9−19 逞しい想像力
「恋するラベンダー……上巻……」
「あ、あぁ……。向こうに行ったら、流行っていて、だな。一応、彼女の身柄を預かるのだし……私も確認した方が良いと思って、読み進めてはいたのだが……」
ベッドに2人で横になりながら。ランプの灯りを頼りに、嫁さんが持ち帰って来た小説に目を通してみる。いつも以上に刺激的とルシエルが言っていただけあって、「その部分」はマディエルの筆致なりに、最大限「前向きかつ開放的」になったであろう描写が続いているが……。
「えぇと、なになに? 悪魔のかいなに抱かれ、天使は初めての痛みに身を震わせます。しかし、天使を思いやるが如く、悪魔は痛みさえも慰めるようにゆっくりと……ちょ、ちょっと、待て。まさか……この内容ママで神界に流通しているのか?」
「……あぁ。紛れもなく、この内容で……1冊あたりチケット5枚で絶賛発売中だ」
これ以上を声に出して読むのは……隣にいるのがルシエルでも、かなり恥ずかしい。なんだろう、冗談抜きですごいなコレ。ここまでくると、一種の官能小説じゃなかろうか……?
「因みに、下巻もこの調子で最後まで書かれているみたいでな。他の者の言葉を借りるなら、クライマックスのラベンダー畑のシーンは、それはそれは感動的で幻想的なのだそうだ」
「……そう、なんだ」
しかしながら、冒頭のマモンらしき悪魔の乱暴さが話を追うにつれ柔らかく、そして、どこか狂おしい切迫した寂しさに書き換わるように描かれているのは……流石、売れっ子小説家の最新作という事なのかもしれない。パラパラと斜め読みにしているだけでも、途中に挟まれる彼らのやり取りに、妙に甘酸っぱい気分にさせられる。……これ自体は「そういう描写」を抜きにすれば、文学的にも世の女の子達を入れ食い状態で夢中にさせるだろうな。かく言う俺も、ちゃんと読んでみたいと思うくらいに、少しのめり込みそう。
「でも……これなら、リッテルにそれとなく感情移入させる目論見は達成できそうだな? 名前は伏せられているけど、登場人物の特徴でマモンとリッテルだって分かるし」
「まぁ、その辺りもマディエルの腕前には驚かされっぱなしだよ。それ以前に……彼女にここまでの内容を描く知識があるなんて、思いもしなかった」
「逞しい想像力でなんとやら、って所なんだろうけど。にしても、意外と魔界の様子は正確に描かれているし、ある意味でちょっとした資料としても成り立ちそうだな。この先もどんな風に書かれているのか知りたいし、下巻も含めてきちんと読んでみたい」
「そうか? 私は上巻だけで、お腹いっぱいだな。特に明後日、リッテルの謹慎が解けることを考えると……既に頭が痛い」
「あぁ、なるほど……」
ルシエルはこの小説が原因で巻き起こる騒動を考えては、取り越し苦労をしているらしい。当事者でもないのに、既に頭が痛いとか……ルシエルの心配事を抱え込む癖は抜けていないみたいだ。それはある意味、真面目なだけなのだろうとは思うけれど。そこまで彼女が悩む必要もないと思える内容が多いのは、多分気のせいじゃない。
ルシエルはきっと……根は心配性であると同時に、面倒見がいいタイプなのだろう。未だに少し刺々しい態度を取ることもあるが、彼女は彼女で結局は相手を放っておけない「お人好し」なのだと思う。
「さて、そろそろ寝ようか。明日は一緒にお出かけするんだろう? だったら早めに行って、こっちに帰ってこないとな」
「そうだな……よし。明日は何が何でも、強行突破してくるぞ」
「強行突破って。お前の周りは妙に物騒だな……」
彼女の朝は早い。俺自身も早起きな方だと思っているが、まだ日が昇らない時間だというのに、寝ぼけた視界に映るのは大抵、ルシエルは出かけた後の空っぽの部屋の様子か……運が良ければ、彼女が一生懸命お着替えをしている最中の光景だったりする。そうして更にごくごく稀に、バードフィーダーの前で裸のまま小躍りしている姿も目撃しているが……それは黙っておこう。
「仕方ないだろ……神界はそういう方面には、とにかく攻撃的なんだから」
「そういう方面以外も、攻撃的な気がしないでもないけど……それはさて置き、明日のお出かけが楽しみだな?」
「妙に含みを感じるが。……まぁ、今は別にいいか。おやすみ、ハーヴェン。……明日もよろしく……お願いします……」
「うん、おやすみ」
最後はそうしおらしく言って赤くなりながら、こちらに擦り寄ってくるのが、これまた可愛い。そうやって互いに目を閉じれば、あっと言う間に明日という新しい1日がやってくる。
さて。その新しい明日の予定は、本屋と雑貨屋と……それと孤児院の候補地探し、か。これだけスケジュールが盛りだくさんであれば、俺も子供達も退屈する暇さえないだろう。きっと、楽しい1日になるに違いない。
***
ハーヴェンに相談するべきか、せざるべきか。
1日の終わりに黒革の手帳を見つめながら、クロヒメは深くため息をつく。竜界に派遣されてから、かなりの時間が経過したが。月日が重なるごとに自分の中にある悩みが大きくなっていくのが、ここ数日でハッキリと感じられるようになった。
何も、ここでの生活に不満があるわけではない。マハはいつでもクロヒメを丁重に扱ってくれるし、連れ出された先でクロヒメを誇るように紹介する彼の横顔を眺めるのも嬉しい。だが、その時間が積もれば積もる程、不安も一緒に大きくなるように心の中を塞いでいく。
《……あぁ、クロヒメが竜族だったらよかったなぁ……》
何気なく彼の口から紡がれた言葉は……何よりもクロヒメを縛り上げ、彼女の中で燻っていた火種を徐々に大きく煽り始めている。身を焼かれるような、渇きにも近い切望。何よりも手に入れたいものは、近くにあるようで、遥か遠い場所にキラキラと眩いている。
彼は惜しみなくクロヒメを愛でてくれてはいるが、あくまで「愛でている」だけであって「愛している」ではない。その「愛している」は同じ種族になって始めて得られるものなのだと、クロヒメとてとっくに理解している。だが、その「愛している」が他の者に注がれるのを見る事は……彼女にとって、何よりも辛い事に他ならない。当たり前にやってくるはずの瞬間に毎日毎日怯えながら、彼の頬ずりを受け入れることしかできない自分は、この先どうすれば、その「愛している」を手に入れることができるのだろう。
(……何を考えているのかしら、私。本当に、馬鹿馬鹿しい……)
黒革の手帳に手を伸ばして、既のところで今夜も諦める。
途方も無い馬鹿げた希望をハーヴェンにぶつけた所で、敬愛するお頭をただひたすら困らせるだけだ。そこまで考えてピタリと止まった手とは裏腹に、今度は頭が妙に冴えていく。まるで他人事のように靄を振り払いながら、クロヒメの記憶は、マハが呟くように話してくれた「報告」を鮮明に再生し始めていた。
(……)
《そうそう、そう言えば。ギノ君……だったっけ? デミエレメントから昇華して、まだ10年も経っていないのに……もう最上位魔法まで使えるんだって。ラヴァクールがアウロラちゃんのお婿さんにするなんても、言っていたけど。……ちょっと不思議なんだよね。あの子、元は人間だったって聞いたけど……どうしたら、あんなに早く魔法を使えるようになるんだろうなぁ。……ちょっと恥ずかしいけど、今度、僕もゲルニカの指南書とやらをもらってもいいかもしれないな》
「まぁ、そうでしたの? でしたら私も是非、魔法の勉強をしてみたいです」
《そう? それじゃ、テュカチア様のお祝いも兼ねて、一緒にお邪魔してみようか?》
(……)
元は人間の竜族。もし彼が竜族になった経緯を知ることができれば、自分も同じように竜族になることができるかもしれない。
そこまで考えると、先程までピタリと止まっていた手が再び動き出して……黒革の手帳を待ちきれないとばかりに捲る。そうだ、そこはかとなくハーヴェンにギノの事を聞いてみよう。
彼の隣で相応しい姿で一緒にいることができるのなら……そのためなら、どんな事だってできる気がする。諦めるのはまだ早い。可能性があるのなら、それに縋るのはクロヒメの希望という名の欲望であり、夢を追うのも彼女の自由だ。……決して、誰にも邪魔させるものか。




