10−13 追憶越え
随分と愉快な事があったらしく、出かけて行った理由とは裏腹に……上機嫌で部屋に帰ってきた女帝・アスモデウス。そんな彼女に抜かりなく椅子を用意しながら、ジェイドが上機嫌の理由を尋ねる。
「随分とご機嫌っすね。何があったんすか?」
「もう、マモンが可愛すぎて、最高に面白かったわ」
「マモン様が可愛い……っすか?」
普段から手厳しい稽古を受けている身としては、あの剣豪に可愛い要素を見いだす事ができない。
確かにリッテルが帰ってきてからは、更に角が取れた印象はあったが……大抵は気難しい彼の、どこが可愛いと言うのだろう。
「マモンったら、今日はお嫁さんと人間界に遊びに行ってきたらしいんだけど。アッハハハ、向こうで目立つといけないからとかって、可愛いお洋服に着替えたみたいで。お嫁さん的には、帽子とネクタイがキュートらしいわよ」
「そういう事っすか。マモン様もリッテル様にだけは甘いっすからね。それにしても、人間界にお出かけかぁ……。俺も興味があるっすね」
「そう? 私はごめんだわ。こっちにやって来る獲物の質を見ても、どいつもこいつも低レベルで……闇堕ちするくらいに振り切れるような奴じゃないと、物足りないわね。……どうせ、人間なんて下らない奴らばっかりなんでしょうし。わざわざ人間界に行きたいだなんて、私には理解できないわ……って、そう言えば。……そのお嫁さんにアーニャの事を聞き出すの、忘れてた……」
勝手に天使と契約し、出て行ったアーニャの行方を聞き出そうと、怒り交じりで出て行ったものの。……ハタと目的を達成せずに帰ってきてしまった事に気づく、アスモデウス。しかし、それすらも上塗りするくらいにマモンの従順っぷりが愉快だった彼女にとって、アーニャの処遇はどうでもいいものに成り下がっていた。
「まぁ、いいわ。どうせアーニャは使い物にならなかったし、探し出しても使い道もないかしら。……ったく、いつまでも思い出に縋って、みっともないったらありゃしない。どうせ、何かを思い出しかけたんでしょうけど、私には関係ないわ。ただ……追憶の試練を受けさせるの自体は、悪くないわね。考えたら、追憶越えしている配下は超レア物だし。そろそろ、私も欲しいかも」
「あっ……なんか、すんません……」
追憶越え……それは追憶の試練を達成して、生前の記憶を全て取り戻した上級悪魔を指す言葉だ。
しかし、試練の成功率は決して高いとは言えず、根本的に辛い思いをする事を嫌う彼らにとって、かなりのリスクを伴う試練を受ける選択肢は候補にすらならない事も多い。そのため、試練達成者は非常に貴重な存在として見なされる傾向があり、彼らの存在はそのまま各真祖の権威に直結する。
マモンの様に、真祖単体でも威光を発揮できる場合は話は別だが。他の真祖は水面下で追憶越えの有無をそこはかとなく競っており……特に自己顕示欲も強いサタンは、配下から追憶越えを出そうと常々、躍起になっていた。
「追憶越えって今の所、3人くらいしかいないのよねぇ。サタンの所のアドラメレクに、ベルフェゴールの所のオリエンタルデヴィルと、後はベルゼブブの所のエルダーウコバクかしら? サタンは当然として、他の2人も意外と配下の試練達成が嬉しかったみたいだし……私もちょっと羨ましいかも」
「そうなんすか? ベルフェゴール様はオリエンタルデヴィル様にメロメロみたいだから、分かるけど……あの能天気なベルゼブブ様もっすか?」
「えぇ。ほら、特に暴食の悪魔ってそもそも、中級悪魔までしかいなかったじゃない? コボルトとウコバクは下級悪魔だし、ウェアウルフもオツムが足りなくて、中級がやっとだし……」
自己顕示欲が薄く、普段からのほほんとしているベルゼブブだからこそ、配下が軒並み中級悪魔止まりであっても、彼自身に焦りはなかったようだが。初の上級悪魔が、追憶越えまでしたともなれば。基本的に権力に無頓着なベルゼブブでも、嬉しいものは嬉しい。
「そう言えば、そうでした。そうそう、そのエルダーウコバク様とこの間、ちょっとお手合わせしてもらったんすけど……いや〜、マジで強かったっす。武器の扱いも、魔法のキレも、ちょっとやそっとのレベルじゃないっすよ、あれ。追憶越えすると、グンと強くなれるんすかね?」
「まぁ……エルダーウコバクは特殊だから、元から結構なレベルだったみたいだけど。追憶越えすれば格段に強くなるのは、間違いないわね。あ、でも……追憶越えすると態度もデカくなるみたいだから、それはそれで考えものかしら?」
「あぁ、確かに……。特にヤーティ様はサタン様を差し置いて、こちらが真祖なんじゃないかとか言われてますし……それは一理あるっすね」
「そうよね〜……ま。とりあえず、アーニャは放っておいていいかしら。追憶の試練を受けるんなら、それでよし。もしそうじゃないとしたら、お仕置きすればよし。……どっちにしても楽しそうだから、私としては問題ないわね」
「流石、アスモデウス様はポジティブっすね。俺もネガティブな女より、前向きで明るい方が好みっすし……アスモデウス様はやっぱり、最高っすね」
「ウフフ。もう、ジェイドったらお口が上手なんだから。よく分かっているじゃない」
「もちろんっす。魔界で女帝様の事を誰よりも知っているのは、間違いなく俺っすよ」
高らかに笑い声をあげる女帝と、彼女の斜めだったはずのご機嫌をまたもや上手く収めたジェイド。そんな彼らのやり取りをドアの隙間から盗み聞きしながら、人知れずオスカーはギリギリと歯を食いしばっていた。
今宵のドレスはスカーレットピンクでと言われ、衣装部屋から探し出して参上する間に……今回も美味しい役目はジェイドに掻っ攫われている。最近、いつもそうだ。剣の稽古にも精を出している同僚の態度が女帝も満足と見えて、ジェイドが同じ空間にいるとオスカーは存在さえも無かったかのように、気にかけてもらえない事が増えていた。
(しかも……僕には追憶の試練を受ける資格すらない……)
元々は中級悪魔のアルプだったオスカーには、名前はあっても「本来の祝詞」はない。最初から上級悪魔でない者が祝詞を得るには、親となる真祖に刻んでもらえばいいのだが。インキュバスに仕立てられた彼の祝詞は後付けのため、本来の根源を示すその言葉とは、似て非なるものでしかなかった。しかも、中級以下の悪魔は基本的に記憶の素自体が消失している事も多く……思い出すも何も、残されている思い出自体が殆ど存在しない。
思い出すべき思い出がないという事は、追体験してまで自分を見つめ直す価値のある記憶もなかったということであり……試練を受ける資格が、最初からない事を暗に示していた。
(それに引き換え、ジェイドは……)
現在いるインキュバスの多くは元・アルプ。アルプは生前に実らない恋ゆえに、愛を渇望するがあまりに闇堕ちした悪魔だが、一方でジェイドは元から上級悪魔……魔界にやって来た時からインキュバスだった。本人は生前はアルプになった者以上にあまりに不細工だったため、女性に相手にされなくて……と、闇落ちした理由を冗談めかして言っていたが。実際はそうではないことくらい、すぐに分かる。そもそも生前の記憶がないはずの彼が、以前の自分を語れるはずがないのだ。その語り口が周りと上手くやっていくための方便であることくらい、200年以上も彼と一緒にアスモデウスに仕えているオスカーは……とっくに見抜いていた。
「……オスカー、遅いっすね」
「あら? 言われてみれば……確かに、遅いわね。……もぅ、何やってるのかしら?」
「仕方ないっすよ。なんたって、アスモデウス様は魔界一の衣装持ちでもあるんすから。俺、あんなに大量のドレスの中から気分の1枚を持って来いなんて言われても、探し出せないっすよ。本当、オスカーには頭が上がらないっす」
「そうなの? まぁ、オスカーはオスカーで私の事をよく分かってくれてるわよね。でも、ちょっと弱すぎるのよねぇ……。ナンバー3を張るには、実力不足が目立つわ」
「まぁまぁ……。俺達インキュバスはそもそも、強さよりも見た目っすから。それに……俺もオスカーがいてくれるから、こうして心置きなくマモン様の所に出かけられるんですし。悪魔としての実力はともかく、肝心のダンスのキレもオスカーには敵わないっす」
「アハハ! それは言えてるわ! もぅ……自覚があるんなら、ダンスの練習もしないとダメよ?」
「そうっすね……。いや、色々とすんません……」
そのフォローはきっと、本心なのだろう。しかし、ジェイドの余裕も殊更、今のオスカーには鬱陶しく感じられる。彼の気遣いが明らかに上からの視線であることをヒシヒシと感じながら、こうして歯噛みしているのも無駄だと思い直し、一呼吸してアスモデウスの元に参上する。
注文通りのスカーレットピンクのドレスと……オスカーなりに女帝の気分を読み取って選んだターコイズブルーのピンヒールに、大粒トパーズのアンクレットを添えて差し出すと。どうやら、そのチョイスは正解だったらしい。嬉しそうに頬を美しく染めて、アスモデウスは人目も憚らずガウンを脱ぎ捨てると、オスカーから受け取った華やかな色を身に纏う。
「そうそう、流石オスカー。ドレスの色を指定しただけで、こんなにもピッタリなものを探し出してくるなんて。ウフフ、今日は色々と楽しいわ〜」
「ありがとうございます。それでは……ジェイド。僕達はそろそろ、ステージの準備に行こうか?」
「オーケー。それじゃ、アスモデウス様。俺達はそっちの準備をしてきますから。お時間になったら、呼びにきますね」
「えぇ、そうして頂戴。……今夜もしっかりやるのよ?」
「かしこまりました」
「了解っす!」
そうして2人で点でバラバラの返事をしながら、ステージへ向かうジェイドとオスカー。今宵もひっそりと館を包み込む火照るような空気を感じながら、オスカーはアスモデウスの部屋を後にして思わず……身震いする。それに引き換え……オスカーの目の前を鼻歌交じりでステージに向かう同僚は、あのアスモデウス相手でもこんなに飄々としていられるのだろう。
真祖の中ではそこまで強くはないとは言え、アスモデウスが圧倒的な実力を持つことには変わりない。そんな彼女を前にしても、調子を崩さないジェイドのタフさがオスカーには信じられなくて……そして、あの威圧感に耐えられる彼の強さが、何よりも羨ましかった。




