11−35 食べ物の恨みは恐ろしい
「ない! ない! ない! 確か、ここにあったはずなのに……」
「風穴」の話をして部屋に戻ってみれば、机の上……正しくは悪魔人形の横……に置いてあった夕焼け色の瓶が、忽然と姿を消している。例の件が少々込み入った話だったこともあり、甘酸っぱいジャムを入れてお茶を楽しもうと思っていたのに……。
「どこに行ったのだろう? う〜ん、ポーチには入っていない……よな……」
机の下を覗いても、転がっているかもと床を確認しても、それらしい色合いのものが見当たらない。そうして目を凝らしていると、俄かに見慣れた輝きがドアの外に落ちているのが、見えた。
(これは瓶の蓋……)
蓋だけが転がっているという事は、要するに……誰かが夕焼け色を持ち出して、開けたという事で……。
「あぁぁぁぁぁ! どこのどいつだ、私のジャムを盗み食いしたのはぁッ⁉︎ こうなったら……!」
手元に記録帳を呼び出すと、大天使権限で告知ページを開き、内容を書き込む。重要フラグを立ててまで周知する内容ではない気もするが、仕事の燃料を取り上げられたのだから、私としては完全に緊急事態だ。犯人を追求しないと、気が済まない。
……興奮気味の内容を書き込んで待つ事、数分。意外にも、心当たりがあるとルシフェル様から返事が来た。内容を素早く目で追えば、既に犯人も捕縛済みとあるではないか。これはすぐにでも現場に急行せねばと、居ても立っても居られず、勇んでエントランスに乗り込むものの。そこには、少々見慣れない顔があって……明らかに私に怯えた様子を見せている。
「……すまぬ、ルシエル。先ほど、鉄門内部に封印を施したと申したが。その影響で、少し余裕ができたらしくて……不完全ではあるが、マナが分身を作っていてな……」
「分身……?」
ルシフェル様が示す先には、幼い女の子が蹲っている。薄衣のローブに、グリーンの髪の毛と瞳。ローブの下に透けるその肌は、淡い萌黄色をしており……僅かに発光しているように見えるが。彼女の腕が抱えているのは、紛れもなく……。
「ジャムの瓶……ですよね? それ」
「あ、ぅ」
「……私はジャムを差し上げた記憶はございませんが……?」
「はぅぅ、その……」
……そうか、そうか。こいつが犯人か。
「……お前が私のジャムを盗んだのかッ! 許さん……許さんぞ! マナの化身とは言え、絶対に許さん‼︎ 我の元に来たれ、ロンギヌス!」
「はわわわわ! ちょ、ちょっと待つのだ! 妾は何も……!」
「問答無用! 素行の悪さも含めて、徹底的に叩き直してくれる!」
「ルシエル! 待て待て! 待つのだ! ここでロンギヌスを振り回すでない! これには私がキツく灸を据えておく故、とにかく落ち着け!」
「ほほぉ〜? ルシフェル様も一緒に成敗されたいんですか……? 例のラブレターの件、周知しますよ……?」
「なっ⁉︎ それとこれとは、関係なかろう⁉︎」
「そうされたくなかったら、そこ……どいて下さいませ」
「ルシエル……! お前はいつからそんなに、器用に笑顔を作れるようになったのだ……?」
恫喝まじりでシフェル様に撤退していただき、いよいよ涙目になっている犯人に向き直る。さて、ここはオーソドックスに……。
「あぁ〜! ギブギブ! ルシエル、ギブなのだ!」
「うるさいッ! 2度と盗み食いどころか、化身を作れぬように徹底的に懲らしめてくれる! 食べ物の恨みは恐ろしいと、思い知れ!」
結局、ロンギヌスを使う事なく、小さな女神を膝の上に抱えて力一杯、お尻ペンペンを敢行する。自分でも大人気ないとは思うのだが、あのジャムはハーヴェンが「ご褒美」に用意してくれた大切な思い出で……その大事な物を奪った罪状を許容できるほど、私は無欲でもなかった。
尚、一頻りのお仕置きをやらかした末に、神界で怒らせると最も怖いのは私だという観念が定着したのは、言うまでもない。
「……それで? わざわざ化身をお寄越しになった理由は何ですか? ジャムの盗み食いに出てきたわけではないんですよね?」
「あ、あぁ……本当にすまぬな、ルシエル……。実はマナとしても置けない状況が発生しているようで、慌てて化身を作ったようなのだが」
「捨て置けない状況……ですか?」
私の剣幕にすっかり怯え切ったマナを背後に庇いながら、ルシフェル様が言い訳混じりの話を続ける。空き瓶だけ返却されても、怒りが治まるはずもないのだが。素直に話を聞くべきか。
「どうやらな……魔界のヨルムンガルドが、天使に手を出したようなのだ」
「……今、何と?」
「状況はよく分からんのだが、昨日リッテルと魔界に向かわせた9名の天使が耐性込みで帰ってきて……話を聞けば、彼女達はマモンとリッテルの反対を押し切って、一緒にヨルムンガルドと……その。風呂に入ったらしくてな。……結果、延長上でそういう事をしてきたらしい……」
「ヨルムンガルドって……ヨルムツリーの元になった男神でしたよね? それが今更……天使に手を出した、ですか⁇」
「あやつは元々、浮気者の男神じゃ。妾と言うモノがありながら、他の女に手を出しおってからに……!」
何やら、男神の罪状に思うところがあるらしい。マナがルシフェル様の影に隠れたままで、悔しそうに呟く。それにしても……口調といい、無駄に偉そうなところいい。どこぞの生意気な小娘と雰囲気が同じなものだから、必要以上にイライラしなければいけないのも、腹立たしい。
「……確かに、妾の気を引くためにオリエント生まれの田舎龍神が人の形を取るようになったのは、褒めてやろうて! だが、受け入れてやったのに他の女神に現を抜かしおってからに! その裏切りに、妾はどれだけ傷ついたと思っておるのだ……!」
「他の女神?」
どういう事だ? ゴラニアの神はたった1人……マナの女神だけだと思っていたのだが。他にも……女神がいたのか? そうして私が考え込んでいると、その疑問に答えるように、ルシフェル様が話の続きを語り出す。どうやら、始まりの物語には私達が知らされていた内容以上に、複雑な事情があったようだ。
「マナの話を聞く限り、ヨルムンガルドはオリエントから落ち延びた際に、1人の女神と女官5人を伴っていて……彼女達は、ヨルムンガルドの前身でもある龍神を鎮めるための巫であったらしいのだが。ヨルムンガルドは彼女達とも、それなりの関係を築いていたみたいだな」
そもそも、「ヨルムンガルド」も彼がゴラニアにやって来てからの名前だそうで。「大いなる精霊」を意味する言葉なのだとか。それはそうと……「それなりの関係」って、どんな関係だろうな。……まぁ、そこは深く考えなくていいか……。
「それはさておき。無論、元の姿ではコトには及べぬ故、その女神とも踏み込んだ関係になったのは、マナと関係を持った時と同時期だろうが、ヨルムンガンドが得た理性の姿は、マナは言うまでもなく……彼女をも忽ち魅了する程に秀麗なものだったそうだ」
「因みにな。アレの姿はつい最近記録された、マモンというのにそっくりなのだ。……妾は色々と複雑な気分ぞ」
マモンにそっくり……。この場合は、マモンがヨルムンガルドにそっくりだと言うべきなのだろうが。そうなると、ヨルムンガンドはわざわざ自分に似せて、マモンを作ったという事か。確かにあの見た目であれば、かなりの相手……特に揃いも揃って面食いの天使達……は簡単に籠絡できるかもしれない。
「結果としてマナと同時に、その女神も子供を身籠ってな。そして、彼女が産み落としたのが……リヴァイアタンだったそうだ」
「……はい?」
「驚くよな、それは。しかも、マナの産んだ子供はすぐに息を引き取ったが、リヴァイアタンは辛うじて生き残ってな。当然ながら、マナにはそれが面白くない。そうしてマナは怒りの矛先をヨルムンガルドではなく、女神の方に向けて……彼女を滅ぼしたそうだ」
相手を滅ぼした……。何もそこまでしなくてもいいと思うのだが、目の前の子供女神にそこまでさせるとは……浮気というのは、それなりの罪になるようだ。
とは言え、ヨルムンガンドが間違いなく悪いと思うし、私ももしハーヴェンが浮気をしたら、矛先を彼ではなく浮気相手に向けそうな気がする。それこそ、相手を殺してしまいたくなる程に……怒り狂うかもしれない。
「ヨルムンガルドはその仕打ちからマナを恨み、恐れるようになってな。マナはそこまでして繫ぎとめたかった男神が去った事に悲嘆し、泣き続けて……この神界に根を下ろし、始まりの天使を生み出し、霊樹を実らせた。一方でヨルムンガルドはリヴァイアタンを連れて地底に潜り、魔界と真祖を作り上げた……と、話の大筋と変わらんが。女神の魂と女官達がどこに行ったのかは、分からぬままだ」
始まりは違えど、結果は概ね知っての通り……か。だが、もう1人の女神がいたという事実は、かなり重要な違いだろう。
「しかし、どうも……ヨルムンガルドの浮気癖と女癖の悪さは治っていなかったみたいでな。それが昨日の顛末とあって、マナの方も勢いで化身を作ったはいいものの……何分、余力がなさ過ぎて腹を空かせていたらしい。それで……お前のジャムに手を出した、と」
私が昔話に想いを馳せていると、話の流れがジャムの盗み食いに戻ってくる。確かに、天使達が「あんな事やこんな事」を致してしまったのは大問題であろうし、相手が相手だけに、マナが焦るのも無理はないが。
「あぁ、そういう事ですか……? 余力もないくせに、出しゃばった挙句……私のジャムを盗み食いしたと……?」
要するに、そういう事だよな? 嫉妬に駆られるのは勝手にしてくれて構わないが、ジャムを道連れにする必要はないだろう?
「わ、妾とて盗み食いは良くないのは、分かっておる! だが……化身を作った瞬間から、この腹がグーグーと鳴るのだ……。そんな中、丁度よくお前の部屋に食べ物があったものだから……つい……」
「それ……交換リストから食べ物を取り出すという選択肢はなかったのですか?」
「あっ……」
私の当然の指摘に固まる、マナとルシフェル様。その間抜け面が、とにかく許しがたい。
「選りに選って……ハーヴェンが作ってくれたジャムを、情けない理由で盗み食いしおって……! あのジャムは交換リストにもないのに……!」
「す、すまぬ、ルシエル! 本当にすまぬ! と、とにかく私も若造に材料込みで誠心誠意頼みに行く故、許してやってくれぬか!」
きっとハーヴェンはお願いすれば、快くジャムを作ってはくれるだろう。だけど……今すぐに食べたいと言う私の欲望を満たすのは、彼でも無理だ。その結果……この場であの夕焼け色がお預けになる事は、確定したが。こんな事なら、我慢せずにサッサと食べてしまうんだった。




