでなくても……翼の戒めもある以上、マナツリーに感づかれるリスクも考えねばならない。ここで怒りに駆られたところで、危ういのは自分の身ばかりだ。
「……まぁ、いい。こいつを根付かせるには、他の霊樹を犠牲にする必要がある。そして……新しく世界と神を作るとなれば、最大級の霊樹を苗床にしなければならんだろうな」
「最大級の霊樹……それはつまり、ユグドラシルを犠牲にせよということで合ってます?」
ハインリヒの驚嘆混じりの問いに、静かに頷いては同意を示すミカエル。これは、ミカエルにとっても千載一遇のチャンスである。何せ、そのユグドラシルは自身を2番目に甘んじさせている天使長・ルシフェルによって齎された霊樹だ。頂点の象徴でもあるユグドラシルを穢し、踏み潰すことが……どれ程までに、ミカエルの理想に適っている事か。
「ただし……と、これ以上をこの場で話すのは良くないか……。さて、どうしたものかな」
「心配しなくても大丈夫ですよ。……ここ、魔力のジャミングも張ってありますから」
「まさか……我らがマナツリーに縛られているのを知っているのか……?」
「えぇ。だって、天使様達は翼が白い限り、神界の監視下にあるのでしょ? だから、きちんと密会場所を整えておきましたよ。あぁ、そうそう。そのジャミングですけど。これ自体は言霊単体の呪詛の類ですから。魔力消費をしない分、魔法扱いにならないらしいですよ?」
「そうなのか?」
「ちょっとの間、一緒に生活していた森の賢者がそう言っていましたから。……間違いないかと」
呪詛の類となると、ミカエルが知っているジャミング魔法とは異なる原理らしい。彼女が知っているマジックインヴィションも認識阻害の魔法ではあるが、マナの戒めから会話を隠蔽する効果はない。そのため、ミカエルは2つの意味で震えていた。相手の知識の奥深さと、自身の歪んだ興奮とに。ミカエルの願いをこれほどまでに都合よく満たす相手との邂逅に、彼女は震えが止まらなかったのだ。天使側の知識を魔法で吸収したという情報には、確かに間違いはなかった。しかも、彼には精霊側の知識まである様子。彼であれば必要な知識も授けてくれるだろうと、ミカエルは期待も募らせる。そして……。
***
(ハインリヒはマナの化石と引き換えに、私にマジックディスペルの構築を確かに授けてくれた。その暁に、私はついにマナの戒めから解放される手段を得て、神に近づいた……はずだったのだ。それなのに……!)
シールドエデンとマジックディスペルを掛け合わせて作り出されたのは、ディスペルピッティング……対象の機能に小さな抜け道を作り、弱める魔法だった。その魔法は効果が微弱な割にはシールドエデンをベースとしている以上、相変わらず合言葉を設定する必要があるし、魔力消費も膨大だったが。裏を返せば、術者であれば取り消しができるということであり、シールドエデンの継続構築をも引き継いでいることを意味していた。その特性は当時のミカエルにしてみれば、魔法の使い勝手の悪さなど忘れても構わない程に要望を満たす効果でもあった。
そんな魔法を使って思惑通りに翼の受信部分の「戒め」だけを無効化に近い状態にまで弱めることに成功したが、しかして、今度はミカエルの前に別の障害が立ちはだかる。そう……ミカエルが新しい世界の中心に据えようと思っていた肝心のドラグニールが従わなかったのだ。彼女はミカエルの申し出を「くだらぬ」と唾棄しては、逆に彼女を諫める始末。ユグドラシルとはそもそも、役目が違うし、立場も違う。だから世界の中心になる等という驕った野心は持たぬと、ミカエルの苦悩や野望さえもを否定せしめたのだ。
(そして、私達はついに……)
ミカエルがドラグニールの懐柔に難儀している間に、マナツリーはとうとう……ルシフェルに大天使4人の粛清を命じたのだった。ルシフェルは粛清までは必要ないと、恩着せがましく抗議していたようだが……彼女の懇願で引き延ばされたのは約300年弱。その期間があっても、ミカエルがドラグニールを手中に収めることはとうとう、なかった。
そうして、無慈悲にも執行された粛清。マナツリー、延いてはゴラニアの神の意向は絶対だ。ウリエルの最後の嘆願を受け、ルシフェルが個人的な裁量でリンカネートを行使する温情こそあったものの……彼女達に突きつけられた結論は、天使長以外は「失敗作」だと生みの親に否定されたが故の、魂の放逐に他ならない。そして……ミカエルは自分には愛される価値すらないと拒絶されたと思い込んでは、世界の方こそを否定してやるのだとリンカネートの泡沫の中で誓ったのだ。
(ウリエルはすぐに見つかったが……結局、ガブリエルとラファエルは見つからなかったか。……まぁ、見つからないものは仕方ない。この際、引き立て役はウリエルだけで十分か)
屈辱の思い出にやれやれと首を振りつつ、ひたすら歩みを進め続けるが。振り払っても、薙ぎ払っても、切り裂いても……ミカエルの侵攻を尚も阻もうとする真っ黒な異形達は次から次へと湧いてくる。その抵抗をかつてのドラグニールの反抗に重ねては忌々しいと思いながらも、ミカエルはローレライの最奥に辿り着くまでの辛抱だと自分に言い聞かせていた。コントロールさえ奪ってしまえば、彼らは障害物ではなく自分の駒として機能するに違いない相手。であれば、多少の粗相は許してやってもいいだろうと、尊大に考えては尚も剣を振るい続ける。
そうして、魂と悪意の妨害を掻い潜り……ようやくやってきたのはローレライの最奥部分にして、世界の臍の1つでもある大きな魔力の風穴。穴から舞い上がっては轟々と渦巻く魔力の流れの向こうに、美しくも醜く黒光りしている果実を見つめては……ローレライは女神とやらをこんなところに封じ込めていたのかと、鼻白むミカエル。供給源を絶たれていようとも、グラディウスに作り替えられようとも。ローレライがまだ自分の世界を諦めていない事にも気づくと、今度はせせら笑うようにカレトヴルッフ片手に魔力の乱気流に突入する。しかし、乱気流の周りには得体の知れない壁が存在しており……聖剣の鋒も強か弾いては、衝撃の余波でミカエルの体ごと吹き飛ばした。
「グッ……? これは……まさか、魔防壁か?」
そんな馬鹿な。今のグラディウスはとっくに「盾」のプログラムは捨て去っていたはず。それなのに……どうして魔防壁が復活しているのだ……?
(やはり、天使は愚かだな)
「……その声は太古の女神か。この障壁はお前の手によるものか?」
(いいや、違うな。どうやら……ブリュンヒルドとやらが用意した仕組みの一部のようだ。きっと、あのガラクタは私だけではなく、お前の計画も台無しにするつもりだったのであろう……)
「どういう事……だ?」
(……さぁな。精霊のすることはよく分からん。だが……お前が首を刎ねた瞬間にこれが展開され始めたのを見ても、あれは自分に残された魔力をこちらに挿げ替えることで、霊樹ごと私を封印するつもりだったのかもしれん)
彼女の話からするに、魔防壁復活のトリガーはヴァルシラの絶命だったらしい。その答えに、してやられたと後悔しても遅いが。それでも尚、目の前には神になるための禁断の果実が燦然と仄暗く輝いているのだから、ここは力尽くでも突破せねばならない。そうして、ミカエルは最後の一仕事と堅牢な魔防壁に向き合うのだが……彼女にはその一端に触れる機会こそあれ、機神王の思慮深さを理解することはできなかった。そう……この障壁は言わば、時間稼ぎ。ヴァルシラが丁寧に構築した悪あがきの一部でしかない。




