12−7 興の極み
英雄と呼ばれる若者に退治され、8つあった頭1つを辛うじて残しながら……海を渡った、龍神の成れの果て。未知なる大地・ゴラニアに足を踏み出し、息を吹き返し。無事に逃げ果せたと、ようよう安堵の息を吐く。
「すまぬな、お前達まで巻き込んでしまって。だが……この地まで逃げ果せれば、流石に追手も来るまい」
「左様ですね、龍神様。しかし、良いのですか? かような者達に、陽の国を明け渡しても……」
「かまわぬ。どうせ、相容れぬ者ぞ。新天地で新たな神として根を張るほうが、互いに都合がよかろう」
落神は自分の口内に隠して、一緒に海を渡った女神……クシヒメに頬を寄せると、彼女の従者でもある5人の巫女の無事を確かめる。英雄との一戦で瀕死だった彼女達の容態を窺うが……既にその息はほぼほぼ、絶える寸前だった。
「いくら我らが裏切ったとは言え……無慈悲な事を。何も、ここまでしなくても……」
「こうなっては、仕方あるまいか。私が彼女達の魂と禍根は預かっておこう。我が血肉と一体化した暁には……ふむ、“存在意義”だけは残してやれるかもしれん」
暫しの沈黙の後に、思い切って彼女達の骸を飲み込む落神。その瞬間に彼女達の無念を思い知る中で、新しい力が湧いてくるのも、感じ取る。
そうだ、私はこの地で新しい神となって……この絶望を礎に、新天地を支配しよう。
そんな野望を抱きながら、落神は自分の名前すらも刷新しようと……異国の言葉で、大いなる精霊を名乗ることに決めた。
「……クシヒメ。私はこれから、ヨルムンガルドと名乗ることに決めたぞ。だから……この地に他の神がいないかを確認し、もし他の神がいるのであれば、それすらも食い尽くして……全てを奪ってやる。かの地で全てを奪われた私が、今度はこの地の全てを奪い尽くしてやるのだ」
「……」
彼の呟きを逡巡し、クシヒメは少し悲しそうにヨルムンガルドの紫色の瞳を見据えている。彼女の表情が何を示すのか、ヨルムンガルドには知る由もなかったが……それでも。自分のために故郷を捨てた落神と共に歩む覚悟を抱くと、クシヒメもまた、彼と同じように天に広がる青空を仰ぎ見ていた。
それから、どのくらいの年月が経ったろうか。ヨルムンガルドはその身から、まずは2振りの刃を生み出すと……それぞれに生前の姿に因んだ色と名前を与え、自らの従者としていた。
一方、新天地・ゴラニアにも古き神がいる事を認めたが、余所者でしかなかったヨルムンガルドが突如、神を名乗り始めたのを咎めにやってきた女神・マナの神々しさは想定外であった。彼女の輝かしい美しさに、かの落神は戦う意識さえも持てぬまま、次第に彼女にも恋い焦がれるようになっていく。しかし、糟糠の妻・クシヒメも失いたくないヨルムンガルドは……どちらかを選択するなどと思い切ったこともできずに、「彼女達」を伴侶とするべく、その身を削り始めた。
そうして、気の遠くなるような回数の脱皮の末に、とうとう彼女達と交わるための理性の姿を獲得するに至る。その並々ならぬ努力と、目まぐるしい変化の様子を……天上から興味津々で見つめていたマナにとっても、彼の直向きさは新鮮なものだったらしい。無事、美しい仮初の姿と2人の心を得た彼は天上と地上とを行き来しながら、彼女達との蜜月を謳歌していたが。女神達が互いにどんな思いを抱いているのかまでは、当然の如く、配慮していなかった。
***
「……ヨルムンガルド様。よろしゅうございますか?」
「どうした、クシヒメ?」
「……実は、最近腹のあたりが重たく感じることがあるのです。おそらく……」
「おぉ! クシヒメ、それは誠か? もしや、それは私の……」
「えぇ、おそらく。あなた様のお子になるかと、存じます」
「そうか、そうか。ならば、大事にせねばならんな。そうだ、クシヒメ。何か欲しいものはないか?」
「でしたら……私はあなた様を独り占めしたいと考えております。……私が子を産み落とした暁には、我が元に居てくださると、約束してくださいまし」
「う、うむ……そうだな。我が子が生まれたからには……クシヒメの元に住まうがよいかも知れんな……」
***
「ヨルムンガルド、良いか?」
「うむ? どうした、マナ」
「実は……妾の腹に、別の命がおるようなのだ」
「……別の命?」
「そうだ。おそらく……お主の子であろう」
「そ、そうか! それで、マナはその子を産み落としてくれるつもりなのか?」
「無論じゃ! だからの、ヨルムンガルド。妾が子を生した末には……ここで一緒に住むのはどうか。妾にこれ以上、寂しい思いはさせないでおくれ」
「そ、そうだな……。我が子が生まれたからには、マナの元に住まうがよいかも知れんな……」
***
さぁ、困ったぞ。2人の妻が同時に子を身篭った挙句に……同じように自分を「独り占め」することを望んでいるなんて。
そんな事を露にも考えなかったヨルムンガルドにとって、彼女達の望みは文字通り、身を裂く苦悩でしかなかった。それでなくても、それぞれに魅力的で美しい彼女達を片方だけ選ぶなど、到底できぬ事。
(うむむ……どうすれば良いのだ? まさか、2人とも我が子を身籠るとは……)
流石の浮気者も、この窮地には頭を抱え込む。3人で暮らすことも、選択肢に十分入るのだろうが……彼女達の様子を見ていても、それは難しい気がする。それでも、やってみなければ分からぬと、とある日……ヨルムンガルドは1つの決心と共に、クシヒメを伴って天上へ舞い上がった。
「……ほぅ? そなたも、ヨルムンガルドが子を宿しておると?」
「左様に。私の身には、愛しい命が宿っておりまする」
「で、でな……クシヒメにマナ。私としては両方大事な存在故、ここは思い切って……全員揃って暮らしたいのだ。だから……」
「ほぅ? ヨルムンガルドは妾に散々、寂しい思いをさせて尚……そのような腑抜けた事を申すのか?」
「それはこちらのセリフでございます。……私もヨルムンガルド様がこちらにお邪魔している間は、身も千々になるほどに寂しゅう思いをして参りました」
やはり微妙に相容れぬ刺々しさを纏いながら、互いに睨み合うクシヒメとマナ。そうして、無限に続くのではなかろうかと、錯覚するほどに長く感じられた膠着の末に……クシヒメが、打開策を提案し始める。
「……今はかようなことで争っている場合ではないでしょう。互いに産み落とすべき命がある身故……しばらくは今まで通り、天と地とで暮らす方がよいかと。その上で……どちらの子供を世継ぎにするかを、御前様に決めて頂くのがいいでしょう」
「ほぉ、なるほどな。確かに……妾も自分だけの身ではない故、神経に障る面倒事は避けたい。ならば……その勝負、受けて立とうぞ。白黒ハッキリ付けた方が、後腐れもなくてよかろう」
それはただ、問題を後回しにしただけの一時的な暫定処理でしかなく……根本的な解決にはならない。しかし、彼女達が互いに一旦は納得したのであれば、それはそれでいいかと……当事者であり、最大の元凶のはずのヨルムンガルドはどこまでも他人事のように考えていた。
***
「……何? その汚いラブストーリー……」
(ホホ、これを否定してくるとなると……若は随分と、純朴ですからに。悪魔にとって、浮気は当たり前の所業であろ?)
「いや、確かに……俺も取っ替え引っ替えはあったけど。決まった相手がいるなら、それは反則だろーよ……」
(左様で? おやおや。若はあいも変わらず、真面目でございますね?)
自分の生みの親の恋愛を汚いと否定しながら、マモンが難しい顔をしている。しかし、彼の「取っ替え引っ替え」もかなり反則だと思うし、そんなことをしている時点で、純朴も何もないと思うが。……魔界にあってはマモンの感覚はまだマシだと、割り切るべきか。
(フフフフ……ウブな若に汚い言葉を浴びせられるのはやはり、興の極みでありますな。きちんと知る限りは、お話しして差し上げます故……若、是非にお代わりのご準備をば)
「まだ、足りないのか? ……俺は未だに、お前の思考回路に付いていけないんだけど」
「ハィ……僕もちょっと分からないです」
「うん、よく分からないですよぅ」
「おいら、酷いことを言われるよりは……撫でて欲しいです!」
「あぁ〜ん……私はちょっと罵られてみたいでしゅ……」
「……ハイハイ、ハンスは十六夜と同類なのな。ったく……纏めて色々と面倒クセェな、お前らは……」
小悪魔達と戯れ合うマモンを、隣でニコニコしているリッテルを見るに……彼女もとっくに了承済みと、腹に落とし込んでいることが窺える。その一連の様子に、悪魔が自分だけを見つめてくれるというのは、貴重なことなのかも知れないと、ついつい左薬指の指輪を摩ってしまうが。こんな事だったら、ハーヴェンにもついて来てもらうんだった。
(まぁ、それはさておき……2人の女神が産み落としたお子のうち、きちんと生を受けられたのは、クシヒメ様のお子・リヴァイアタン様のみぞ。元々、異国の女神にヨルムンガルド様の種を宿すための苗床がないのは、当然の道理というもの。そうして、マナに勝利したクシヒメ様はついぞ、ヨルムンガルド様が正妻の地位を確固たるものにしたのだが……クシヒメ様は元は巫故、力ある女神ではなくての。自身の子を失った悲嘆と、敗北の屈辱で怒り狂ったマナにその身を滅ぼされ、魂を永久に放逐されてしまったのじゃ……)
浮気龍神のせいで殺されてしまった女神の身の上に、いよいよ同情してやりたくなる。しかも、その元凶と言えば、のうのうと生き延びた挙句に……浮気性を改める事もないなんて。
そんな事を沸々と考えていると、相当に険しい顔をしてしまっていたらしい。興味津々とばかりに、十六夜丸が軽い調子で話しかけてくる。
(おやおや。そちもまた……随分と純朴よの。この程度のことでそう、カッカするでない)
「この程度のことで、って……これを怒らずしていられますか? ヨルムンガルドの浮気性のせいで、クシヒメ様は落ち度もないのに、殺されてしまったのでしょう? それなのに……」
(まぁ、落ち着け、天使。それも仕方なき事なのじゃ。クシヒメ様は自分のお子しか生き残れないと知っていた上で、そのような提案をしていた部分もあったのだし、意地悪をした結果なのだと思えば……因果応報であろ。初めから敗北が決まっていた時点で、マナにも同情の余地はあるというもの)
おや? そうなるのか? だとすると……存外、クシヒメ様とやらも意地が悪い気がするな。
(無論、ヨルムンガルド様が1番悪いとは我も思うのだが、かの大いなる精霊に“本当の意味で”意見できる者など皆無ぞ。神の世界は強者が統べる、実力主義がまかり通る世だった故。弱い者が食い尽くされるのは、自然の摂理というものだ。……それを否定するなどと、おこがましいことはやめておけ。そちの怒りは我も理解してやりたいが、ここで感情を滾らせても無意味であろ?)
うぐ……変態だとばかり思っていたが、意外と正論を吐いてくるじゃないか。あろう事か、変態に手慣れたように言いくるめられてしまい、仕方なしにこれも自然の摂理と割り切る。確かに、今は無駄に怒っている場合でもない。
(……さてさて。兎にも角にも、こうなったら勢いぞ。その後、どうなったのか……終いまで話してしまおうかの)
きっと私が納得していないにしても、理解した事を感じ取ったのだろう。十六夜丸が厳かな口調で、続きを語り出す。話の大筋自体は、私も触り程度は知っている内容だったが。語られた追加情報は、悪魔の概念を少しだけ覆すものだった。




