11−38 悪い子になり切る前に
お帰りなさいの挨拶をしたのも、束の間。何やら怒っているらしいエリックの様子に只ならぬものを感じながら、ユーリアは夕食の準備を進めるものの。彼は娘達に話があるらしく、彼女達をテーブルに呼び寄せては、難しい顔をしている。普段の気弱な夫の表情からは似ても似つかない険しい表情に、強気なユーリアも不安にならざるを得ないが……一体、何があったのだろう?
「……ティティア、ネリー。よく聞いて。昨日、お前達が持っていたクッキーは本当に“貰ったもの”だったのか?」
「えっ……どうして、そんな事を聞くの?」
「あの、クッキーはお姉ちゃんがもらったんだよ? 本当だよ?」
「……そうか。本当に貰ったんだね? 無理やり誰かから取り上げたんじゃないんだね?」
「……」
「あ、えっと……」
エリックの詰問するような言葉に、思わず黙り込む2人の娘達。どうやら彼女達の「貰った」の意味するところは違う意図だったらしい。……娘達の様子に1つの事実を悟ると、エリックは今度は悲しそうにため息をつく。
「あなた……どうしたの? 昨日のクッキーが何か、問題でも?」
「……今日ね、市役所に例の神父様がお見えになったのだけど。昨日の面談内容が散々だったらしくて、ミカエリスさんをスカウトに来ていたんだ。それで……その話の中で、どうもユーリアが断られたのは、この子達のせいだった事も分かってね……」
「どういう事……?」
ユーリアにしても、そんな事は初耳である。不採用となったのは、あくまで自分だけの問題だと思っていたのだが……。
「うん。実は昨日の面談は本人のみを対象にしていたとかで、子供同伴は反則だったみたいなんだ。しかも、頼まれもしないのに、勝手にやってきた子供達が孤児達のおやつを横取りしていたとかで……とても嘆いておられてね。神父様曰く、自分の子供に最低限の躾もできない人に、お仕事をお願いするわけにはいかないという事だった」
「なんですって……?」
子供同伴が反則だったことは、さておき。夫の呟きに、愕然とするユーリア。娘達は最低限の躾さえされていないと指摘された事以上に、娘達が「おやつの横取り」等という暴挙をしでかした挙句、嘘までついていたなんて。
「……その話を聞いた時、僕は情けなくてね。まさか、自分の娘達が孤児達のおやつを取り上げるなんて、乱暴な事をしでかしているなんて思いもしなくて。……本当に、神父様になんて詫びればいいのか、分からなかったよ……」
「ティティア……それ、本当? あの時、ママも貰ったって聞いたから、そんなものかなと思っていたけど……。あなた、あのクッキー、誰かから取り上げたの?」
「別にそうじゃないもん……。ちょうだいって何度も言って、お願いしただけだもん……」
「何度も……って事は、何回かは断られたんだよね? それは、しつこく言ったって事かな?」
「ゔ……だって、美味しそうなクッキーだったんだもん! ママに孤児院に一緒に行けば、おやつを貰えるって聞いてたのに、貰えなかったんだもん! だから、ちょうだいってお願いしたんだもん!」
「……でも、お姉ちゃん。……あの子、喋れないみたいだったよ?」
「あっ……」
クッキーを分けてもらっていたはずのネリーもそんな事を言い出したものだから、エリックはもとより、ユーリアも居た堪れない気分になる。両親の悲しそうな顔と寂しそうな空気に、いよいよ耐え切れず……ティティアが涙まじりで、自分の言い分を訴え始めた。
「でも、私だけじゃないもん! 他の子もみんな、あの子達からおやつを取り上げてたもん! どうして、私だけ怒られないといけないの? どうして、私だけ我慢しないといけないの⁉︎」
「みんながそうしていたからといって、自分も同じようにしていいわけじゃないんだよ。確かに、お前達におやつを満足に食べさせてあげることさえできないのは、僕のせいでもあるだろう。だけどね、だからと言って無理やり誰かのおやつを取り上げていいわけないんだよ。分からないかい? ティティアだって、自分のおやつを取り上げられたら、悲しいだろう? 自分がされたら悲しい事を、誰かにしたらいけないとは思わないか?」
「それは、そうかも知れないけど……でも、食べたかったんだもん! どうしてもクッキー、欲しかったんだもん!」
食べたかった。欲しかった。ただそれだけの理由だったとしても、誰かから奪っていいわけではない。そして……そんな彼女達のささやかな要求さえ満たしてやれない現状が、つくづく遣る瀬ない。
「……そう。昨日はそんな事があったのね。私も面談の結果に気を取られて、気付きもしなかったわ。……ティティア、いいこと。パパもママももちろん、意地悪で言っているのではないのよ? 欲しいからといって、自分より弱い相手から何かを取り上げるのは、とっても良くない事なの。だから、あなたが悪い子になり切る前に……まだ間に合ううちに、それが悪い事なんだって知って欲しいの。していい事と悪い事があるのを、知って欲しい。ただ、それだけなのよ。いいわね?」
ユーリアが言い含めるようにティティアに話しかけるが、唇を噛み締めながら悔しそうな顔をしているのを見る限り……あまり納得していないようだ。とは言え、必要な話ができてエリックは少しだけ気分が楽になったのを、感じていた。彼女達にはこれからも辛抱強く言い聞かせなければいけないだろうが、ユーリアも一緒に問題に向き合ってくれたのは大きい。
確かに、この街の中だけでも覆せない理不尽はたくさんある。それこそ、区長の横暴だってその一部だ。もちろん、理不尽が生み出す格差に腹が立つこともあるし、妬ましいこともある。だけど……だからといって、身内の「悪い事」を許容できる程までに、エリックは腐敗もしてはいなかった。
「さて、お話はこのくらいにして……ユーリア。疲れているところ悪いけど、夕食の準備をお願いできる?」
「えぇ、もちろんよ。今日も大したメニューじゃないけど……それでも家族揃って食事ができるのは、何よりも幸せな事だと思うわ」
何かを締めくくるようなユーリアの言葉の意味を噛みしめながら、エリックはハタと明日からお隣さんがいなくなっている事に気づく。だとすれば……彼女の分まで仕事をこなせば、多少は給金が増えるだろうか。ほんの少しでいい。それこそ、たまに娘達にクッキーを用意してやれるくらいの余裕さえあれば。僅かであっても、申し訳程度の余裕がありさえすれば……娘達に「悪い事」をさせなくて済むかも知れない。
そこまで考えると、エリックは少しだけ仕事に前向きに……今まで以上に何かに頑張れそうな気がしていた。




