11−45 完全無欠なる世界
つくづく思い通りにいかない現状に、苛立ちと嫌悪感を覚えながら。「あの方」は何かから逃げ出す様に、視界すらも真っ白な空間で物思いに耽っていた。全てを遮断し、自分だけの空間に引き籠もっては忌々しい現状を嘆きながら、親指を爪齧る。しかし、誰もいないはずの空間で彼女の背に声をかける者がいて。……そこにはいつの間にか、白い空間を墨染めにする、輪郭も曖昧な黒い怪物が立っていた。
「……言ったろう? 世界はお前のためだけにあるのではない。全てがお前の思う通りに運ばぬと……全てを支配するのは最初から不可能だったのだと、なぜ理解しない?」
「口を慎め、ハミュエル。……偽物のお前に、そんな事を言われたくはないわ」
「……そうか? 私に言わせれば、お前こそが偽物に見えるがな?」
「言わせておけば……‼︎」
八つ当たりにも近い縛を受けながらも、黒い怪物……ハミュエルは、視線を逸らさない。縛を伝って、確かに感じる彼女の神経の昂りと、明らかな焦りを嗅ぎ取って。ハミュエルは痛みを振り払いながらも、冷静に目の前の相手を見据えていた。
「元から不可能なのだ。我々は神ではない。あくまで、代行者に過ぎぬ。神に成り済まそうなど、身に余る所業ぞ」
「フン、お前と私を一緒にするな。それに、私は神に成り代わろうとしているのではない。私は新しい神を作ろうとしているに過ぎぬ。新しい完全無欠なる世界を作り、新しい神と正しい世界を築く。私はそこで、新たなる神の母となるのだ」
……おこがましい事を。ハミュエルは明らかな強がりに嘆息しながら、尚も言葉を続ける。
「結局は全てを掌握したいがための、世迷言。それは偏に、虚ろな箱庭を作る方便にしか聞こえぬ」
自分にとって正しい者、自分にとって都合の良い者。それだけを残した世界に、何の意味がある? そんな世界に、何の存在意義を見る?
人間も精霊も、天使も悪魔も。全てはいがみ合うために生まれてきたのではない。分かり合うために存在する。互いに違うからこそ……互いに都合が悪い部分があるからこそ。手を取り合い、互いの存在を認め合う事に価値が生まれる。
ハミュエルは化け物に身を窶しても、未だに「分かり合える事」を信じている。それが例え、傷を負った傲慢な魂だったとしても。ハミュエルは目の前の「彼女」と分かり合おうと、言葉を重ねるが。
「……かのダッチェルだとて、そうだろう。彼女はただ、お前にとって都合の良い者でいる事をやめただけ。お前が彼女の本心を理解しようとしなかったが故に、反旗を翻したに過ぎぬ。お前は何を望んでいるのだ? そのままでは本当に……隠すまでもなく、その名を呼んでくれる者もいなくなるぞ」
「黙れ! 黙れ黙れ……黙れぇッ‼︎」
ハミュエルの指摘に、思い当たる事があるのだろう。ますます猛り狂う、「あの方」。そんな彼女の脳裏には……最後まで自分の思い通りにならなかった、裏切り者の悲しげな呟きがこびり付いている。
《どんなに綺麗事を並べたって、理想には到底届きやしない》
「風穴」越しで呟いた彼女の真意を不本意ながら理解すると、その言葉にいよいよ余程の勘所を突かれたらしい。激しい怒りと共に、八翼の堕天使が振り向きざまに右手を上げると、ハミュエルの黒い体を無数の白い槍が貫く。所謂思念体とはいえ、未だに形を持つハミュエルにとって、その攻撃は激痛以外の何物でもなかったが……それでも、尚。彼女を諭そうと、辛抱強く説得を試みる。
「いくら怒ろうと、いくら絶望しようと……今のままでは、お前は孤独でしかない。これから先も、そんな風に自分を苦しめようと言うのか? 潮時はとっくに迎えておろうぞ。そろそろ、全てを赦してやっても……よかろう?」
「知った口を利くな! たかが500年程度の時しか知らぬお前に、何が分かる⁉︎ 我が苦痛の何を理解できると言うのだッ⁉︎」
「確かに、私にはそなたの苦痛を理解する事はできぬだろう。だが、話を聞いてやる事はできる。悲しみを受け止める事くらいはできようぞ。……だから、自分を孤独に追い込むな。必要以上に、自分の名前を……忘れようとするな」
「忘れる……だと? ハッ、何を言う! 我が名は誰彼構わず、気安く呼ばせるためにあるのではない! その名は我が神のためだけに存在する、崇高なる言霊ぞ。そのうち、誰もが我が名を忘れられなくなるだろう。我が名はついぞの暁には、最上位の祝詞として畏怖される事になる! お前の方こそ、無駄な讒言を慎め。我が世界の苗床を用意するためだけに、生きていれば良いのだ!」
一気に捲し立てたところで、どこか悲しそうな顔をした後に……すぐにいつもの涼しい顔に戻る堕天使。その様子に今回の説得は失敗したようだと、ハミュエルは痛みを受け流しながら息を吐く。
「まぁ、いいか。お前の世迷言はそれこそ、今に始まった事でもない。それにな、新しい神の生誕準備は着々と進んでおる。後は、神の御霊さえ見つければ……」
「……」
神の御霊とやらの中身は、ハミュエルでも見当がつかない。それでも、彼女の口ぶりから……それが特殊な存在の魂である事はなんとなく、予想できる。やはり、神の降誕にはそれなりの「素材」が必要だということなのだろう。
(本当に、愚かな事を。その神だって……自分の意思通りに動く保証はないだろうに)
不気味な表情を見つめながら……名前さえも捨てようとしている、哀れな堕天使にかけてやれる言葉が見当たらない。名前を呼ばれるのは、何よりも大切なのに。名前を呼んでくれる相手がいるのは、何よりも幸運な事なのに。目の前の彼女は、それすらも捨てようとしている。
そうして、全てを捨て切った彼女に残された世界が、果たして完全無欠なる世界とやらになり得るのか? ハミュエルには彼女の思想は到底、理解できなかったし……理解したくもなかった。




