9−65 怪盗紳士グリードと深窓の令嬢(8)
「すごい、すごい! 見て見て! お月様が、とっても大きく見えるの!」
俺が後始末の事を忙しく考えている腕の中で、姫様は空中散歩を楽しんでいるらしい。彼女が嬉しそうな甲高い声を上げながら、話しかけてくる。ったく、こっちは色々と気を揉んでやっているのに……本当にお気楽で、結構なこった。
「あ〜、頼むから、黙っててくれない? 俺、飛ぶ時は静かにしたいタチなんだけど」
「ゔ……。だって、こんな風に空を飛ぶなんて初めてだもの……。ちょっとくらいは合わせてくれても、いいではないですか」
「どうして俺がそこまでせにゃならん」
「だって……もうちょっとで、この魔法は解けてしまうのでしょう? もうちょっとで……グリちゃん、いなくなってしまうのでしょう? 最後くらいは目一杯、甘い気分にさせてくれても……いいではないですか」
「悪魔相手に、ナーニが甘い気分だよ。完全に相手を間違っているだろうが。……って、動くな! 落っことされたいのか⁉︎」
「……グリちゃんの意地悪」
意地悪なんかじゃない。俺はただこれ以上、馴れ合いたくないだけ。……一緒にいる事を望んで、どうするんだよ?
混乱しながらも両手がふさがっていて、身動きできない俺に構わず、勝手に首に回される腕を振りほどく事もできない。そうして無防備なままの唇を塞がれた途端に、頭の中が真っ白に染まると……思考を奪われたついでに仮面も剥ぎ取られ、咄嗟の言葉が何も思い浮かばない。
「ふふ、やっぱりグリちゃんのお顔、とっても素敵です。やっと……やっと、見せてもらえました」
「……頼むから、面だけは返してくれ。頼むよ。それは……とても大事なものなんだ」
「そう。この仮面にはきっと……顔を隠す以上に、何か意味があるのでしょうね」
「それを説明する必要も、義務もない。とにかく、お前は手筈通りに逃げることだけを考えろ。俺はこの後、厄介事を片付けないといけないし。だから……」
「だったら……もう1度、口づけが欲しいのです。そうしてくれたら……お面は返してあげます」
「いつからお前は……俺に上から交渉できる立場になったんだ?」
そんな憎まれ口を叩きつつ、今度は自分の方から思いきり唇を塞ぎにかかる。これ以上喋られたら面倒だ……おかしい言い訳を自覚しながら、舌まで入れてやると、流石の姫様も抵抗する気が削がれたらしい。素直に仮面が返されると、心の垣根も戻ってきた気がして、安心する反面……少し寂しい。
「ありがとう……グリちゃん、大好きです」
「ハイハイ、そいつはどうも……」
「大好き……今までで1番、幸せな思い出でした。ずっと、この時間が続けばいいのになと思う程に……」
「もういいか? アグリッパと……お城の皆さんが、お待ちかねだろう。サッサと行くぞ」
「……はい」
互いに諦めたように無言に戻ると、約束の場所に急ぐ。具体的な位置は知らされていないけど。ハッキリと目印を寄越された以上、迷う事もない。そうして上空から見渡して、すぐに集合場所を見つけだすと、その先に降り立つ。
「……指示通りに連れてきたぞ」
「ありがとうございます……さ、姫様。この後はグリード殿に任せて、皆で逃げますよ」
「逃げるってどこに? それに、グリちゃんはこの後……どうするの?」
「証拠隠滅と天使様方のお相手。……悪い事は言わない。今からすぐに、できるだけ……遠くに逃げるんだ」
事情を知らないのは、姫様だけらしい。きっと他の奴ら……城で働いていたと思われる人間達は、既に事情と目的地まで知らされているんだろう。姫様の無事を確認したところで、俺達に構わず移動し始める。
「あぁ、そうだ。こいつを返しておく。これで俺のお仕事は完了……っと。後はお前達でうまくやれよな」
「はい。この度はありがとうございました……。グリード……いいえ、マモン様」
「やっぱり、知っていたか。これだから……ドルイダスは苦手だ」
「ふふ、そう言うあなた様も……私の正体に気付かれていましたか」
腹の探り合いが1段落したところで、髪に結ばれていたリボン……メッセージと呪縛式が織り込まれた……を返しながら、種明かしと答え合わせをしてみる。……別れ際に、このくらいの時間は許されてもいいだろう。
「人間が普通に使えるのは、下級魔法まで。だが、お前が最初に姫様に施した回復魔法はどう見ても、中級程度のものだった。そうなればお前は人間じゃなくて、本当は精霊なんじゃないかという仮説が成り立つ。その上で、回復魔法に加えて呪詛も得意な精霊となると、数は限られ……俺が飲み込んだ瘴気の根っこは植物系精霊の匂いがした。更に……きっと、お前は姫様の縁者なんだろう? だから毒入りの呪いを埋め込むなんて、荒技が許されたんだろうよ。普通そんな事をしたら、どんなにうまく術式を組み込んでも、仮死状態で踏みとどまるなんてできない。だからこの場合、お前らに何かしらの血縁関係があるということと……姫様自身も純粋には人間じゃない、って事がうっすらと見えてくる」
「グリちゃん……? それに、コルネリウスも……どういう事ですか? 私が……一体、なんだと言うのです?」
本人だけが知らない、自分の秘密。あれだけの瘴気を溜め込みながら、姫様の回復が異常に早い事がずっと気にはなっていたが。彼女が人間ではなく……精霊との混血だと仮定すれば、大体の不自然な事も片付く。
「……そう言えば、私の名前を正確にお伝えしていませんでした。ヴェルザンディ・コルネリウス・アグリッパ……それが私のフルネームです。私は……人間に混じり彼らに知識を与える代わりに、命が尽きる時は身を差し出させる事で、命を長らえる樹木系の精霊でした」
だけど、これまたとっても不思議なもんで。人間に混じれば、彼らの中で生活する者が出てくるのも当然の摂理だったりする。なるほど……な。こいつはこいつで、精霊としての生活を捨ててでも……一緒になりたい相手がいたんだろう。
「グリムリースの禁を破って精霊界を飛び出した私は、妖精族としての本分を僅かに残しつつ……この人間界でユグドラシルの恩恵を受けながら生きる中で、娘にも恵まれて。結婚した相手の家名を引き継ぎ、とても幸せに暮らしていたのです」
「娘がいたのか?」
「えぇ。それはそれは……とても可愛い娘がおりました。母親の私ですら自慢に思うような、綺麗な銀髪が特徴的な美しい女の子で……その存在と噂は、瞬く間に国中に響き渡りました」
不安そうに見上げる姫様の視線を感じながらも、本人は時間がない事も理解しているのだろう。この先はかなり厳しい内容になりそうだが、アグリッパも話を中断するつもりもないらしい。どこか諦めたような口調で、続きを語り出した。
「……人間の寿命はご存知の通り、70年程度。当然ながら、夫は私を残してこの世を去りましたが、それでも娘というかけがえのない存在を残してくれました。私は娘と2人で慎ましく暮らせればいいと、考えておりましたが。ある日、私の留守中に娘は強引に何者かに攫われ……ヴァンダートの王子に身売りされたと知らされるのに、そう時間はかかりませんでした」
「コルネリウス……。その王子様って……」
「えぇ、そうですよ。王子の名はロヴァニア・ヴァン・クレスト・ヴァンダート15世……あなたの父親です」
「そんな! それじゃぁ……コルネリウスは私の……?」
「そうね。これからは……お婆ちゃんって呼んでもらうのも、いいかも知れませんね」
そこまで白状すると、今までの分と言わんばかりに姫様を抱きしめるアグリッパ。そうして抱きしめられて、自分の生い立ちをしっかり理解した姫様の方も、甘えるように彼女のローブに顔を埋める。
「さて、と。そういう事だから、俺はそろそろ行く。この辺りも巻き込まれる可能性があるし、もう行け」
「でも……グリちゃんは大丈夫なのですか? 天使様と戦うなんて……。一緒に逃げた方が……」
「そんな事をしたら、召喚主にも目が向くだろう? 心配しなくても、ちゃんと上手くやってやるよ」
だけど……と言い募る姫様を納得させるように、アグリッパが横から「俺という強欲の悪魔」について、説明し始める。やっぱり……この女、タダモンじゃなかったな。悪魔について、ここまで知ってるとなると……妖精族ってのは、油断ならない奴らかも知れない。
「大丈夫ですよ、ルヴラ。この方は、最強クラスの悪魔さんですから。天使様にも負けないでしょう」
「そうなの? グリちゃん、そんなに凄い悪魔さんだったの?」
「えぇ。最初にその面を見た時は、偽物がやってきたのかと思いましたが。まさか、本物だったとは。本当に最初から最後まで想定外でした」
しかも、面の意味もそれなりに知っているっぽい。……まぁ、たまに真祖の偽物が出回ったりするからなぁ。変な誤解がないといいんだけど。
「お面? やっぱり、そのお面には意味があるのね……」
「かつて呪術を学んだ時に師匠に教わった事でしたが……魔界にはそれぞれの欲望に応じた、元締の偉い悪魔さんがいるのです。その偉い悪魔さん達がお仕事でこちらに来る時は、根源を示すお面を着けているのですが……中には、偉い悪魔さんのフリをしてやって来る者もいるのですよ。だから虎の面を着けている悪魔さんは……大抵はマモンと名乗るのです」
「マモン……? そう言えば、さっきコル……うぅん、お婆ちゃんもグリちゃんをそう呼んでいたけど……」
ハイハイ、その通り。俺の本当の名前はマモンですよ……っと。しかし、ここまで通説が浸透しているとなると、どんだけの悪魔が俺のフリをしてたんだろうなぁ。まぁ、悪魔っぽく振る舞ってくれるんなら、文句もないし。いちいち目クジラ立てる必要もないか。
「マモンは強欲の真祖で、大天使様にも引けを取らないとまで言われる、大物の悪魔さんですよ。なるほど。本物は強いだけでなく、思慮深く……とても聡明なことが分かりました。名前を名乗らない上に、偽名を使う時点で私に縛られるのを懸念したのでしょう。まぁ、きっと私の呪縛程度であなたを縛るのは到底、無理でしょうが……それでもそこまで考えを巡らせてくるのですから、流石は大悪魔様と言ったところでしょうか」
流石と持ち上げても、何も出ないからな? ……悪魔相手に聡明って、ちょっとズレている気がするし。
「この度は私ごときの呼びかけに応え、ここまでお力を貸してくださいまして、ありがとうございました。本当に……ありがとうございます……」
「……礼はいい。なんだかんだで俺も楽しかったし、溜め込んだストレスは天使共にぶつけるからチャラって事で。で、後は適当に話をデッチ上げといてくれる? 人間を助けたなんて知れたら……冗談抜きで、格好悪いし」
「えぇ……。あなた様の本当の姿を残せないのは、残念ですが……仕方ありません」
アグリッパ相手に根回しが済むと、今度こそ最後のお仕事に出かけるために翼を広げるが。……いつかのように翼の端を掴まれて、遣る瀬無い気分にさせられる。
「……手を離せ、クソガキ。折角助けてやったんだから、もう行け。この先もアグリッパと一緒に、しっかり生き延びろ」
「……私、グリちゃんの事、忘れません。あのお城から連れ出してくれて、私に自由をくれて……本当にありがとう。素敵な思い出を、本当にありがとう……」
「ハイハイ、どういたしまして。あれだけの豪胆さがあれば、この先もちゃんとやっていけるだろ。まさか、ここまで惨めに振り回されるとは、思ってなかったけど。……元気でな、ルヴラ」
「……はい! ウフフ、これで……クソガキ卒業ですね……!」
つくづく自分が彼女に同情していたのを認識しながら、最後の最後にようやく名前を呼んでやると、ボロボロに泣いて嬉しそうに顔を歪める姫様。彼女の表情をいつまでも見ていたい気持ちと、彼女のこれからには自分はもういらない事に対する寂しさと。どうすればいいのか分からない本音を必死に押し殺して、決戦場所……ヴァンダート城の上空を目指す。
そうして、何かを振り切って飛び出した夜空の空気に……ヒリ付きを感じるのは、気のせいじゃないだろう。




