12−24 真実の片鱗
外出先は知らないが、リヒトがいないのを良いことに……「憧れのハール様」に突撃取材を試みようと思い立つ、セバスチャン。しかし、彼の部屋には当然の如く、しっかりと鍵がかかっていて……ノックをしたところで、反応もない。
(眠っている……のか?)
リヒトの解説によると、魔法を使った後はその消耗を埋めるために、ハールはかなりの睡眠時間を要するらしい。そう言えば……部屋の壁越しとは言え、彼が起きている気配すら感じられなかった。
(こうなれば、仕方ない……! 強行突破あるのみ!)
自室が彼の部屋の隣であること、これ幸いとばかりに……ベランダからの侵入を思いつく。しかし、勢い余ってベランダに出てみるが、そこには容赦ない現実の壁が立ちはだかっていた。隣のベランダまでかなり離れている上に、壁伝いに移動しようにも、掴む場所も、足掛かりもない。しかも……。
(ここ、5階なんだよなぁ……)
眼下にはぶつかったら痛い程度では済まなさそうな、石畳の細い道が蛇行しており、更に手摺りの先に待ち構えるのは、ロマネラの渓谷が作り出す断崖絶壁。着地した先が石畳だろうと、なかろうと。……間違いなく、これは足を滑らせたら即死レベルの高さだろう。今まで気付こうともしなかったが、目の前に広がる景色は……逃亡するにしても、潜入するにしても、あまりに絶望的で風光明美な大自然でしかなかった。
さて……どうしたものか。
(上の部屋は空室だろうか……?)
横がダメなら、上から。それでもダメなら下から……そんな事を考えながら、まずは6階に上がってみようと振り向くと……そこにはいつの間にか帰ってきていたらしい、リヒトが満面の笑みで立っている。その笑みに、何かの含みを感じて神経が縮むのを感じるセバスチャン。まだ悪い事をする前なのだが、妙に言いようのない後ろめたさがある。
「おや、ミカエリス様……どうしましたか?」
差し障りのない質問に有り余る危機感を募らせながらも、セバスチャンはまだ事を起こしてはいないのだから、ある程度の言い訳は通用するだろうと必死に考える。こんな寒空で、窓を開け放つ馬鹿はまずいないだろうが……。
「あ、いやぁ〜。ちょっと空気の入れ替えをしようかな、なんて思いまして。ほら、寒いからって閉め切りでは……空気も濁っちゃいますでしょ?」
我ながらに、咄嗟の出まかせにしては上出来だと、セバスチャンは少しばかり余裕を取り戻す。寒かろうと暑かろうと、閉めっぱなしはきっと良くないはず。……多分。
「あぁ、それもそうですね。……となると、ハール様のお部屋も空気の入れ替えをして差し上げた方がいいでしょうか?」
そのハールのお部屋にまさに潜入しようとしていた事は、口が裂けても言わない方がいいだろう。彼の穏やかな返答に、その場凌ぎができたらしい事に内心、胸を撫で下ろすセバスチャン……だったが。
「しかし……ミカエリス様は、小説家よりも探偵の方が本職なのですか?」
「えっ?」
撫で下ろしたはずの胸騒ぎが、別の角度から舞い戻ってきたものだから……身体中の神経が勢い、縮み上がる。決して冬の乾燥のせいだけではない喉の渇きに、冬の寒空のせいだけではない体の震え。カラカラに乾いた喉と頭で、必死に言い繕おうにも……何故か、目の前にいたはずのリヒトの声が背後から木霊してくるものだから、状況確認さえままならない。
「フフフ、いや……あなたもよく頑張ったとは、思いますよ。リンドヘイム教としても、『ファントムバスターズ』は利用価値もありましたし。一応、言っておきますと。僕も全部、ちゃんと読んだんですよ? 『ファントムバスターズ』。それだけじゃなくて、あなたの著書は全て拝読いたしました」
「そ、そうでしたか。リヒト様みたいな教団の方にも手に取っていただけるなんて、なんて幸運な事でしょう」
「えぇ、えぇ。どれもこれも、中々に面白かったです。だけどね……それと同時に物足りないんですよ、何もかも。真実の片鱗すら持たないあなたには……やはり、事実に迫った物語を紡ぐことはできない。特に……悪魔の考察はでたらめばかりで、吐き気を催すほどに酷いものでした」
振り向いてはいけない。今、振り向けば……きっと、後悔する。表面は穏やかな口調でありながら、底冷えするような嫌悪を紛れ込ませて、最後に吐き捨てられた……拒絶の一言。何を根拠に、そこまで決めつけられるのか……は間違いなく愚問だろう。何故なら……。
「……やっぱり、リンドヘイムは悪魔が広めた宗教だったのですね……。本当、してやられましたねぇ。いや、おかしいと思ってたんですよ。だって、今まであれだけの“果たし状”を出版しても、ウンともスンとも言わなかったんですから。でも……雷鳴石のおかげで、あなたは悪魔に近しい存在だということは、ハッキリ分かりました。ご心配しなくても、僕はちゃんと……ハール様の活躍を清く正しく、伝えるつもりだったんですけどねぇ」
清く正しく……正確に。そんなハッタリ混じりの強気なセバスチャンの返答に、いよいよ滑稽だとリヒトがけたたましく高笑いし始める。そうして、振り向くことさえできないままの哀れな迷い子に……餞と言わんばかりの柔和な声色で、静かに囁く。
「いいえ? 今も昔も、リンドヘイム聖教は歴とした、天使信仰を主軸としたグレープロパガンダでしかありません。か弱く、愚かな人間達が勝手に作り出した、ただの拠り所が権威を持って一人歩きしただけの、哀れな迷い子達の群れなのです。ですから、ベースはあなた達人間が作り出した曖昧模糊な虚構でしかなかった。それをホワイトに近いグレーに昇華させてあげたのですから、感謝してほしいくらいですね」
ですから、悪魔は関係ありませんよ……と、リヒトはいかにも優しい声色で囁くが。セバスチャンには彼の吐息が悪魔の囁きにも思えて、僅かながらの反抗心を疼かせていた。
「ほぉ、そうだったんですか? てっきり、ぼかぁ……リンドヘイム聖教もまとめて、天使様を騙った悪魔の洗脳行為なんだと思っていましたけど。白状いたしますと、僕は錬金術なんて眉唾物は信じていないのです。神人合一なんて……それこそ、真っ赤な嘘なのでしょ? だって、ハール様の行は間違いなく悪魔の所業でしたもの。神様になろうという者が躊躇なく、苦しんでいる相手を屠れるはずがないでしょう」
「そう思います? ……フフフ。やっぱり正直者ですね、ミカエリス様は。僕はそういうの、嫌いじゃないですよ。だけど、どうも邪魔ですね……あなたの存在は。このまま生かしておくのは、害はなくても……煩わしい」
凍え切った神経が麻痺して、悲鳴すら枯らし始めた頃。セバスチャンは既に、自分自身の生存を諦めていた。悪魔と思われる相手に論議を吹っかけて、それでも尚、生き延びられる奇跡を信じる程……彼は神様を信じてもいない。そもそも神様を信じているのなら、あんなにも過激な「果たし状」を綿々と出版するような「背信行為」に走らなかっただろう。
それでも、今の今まで異端者として刈り取られなかったのは、「利害の一致」という名目で敷設されていたレールが同じ目的地を目指していたからに過ぎない。それがここに来て、ポイント切り替えを通過して、別の方向に走り出しただけだ。しかし、別の分岐点を選択したことは……彼に続きの道筋を再敷設する、路線復帰の可能性を残してはいなかった。
「錬金術なんてもの、僕だって信じちゃいませんよ。だって、人間達の机上の空論を完成させるには、そこそこの奇跡という魔法の粉が必要なのですから。僕達はあくまで新しい神様降臨のために、額に汗しているだけに過ぎません。願いを叶えてもらえなくて、悲しい思いをしているのは人間だけじゃありませんからね。今の神様は、僕達の願いを叶えてはくれなかった。だから、新しく都合のいい神様を作ることにした……ただ、それだけです。取捨選択を間違えた今の神様に、僕達を認めさせて後悔させたい。……本当にただ、それだけなのです」
消え入るようなその言葉が途切れると同時に、宙を舞う錯覚に襲われる。開けっ放しの窓から、まるで塵芥を放り捨てるかのように、首根っこを掴まれて放物線を辿っては……ついさっきまで頭を悩ませていた風光明美な景色が、ダイナミックに視界の中を通過していった。
あぁ、僕はついに死ぬんだ。
遥か天上の平和ボケした青空がだんだんと遠ざかっていくのを見つめながら、最後に再会が叶わなかった妹の顔を思い浮かべる。きっと、数日後には彼女に宛てた手紙が届くはず。真実を残すという、「一大プロジェクト」を成し遂げられなかった悔しさ以上に……妹の安寧を切に願う。
自分には常識も甲斐性もなかったけれど。妹という自分だけの大ファンを持てたことは、セバスチャンの一生にとって……何よりの存在証明であり、存在意義だった。それがどれ程までに、今までの彼を勇気づけてきたことか。だからこそ、心残りを敢えて述べるとすれば。そんな妹に「今までありがとう」と直接伝えられなかったこと……くらいだろうか。




