10−10 見惚れるのに精一杯
ここはカーヴェラ、平民街。さして残業もないまま、いつも通りの時間に帰宅するエリックだったが。何も変わらないはずの玄関を潜った途端、家の奥から、いつもとは明らかに違うスープの良い香りが漂ってくる。普段口にするスープは薄い塩味に、申し訳程度の野菜が入った質素極まりないもののため、この香りはあまりに鮮烈だ。
「パパ、お帰りなさい!」
「おかえり!」
「ただいま。とても良い香りがするけれど……何かあったのかな?」
「うん、今日はね、ママに沢山チップをくれる人がいたんだって!」
「それでね! スープにはお肉が入っているの!」
「そうなんだ。じゃぁ、今夜はご馳走だね」
「うん!」
お肉にはしゃぐ娘達に手を引かれ、辿り着いた食卓の上には……久しぶりに見る、白パンとバターが既に並んでいる。沢山のチップ……妻はいくらもらえたのだろうとエリックは訝しげに思いながら、待ちきれないと目を輝かせる娘達と一緒に席に着く。そうして、ご馳走スープを楽しそうに運んでくる妻……ユーリアがいつもよりも機嫌が良さそうな事に安心しながら、受け取ったスープボウルにゴロリと褐色の塊が鎮座しているのを、認めれば。疑念なんかも綺麗さっぱり吹き飛ぶほどの誘惑に、思わず喉が鳴る。
「すごいな……これ。ティティア達の話だと、チップをくれたお客さんがいたって聞いたけど……」
「えぇ。初めて見るお客様でしたけど……きっと、大商人さんなんでしょうね。私がコーヒーのお代わりをご案内したら、銅貨を5枚もくれたのよ。……銅貨1枚だって、珍しいのに。ちょっとビックリしちゃった」
エリックの質問に答えながら、ユーリアが全員分のスープを並べたところでお喋りを中断して、折り目正しくお祈りをする。そうして、待っていましたとばかりにスープボウルにスプーンを潜らせながら、嬉しそうにご馳走を頬張る娘達の様子を見ると……話の続きではないが、太っ腹な商人とやらに感謝せずにはいられなかった。
「それにしても……あの方達、何者なのかしら?」
「ん? あの方達?」
「えぇ、その商人さん達よ。ご夫婦連れなのは間違いなさそうだけど、お2人とも若い方だったの。それで、旦那様もかなりハンサムではあったんだけど……奥様の方は別格というか。それこそ、旧カンバラ展のお姫様がそのまま抜け出してきたみたいに、とても綺麗な方で。でも……だからなのか、お店から出た途端にルルシアナ・ファミリーに絡まれてて……」
妻の言葉に、ご馳走に舌鼓を打っていたエリックは眉を顰める。
ルルシアナ家は表向きは美術館や製薬所を経営していたりと、カーヴェラでもかなりの名士として通ってはいるものの。裏では数限りない悪事を働いていると評判のマフィアでもある。その上、カーヴェラの区長を輩出している家系でもあるため、権威を笠に着て白昼堂々と悪事を働くのだから、タチが悪い。
そういう事情もあり、カーヴェラではある意味で治外法権とも言える、ルルシアナ家の輩にだけは目を付けられないよう、とにかくやり過ごすのが暗黙の了解だったりするのだが。
「商人さん達……その後、大丈夫だったのかい?」
「それがね、旦那様が武器商人だとかで……本当に凄いのよ。たった1人で、7人くらいいたルルシアナのゴロツキを返り討ちにして。お前らなんぞ取るに足らんとか、言っちゃってて。私、スカッとしたの!」
「そいつはまた……凄いな。その旦那さん、本当に強かったんだ」
強い旦那様に綺麗な奥様、か。自分には関係ない世界だとは思いつつ、ユーリアの興奮気味の笑顔に悔しい思いを募らせる。力に財力、その上に美人な奥さん。別にユーリアが不美人だと言うつもりはないが、さっきまで感謝していたはずの商人との格差に、エリックは不愉快なモヤが溜まっていくのを感じていた。そうしてついでに……そんな理不尽を見せつける別の存在を俄かに思い出し、ちょっとした名案を思いつく。
「そう言えば……ユーリア。カフェでの仕事はどう? やっていけそうかい?」
「えぇ、今の所は。ただ、場所が場所だけにウェイトレスの入れ替わりが激しくて。私みたいな年増ならともかく、若い女の子が居着かないのよね。……だから、しわ寄せがキツくて。本当、ルルシアナには苦労させられるわ」
ユーリアが勤めるカフェ・コバルトはルルシアナが運営している美術館に程近いと言うこともあり、大通りに面している割には、揉め事に巻き込まれる事も多い。何かと、「ちょっかいを出される」若い女の子が働くにはかなり厳しい環境だと言わざるを得ない。その背景があるからなのか、ユーリアを含めコバルトで働くウェイトレスは子持ちだったり、年がある程度上だったりと……カフェにしては少々、華が足りない部分がある。もちろん、女性は若ければいいというものではないが。接客業でもある以上、見た目を気にするのは、仕方のない事だろう。
「そう。実はさ、今市役所の方にもちょっと珍しい利用客がいてね。上級貴族様の支援を得て孤児院を開設するとかで、院長のお爺さんと若いお姉さんが来ていたんだけど。……あぁ、そう言えば。そのお姉さんがもの凄い美人でね……こう言うと何だけど、孤児院で働くのは勿体無いんじゃないかなんて、失礼にも思ったりして……」
「フゥン? あなた、まさか……口説いたりしたのかしら?」
「いやいや、あまりの迫力に見惚れるのに精一杯だよ……って、そうじゃなくて!」
ユーリアに意地の悪い指摘をされ、ブンブンと首を振るエリック。確かにそのお姉さん……アーニャもとびきりの美人ではあったが。少なくとも、エリックには彼女を口説く大胆さはない。
「……でさ、孤児院で子供達の面倒を見てくれる女性のスタッフを募集するんだって。院長さん曰く、場所が孤児院なもんだから、子連れのワーキングママも歓迎とかで……託児所を兼ねるつもりで働いてくれる人を探している、って事だったんだけど」
「あら、それは随分といい話じゃない。その孤児院って、どこにあるのかしら? 雇用条件は?」
「あ、条件までは決めていないみたいだったけど……場所は例のグリーン・ストリート付近の病院跡地だよ」
「病院って……あの幽霊が出るとかっていう噂の?」
「そうそう、その病院。まぁ、幽霊の正体も……精霊落ちの女の子が住み着いていただけだったみたいなんだけど。今日、その女の子も一緒に来てたよ」
「幽霊さん、パパも会ったの?」
「うん、会ったよ。何だか、とても恥ずかしがり屋さんみたいでね。見た目は確かに少し変わっているけど……悪い子じゃなさそうだ」
「そうなんだ〜。幽霊さん、悪い奴じゃなかったのね。なーんだ」
「こらこら、悪い奴じゃないのはいい事でしょ? つまらなさそうにしないの」
「はーい」
すっかりご馳走を平らげて、少し眠そうな娘達を寝かしつけるつもりなのだろう。自分の食事が途中だというのにユーリアが2人連れて、リビングを出ていく。その背中を見送り、自身も久しぶりの肉片を噛み締めながらボンヤリと孤児院のことを考える。
あの様子だと……ユーリアを働きに出すと同時に、娘達も食事にありつけるかもしれない。もちろん職がある以上、質素ながらも生活にはそこまで困っていないし、おそらく安定感はカーヴェラでも恵まれた方ではあるだろう。しかし、それと同時に……全てが十分でもない。役所で働く身としては、立場を利用した利用者への接触はご法度である事は重々承知しつつ、多少の面識で雇用に関しては便宜を図ってもらえるかもと考えを巡らせる。
次に彼らがやってきたら妻の働き口について相談してみようと、舌の上でとろけていく脂の余韻を感じながら……エリックは頭の中で算段を整えていた。




