8−30 黒い夢
自分が誰なのか分からないまま、何となくここに来れば助けてもらえそうな気がして。既に満身創痍の体を引きずりながら、小さな黒い悪魔はたどり着いた崖の窪みに身を預ける。
そうして見れば、竹林の合間にひっそりと佇んでいる家が煌々と光を灯しているので、まるで虫が誘われる様に、力を振り絞って飛び立つが。……思わず覗き込んだ先は、寝室らしい。窓の中でどことなく見覚えのある男女が、さも睦まじそうに息を整えながら、ひっそりと余暇を楽しむ光景が眩しく映る。
「暖かい……とても、暖かいの」
「フゥン? ……にしても、どこもかしこも、本当に綺麗だよな……」
男の言葉に嬉しそうに微笑むと、女が彼の首に黒い手を回して抱きつく。男も彼女の腰に手を回して抱き寄せるが、彼の方は背中越しのため、表情は見えてこない。それでも、真っ直ぐに伸びる背骨の起伏の速度が緩やかになったのを見ると、既に息が落ち着いたということなのだろう。一方で女は腰を抱かれて、ピクリとわずかな反応を示すと、恥ずかしそうに更に赤くなった。
「……あ、ゴメン。俺の手、マメだらけだから、急に触ると痛いよな……」
「いいえ、そんなことありません。……私はあなたの手、とても好きよ?」
「そう?」
「えぇ。たくさん苦労して……たくさん、頑張った人の手ですもの……」
「どうだろうな……? 武器を散々振り回してきたのは、間違いないけど」
彼らはどこまでも、穏やかに話をしているが。あろう事か、寝室らしい部屋に騒がしい連中が入ってくる。
「って、お前ら! 上り込んでくるなって、言ってるだろーが!」
「えぇ〜? だって、お外は寒いですよぅ」
「今日も一緒に寝るです!」
「終わりました? 終わりました?」
「このクソッタレ共が……! 俺はお前らとベッドをシェアする気はねーぞ! 大体、いつもいつも覗いてんじゃねぇし!」
男の抵抗も虚しく、慣れた様子でベッドの上にパタパタと飛び上がると……定位置が決まっているらしい彼らが、ズカズカと上がり込んでいく。そこまでされて怒りは治らない様子ではあるものの、妙に諦めの早い男はため息をつきながら、頭を掻いている。一方で流石に少し恥ずかしいのだろうが、その光景は見慣れたとばかりに女がクスクスと笑っては、上がり込んできた3人の様子を見守っていた。
理由は分からないが、確実に何かが暖かい光景。片や、黒い悪魔は耐え難い衝動をどうすればいいのか分からないまま……ようやく、その場に踞る。
自分は誰なのだろう。どうして……こんな所に来てしまったのだろう。
……お願い、誰か助けて。
……お願い、誰か……思い出して……。
……お願い、誰か……自分を満たして……。
***
待って、置いていかないで。どうして、僕を置いていくの?
目の前の男の人と女の人に向かって一生懸命、両手を伸ばしてお願いするけど……彼らには僕の声が聞こえないのか、振り向いてもくれない。そうして今度は……僕の足を得体の知れない真っ黒なものが掴んでいるのを感じながら、僕も怖くて振り向くことができない。何か、そちらには見てはいけない物がいる気がして。僕は結局、ただ泣くことしかできなくて。それでも……真っ黒な何かが、今度は僕の体を握りしめるように纏わりついてくる。
嫌だ、離して! 僕はまだ……!
「……⁉︎ ハァッ……ハァ……ゆ、夢……?」
久しぶりに見る、黒い夢。最近は大丈夫と思って安心していたけど……あの夢は僕の安心を壊すかのように、忘れた頃にやってくる。
僕の言い知れない不安を見透かすように、何かが僕を攫いに来るような……。でも、今回の夢はいつも以上にハッキリとした感覚を僕に刻み込んで。……その恐怖に、体の震えが止まらない。
(……水、貰いに行こう……)
気づけばカラカラな喉を潤おそうと、ベッドを抜け出して部屋を出る。まだ陽は昇っていないけど、うっすらと窓の外が白んでいるのを見る限り……真夜中でもないみたいだ。……早朝、なのかな?
そう思いながら、リビングに降りようと2階に来たところで廊下の向こうからマスターがやって来る。そうか、マスターはこんな早くに出かけるんだ……。
「……ギノ? どうしたの、こんな朝早くに……」
「え、と……」
何故だろう、喉が乾いていただけのはずなのに……優しく名前を呼んでもらえると、さっきまでの震えは止まっていて、深く安心してしまう。でも、心は落ち着けないままで……気づけば、僕は夢の続きと言わんばかりに、泣き出していた。
「グスッ……マスター……」
「怖い夢でも見たのかな? 大丈夫、落ち着いて……」
「は……い……真っ黒な何かに……攫われる夢で……。以前も父さまに……僕達は瘴気の影響で、悪い夢を見る事があるって言われていたんですけど……」
「そう。何か不安な事でもあったのかな? ……ごめんね、すぐに気づいてあげられなくて」
「いいえ、大丈夫です……。これは……僕が自分で頑張らないといけない事ですから……」
僕が絞り出すようにそう答えると、マスターは優しく頭を撫でてくれる。暖かな感覚で満たされるのと同時に、やっぱり僕は少し不安になる。……こんな風に貰える優しさが、いつかなくなってしまうのが怖くて……。
「あまり、無理はしないように。苦しい時は私達を頼っていいんだよ?」
「でも……僕、いつもみんなに甘えっぱなしだし……」
「そう? でもね、辛い時に誰かに甘えるのは恥ずかしい事ではないのだから、気にする必要はないんだよ。……なんて、偉そうに言っているけど、かく言う私もハーヴェンに甘えっぱなしだし……。フフ、甘えん坊はお互い様、かな?」
自分も一緒だなんて、言いながら……今度はマスターが嬉しそうに柔らかく微笑む。
「さて、私はもう出かけなければいけないけど……。ハーヴェンにも甘えていいと思うし、何かあったら、いつでも言いなさい。大丈夫。君は1人ではないのだから。1人で全てを乗り越える必要もないんだよ」
「はい……ありがとうございます……」
掠れるような僕の返事を聞いて、マスターは更に嬉しそうに目を細めると……もう1度、優しく頭を撫でてくれる。今は柔らかく受け止めてくれる相手がいることが、幸せなんだ。だけど、その幸せがいつまで続いてくれるのかは、分からない。分からない……けど。この瞬間が幸せだってことは……どんな事があっても、忘れたくない。




