9−46 別名・泣き女
「そうですか……。まさか、ティデルが……」
結局、プランシーの手助けには間に合わなかったものの。大した負傷者を出す事もなかったようで、病院の中庭で天使様ご一行と合流する。しかし……大きな被害はなかったにも関わらず、プランシーが対峙したという堕天使は彼女達の顔なじみだという事もあり、どこか空気が落ち込んでいる様に感じられた。特にリヴィエルと、もう1人の上級天使が辛そうな顔をしている。それに……。
「プランシー、その子はまさか……」
「……実験の被害者でしょう。まさか、こんな所でもう1度会えるとは、思っていませんでした」
「もう1度……?」
プランシーは自分のローブに顔を埋めて、泣きじゃくる女の子を知っているらしい。と、いう事は……?
「……良いんだよ、もう泣かなくて。辛い目に遭わせて、すまなかったね。メイヤ……もう、大丈夫だから」
「メイヤ……? もしかして……あの片手がなかった女の子か?」
「えぇ、そうです……ほら、メイヤ。ハーヴェン様だよ。覚えているかい? いつもみんなに、美味しいパンとクッキーを持ってきてくれていただろう?」
青白い生気のない小さな顔には、不釣合いな真っ赤な色の目が嵌っている。大きな涙をただ流すだけの無機質を思わせる瞳で一頻り見つめた後、メイヤが今度は俺の足に抱きつく。
「そっか。俺の事も覚えてたか。この子はどんな精霊とくっつけられたんだろうな……」
「悪魔の旦那も知らない精霊ですかい?」
「うん。少なくとも、俺には分からない精霊みたいだな……」
「そうなんですか? ハーヴェン様は精霊にも詳しいと思っていたのですけど……」
「まぁ、ある程度は何故か知ってたりするんだけど……」
俺自身の精霊の知識の出所は正直なところ、不明な部分が多い。生前も含めて精霊と関わるなんて事、ルシエルと出会うまでは皆無だったはずなのに、“何故か知っている知識”として俺の中に眠っていた。多分、いつかルシファーが言っていた「二番底」に由来するものな気がするが……今は深く考える必要はないだろう。
「この子は多分、バンシーを元にしていると思います。ほら、バンシーはこちらですよ」
【バンシー、魔力レベル3。妖精族、水属性。補助魔法の行使可能。登録者:ガブリエル】
俺達が首を捻っていると、流石に上級天使という事もあるのだろう。リヴィエルが手元の精霊帳から素早く、候補になりそうな精霊の情報を見せてくれる。おぉ、確かにメイヤに似ているかもしれない。
「バンシーですか? これは……どんな精霊なのでしょうか?」
「バンシーは別名・泣き女とも呼ばれる精霊です。霊樹・グリムリースの命令に従って、見守っていた家に死者が出そうになると、それを予告して泣くそうですが……グリムリースがバンシーを遣わせて加護を与える家の選定条件は、不明な点が多いんです。しかし、死者を予告する妖精とは言え、繁栄と幸運も運ぶとされているので……存在自体は害がないとされています。一方で、守護対象の家に仇なす相手に災厄をばら撒く事もできるので、状態変化系の魔法が得意だったはずですよ」
それ、害がないって言えない気がするんだけど。……まぁ、そこを指摘する必要はないか。
「……なるほどな。曰く付きの建物に住み着いた幽霊さんとして、仕立てるのにはピッタリってことか。しかし、選りに選って病院に死者を予告する精霊を置くなんて……。本当に悪趣味だな……」
「そうですね……とは言え、折角こうして再会できたのです。今後は私の方で預かることにしましょう。ほら、メイヤ。……これからは一緒に暮らそうね。また昔みたいに……。大丈夫。今度はお前をどこにもやらないから。だから、もう泣かなくていいんだ。……そんなに悲しい顔をする必要はもう、ないんだよ」
どうやら喋ることができないらしい小さな女の子が再び、プランシーのローブにしがみ付いて泣き始める。そうしてメイヤの頭を優しく撫でてどこか寂しそうに、だけど、確かに慈愛に満ちた表情で微笑むプランシー。それにしても……。
「そう言や……この子が例の風穴で間違いなさそうか?」
「ハーヴェン様もお気づきになりましたか? 恐らく、そう考えて間違いないでしょう。……この子を中心にして、異常な魔力反応があります。多分、体のどこかに仕込まれているものと思われますが……」
そこまで言って……リヴィエルが少しバツの悪そうな顔をしながら、プランシーに向き直る。仕込まれている……その言い方に一抹の不安を覚えながらも、プランシーも事情は理解しているのだろう。ため息を1つ吐き出し、メイヤを促す。
「……メイヤ。もう酷いことをされないためにも、天使様達に状態を確認してもらおうね。その、リヴィエル様……」
「えぇ、大丈夫です。痛い思いをさせない事は、この場で保証しましょう。……ザフィール殿。メイヤちゃんの処置をお願いできますか」
「承知しました。さ、メイヤちゃん。少し、おばちゃんについて来てくれる? 怖がらなくて、大丈夫よ。あなたが神父様と安心して暮らせるように、準備するだけですから」
ザフィールと呼ばれた上級天使らしい、いかにも知的な眼鏡をかけた天使が優しく微笑みながら、メイヤに向き直る。少しふくよかで、包容力のある彼女に安心したのかは分からないが。素直に彼女に連れられ、病院の中に入っていくメイヤ。しかし……一体、何をするつもりなんだ?
「な、なぁ。本当に痛い思いはさせないんだよな?」
「大丈夫ですよ。ザフィール殿は生前は腕利きの軍医だったのです。約750年前の戦争に巻き込まれて、志半ばで生涯を閉じることになったそうですが……腕前と知識を生かして、転生部隊で共鳴魂の完全分離をご担当されています」
「共鳴魂の……完全分離?」
「ごく稀に、そのまま転生できない状態で神界に戻ってくる魂がありまして……原因は不明ですが、命の奔流の中で共鳴し、一時的に融和してしまうものがあるらしく、それを私達は“共鳴魂”と呼び習わしています」
おっと? ここで神界の事情……いや、魂の不思議について、新しい情報が飛び出したぞ? ……本当、魂については俺は知らない事ばっかりだなぁ……。
「現在はザフィール殿の方で、そんな共鳴魂の記憶消去の処理をして、転生の輪に戻しているのですが。かつては分離しか行なっていなかったとかで、ごく稀に記憶さえも共有して残したまま、次の命として生まれてしまう者もいたそうです。本来なら、前世の記憶を残している時点で、転生部隊としては大問題なのですけど……まぁ、それはさて置き。そんなにご心配なさらないで下さい。ザフィール殿は任務を抜きにしても、睡眠魔法を始めとする状態異常魔法のスペシャリストです。その上で、人体構造の知識もお持ちですから……物理的に何かを剥離させなければいけなかったとしても、痛みが少ない方法で処置して下さる事でしょう」
「お医者様、ですか。そう言えば、以前は薬1つなくて子供達に苦しい思いをさせてしまった事がありましたが……。今度はきちんと、お医者様にもかかれるようにしてあげたいものですな……」
薬1つなくて……か。プランシーの何気ない言葉に、初めてエルノアを連れて孤児院を訪れた時、ギノのかすり傷に塗る薬すらなくて、バツの悪い気分になった事を俄かに思い出す。当時の俺もプランシーも……まさか、こんな未来が待っていたなんて、予想だにできなかっただろう。
「でしたら、定期的にザフィール殿にこちらに来ていただいたら良いのでは? 私からラミュエル様を通して、お願いしておきましょう」
「お?」
「ルシフェル様から、こちらの孤児院は我々にとっても重要な拠点になるとのお話がございました。まして……この場所がかなりの部分で、向こう側の情報を残していそうな事も判明しましたし。しばらく、我々も出入りさせていただかなければいけないでしょう。当面のお手伝いも含めて……人員を配備するよう、上層部にも掛け合ってみますよ」
「そうですね。ネデル殿の言う通り、徹底的に洗う必要もあるでしょう。孤児院として開業する準備も踏まえて、私達がお手伝いするのも悪くないと思います」
なるほど、ネデルと呼ばれた上級天使もなかなか気遣いができるタイプらしい。相談相手がラミュエルと言うことは多分、救済部門の天使なのだろうが……口調からしても、神界でもかなり発言権のある存在のようだ。
「悪魔の旦那、そう言えば……」
「うん? ダウジャ、どうした?」
「俺、ちょっとお腹が空きました……お弁当、まだですか?」
「ダウジャ! 今はそんな事を言っている場合じゃ……」
「でも、姫様……ここには元々、お弁当を届けに来てたんですぜ? 俺、そろそろ休憩したいです……」
「まぁ!」
当初の目的をしっかり覚えていたダウジャが情けない事を言い出すと、プリプリと頬を膨らませるハンナ。とは言え、今日はダウジャも活躍していたし……よし、そろそろ休憩にしましょうか。
「アハハ、そうだよなぁ。ダウジャもハンナも大活躍だったもんな。腹も減るよな、それは。そういう事なら……リヴィエル。さっきのザフィールさんが帰って来たら、雰囲気は微妙だけど……ここでお弁当にしない? 一応、それなりに量は用意して来たから、今後の親睦も深める意味でも、みんなでどうかな?」
「え? いいんですか? ハーヴェン様のお弁当をいただけるなんて……!」
「リヴィエル様。お弁当って、もしかして……」
「あの『愛する旦那様のいる日常』の……?」
彼女達の知識が相変わらず、あの呪いの書ベースなのがとても気になるが……今は忘れておこう。そんな事を考えながら大きめのバスケットを3つ呼び出して見せると、さっきまでのピリピリした空気が少しだけ和らぐ。特にダウジャが待ってましたと、キラキラした眼差しを向けてくるのが、とっても嬉しい。やっぱり、何はともあれ……腹拵えは大事だよな。




