8−20 裏切り行為は、1発でアウト
会合に同伴する約束を見事にすっぽかし、気づけば……ハンスはマモンの屋敷まで来てしまっていた。今頃、アスモデウスはお怒りだろうが……ハンスにはもうそれすら、どうでも良くなっている。
(あぁ、彼女はどうしているだろう。今日はマモン様もいないだろうし……これはきっと、私に与えられた最後のチャンスに違いない……!)
飽きもせずに、そんなことを考えながら……ハンスは竹林の中に身を隠して、目の前の光景を窺っている。彼女は今日もやって来た悪魔達を相手に、傷を癒してやっているらしい。時折、ちょっとしたお礼の品を遠慮がちに受け取りながら、分け隔てなく美しい笑顔と優しさを見せている。そうして遠巻きに見守っていると……彼女の左薬指に黄金の指輪が嵌っている事にも、ハンスは目敏く気づいた。
(な、なんという事だろう! 私の女神が、あんな乱暴者の手に落ちてしまうなんて……!)
マモンがベルゼブブに「結婚指輪」を用意してもらっていたと、アスモデウスが話していたが。女帝の話が本当ならば、彼女はマモンの申し出を受け入れたという事か?
そんな事を考えれば、考える程……憎たらしい黄金の輝きが、否応なしに目に入る度に。狙っていた獲物を横取りされた気分で、胃が押しつぶされるような苦しさが込み上げてくる。しかして、悪心の目眩を覚えるハンスの耳に……今度はどこかで聞いたことのある声が届いた。
「ヘェ〜。天使様が美人ってのは、本当だったんすね〜。いや〜、超眼福って感じっす」
「本当だった……と言われましても。すみません、私は……」
「あぁ、ごめんなさい。俺、ジェイドって言います。ちょっと聞きたいことがあって、来たんす。それはそうと……この間、うちのハンスがご迷惑をかけたみたいで。ホント、申し訳ありませんでした」
「いいえ、大丈夫です。……マモンが守ってくれましたから……」
「おぉ〜! 天使様はやっぱり、マモン様にゾッコンなんすか?」
軽い調子で、ジェイドがリッテルに詰め寄るが。彼女は返事をしない代わりに……妙に恥ずかしそうに、それでいて、嬉しそうな顔を赤くして俯く。
「……申し訳ありません。次の方がお待ちですので、そういうお話は別の機会にしていただけませんか?」
「あ、そうですよね。……じゃ、俺はそっちの猫ちゃんに話を聞くっす。気にせず、続けててください」
「え、えぇ……」
調子の良いことを言いつつ、実力行使に出ないジェイドに警戒を緩めたリッテルが、次の順番を待っていた悪魔に声をかける。一方でジェイドは足元の小悪魔に向き直ると、予想外の事を聞き始めた。
「な、猫ちゃん。ちょっと話を聞いても、良い?」
「おいら、猫ちゃんじゃないです。……正式な話はまだだけど、マモン様が帰って来たら、ゴジって名前になるです」
「そう? それじゃ、ゴジって呼ばせてもらおうかな。……で、ゴジちゃん。うちのハンスがここに来たと思うんだけど、彼、天使様に迷惑かけたりしなかった?」
「あのお兄さん……リッテル様に迷惑、いっぱいかけてたです! 嫌がるリッテル様を、無理やり連れて行こうとしてたです。でも、マモン様が帰って来て、お兄さんを追い払ったです!」
ジェイドの質問に、ゴジがちょっぴりプンプンと頬を膨らませている。だが、一方で……親玉を誇らしく思う部分もあるらしく、ちっちゃな胸を精一杯張りながら、興奮気味に答えた。
「マモン様、とっても強くて格好良かったです! それで、お兄さんはもの凄く情けない感じで、マモン様に土下座して命乞いしてました! マモン様、ここまで情けないのは見たことないって、呆れてました! だから、仕方なく逃がしてあげたみたいです!」
「あぁ……そうなんだ。ハンスの奴……アスモデウス様のお顔に思いっきり、泥塗ってるじゃん……。じゃぁ、天使様がハンスを誘惑したってのも、嘘か……」
「リッテル様、そんな事しないです。リッテル様がエッチな事をするのは、マモン様だけです!」
「……ゴジちゃん。それは……大声で言わないで……」
清々しいまでに開けっぴろげなゴジの宣言に、さっきとは別の赤面で彼を諭すリッテル。そうして周囲の悪魔も羨ましそうにほほ〜、と感嘆の声を漏らすが。周囲のざわめきに居た堪れないと……天使様が更に赤くなる。
「……リッテル様は一途なんすね。よ〜く分かりました。今後、あいつがちょっかい出せない様に、俺の方でもなんとかしますから。もう心配いらないっす。ホント、色々と迷惑をおかけして、すみませんでした。……ところでさ、ゴジちゃん。今日はそのハンスを見かけなかった?」
「見てないですよ? あのお兄さん、いないですか? また、リッテル様に迷惑かけに来るです?」
首をコテンと傾げて、ゴジがジェイドを見上げる。ハンスにはあれ程までに警戒していたのに、ジェイドは害がないと思っているのか……どことなく、人懐っこい雰囲気だ。
「どうだろうなぁ。ただ、嘘までついて、大事な会合もすっぽかして……色々とヤバい状態なのは、間違いないかな? 俺はさ、あいつを捕まえに来たんだよ。アスモデウス様を本気で怒らせた以上、タダでは済まないと思うけど。あいつはそれも分かってるはずだし、必死に逃げ回ってるんだろうな……きっと」
「そうなんですか……捕まったら、どうなるんですか? 殺されるです?」
「う〜ん。アスモデウス様がスッパリと行く程、お優しいとは思えないんだよなぁ。……場合によっては、最下落ちになると思うんすけど……」
最下落ち。
ジェイドの言葉にハンスはただただ、恐怖を感じながら……その場を離れることしかできなかった。
最も屈辱的で、最も惨めで……それでいて、最も救いのない真祖のお仕置き。ジェイドの話から、ハンスは自分が既に「罪人」になっていることに気づくと、息を殺して踵を返す。今はとにかく……逃げなければ。
「最下落ち……。どんなお仕置きなのかしら……」
列の最後に並んでいたグレムリンが到着すると同時に、患者全員の対応をしたところで、リッテルがジェイドに尋ねる。3人のグレムリンを交互に撫でてやりながらも、表情はどこか不安げだ。
「最下落ちは、真祖の悪魔に名前を取り上げられちゃうことですよ?」
「名前を取り上げられる? でもクランちゃんは元々、名前もなかったのでしょう? それを取り上げるの?」
「あ……そう言えばそうですね……。ね、ラズは分かる?」
「えぇ? 僕も分からないよぅ? ゴジは?」
「おいらも知らないです……」
足元の3人から情けない返事をもらいつつ、尚も不思議そうな顔をしているリッテルに……ジェイドが仕方ないと、ため息混じりで説明し始める。
「……最下落ちっていうのは、上級悪魔に対して行われる最大級のお仕置きの事っすよ。悪魔っていうのは、闇堕ちの時の苦痛の度合いで下級から上級までの階級が決まるんですけど。その中で上級悪魔っていうのは厳密に言うと、闇堕ちした時に祝詞と名前を最初っから持っている奴のこと指すんです」
悪魔の階級は記憶の残量と、苦痛によって決定される。そして、条件を満たしていれば上級悪魔と認定されるため、実力があるから必ずしも上級という訳じゃない……と、ジェイドは結ぶ。
「と言っても……最初から根源を示す祝詞がある分、魔力も実力もあるもんだから、その辺の方程式も別の意味では成り立つんですけど。……で、上級悪魔が最下落ちをした場合は、2度と同じ姿には戻れない上に、下級悪魔ですらなくなるんす」
最下落ちとは、下級悪魔の下の下……文字通り、最下層の存在の事である。最下落ちにされたらば、真祖公認の「みんなのサンドバッグ」として理不尽な鬱憤晴らしの的となり、常時苛烈な暴力に晒される事となる。しかも、悪魔本来の寿命だけは残るため……「死」という安寧の終焉を迎えることさえできない。
「……それに、欲望も残されたままだったりするから、却ってキツイというか。俺達の場合、性欲だけ残されたまま機能は取り上げられる事になるんで、マジでヤバいっす」
「悪魔さんの事情も、色々とあるのね……。マモンが悪魔は欲望に忠実なのは当たり前だって、言っていたけど……。だとしたら、ハンスさんのも欲望のせいだと思うし、そこまでする必要はないんじゃないかしら……」
「天使様は優しいっすね。まぁ、真祖によっては、その判断もアリっすね。ただ、俺達インキュバスは……ちょっと特殊な種類でして。……アスモデウス様への裏切り行為は、1発でアウトなんすよ」
「インキュバスが特殊? それ、どういうことかしら……?」
魔界にやってきてから、色んな悪魔に接する様になったけれども。リッテルはまだまだ、悪魔の概念は理解できていない。そもそも、身近に最上位悪魔がいるリッテルにしてみれば……特殊ではない悪魔と言われても、ピンとこないのが正直なところだ。
「あまり深く考えないで欲しいんすけど。基本的にインキュバスの上級悪魔としての姿は、アスモデウス様への忠誠と引き換えに、借りているものなんですよ」
「姿を借りる……」
「そ。有り体に言えば、アスモデウス様の好みの姿を借りて、彼女を慰めるための姿を見せているんす。ただ、その魅力はアスモデウス様への忠誠心に比例するので……アスモデウス様にとって魅力的な奴は、彼女への忠誠が高いって判断になるんすよ。だから、1番のお気に入りだったハンスの裏切りとなると、アスモデウス様も苦しいでしょうねぇ……」
「やっぱり私がいたから、いけなかったのかしら……。こんな事になって、ごめんなさい……」
「イヤイヤイヤ。それは違うっすよ。天使様は何も、悪くありません。だって、天使様はマモン様以外とそういう事、したくないんでしょ? ……だったら、それはそれっすよ。魔界じゃ、嫌がる相手を云々かんぬん……も、よくあることっすけど。それを認めないマモン様に吹っかけた時点で、色々とマズイっすね。殺されなかっただけでも、かなりラッキーなのに……。あいつはそういう所、妙に自信過剰なんだから。あ〜ぁ、フォローする方の身にもなって欲しいっすよ……」
「……」
「あっ。えらい長話して、すみません。俺はハンスを探さなきゃいけないんで、この辺でお暇するっす。……まぁ、これに懲りずに、怪我した時は俺も診てもらえると嬉しいっすね。それじゃ」
「えぇ、それは構いません。そういうご用件でしたら、いつでもどうぞ?」
ジェイドの何気ないお願いに対して、柔らかく微笑むリッテル。そうして天使が優しくて美人だという噂は本当だったとジェイドは確信しながら、別の理由も密かに諒解していた。これは確かに……マモンだけに預けておくには、あまりに惜しい。
アスモデウスはどんなに頑張ろうが、どんなに忠誠を誓おうが、いつまでもみんなのものであって、決して自分だけのものにはならない。征服欲も強かったハンスにとって、目の前の無垢な天使はさぞ、魅力的に見えただろう。彼女の意思ではないとはいえ、天使に誘惑されたというハンスの言い分も、全てが全て間違いでもない。
(やれやれ……。さっきまで、近くにいたみたいだな。俺としては、助けてやりたいけど……仕方ないよな……)
密かに自分達の様子を窺っていたハンスの視線に気づけないほど、ジェイドは間抜けではない。第一、ジェイドはハンスとは違い、「本当の意味での上級悪魔」なのだ。今は名実ともに、ナンバー2になりはしたが。実力は最初から、彼の方が圧倒的に上だった。そういう意味でも、ハンスは追い詰められているのだが……この采配を見事に振るうアスモデウスの手腕に、ジェイドは戦慄せずにいられなかった。
性欲を持つ者を誰彼構わず、魅了する能力。それを最大限に活かすには、手持ちに加えた「駒」の特徴を捉え、盤面上で最適解の陣を構築しなければならない。彼らの女帝・アスモデウスには意識する事なく、まるで呼吸をするが如くに、それを自然にやってのける才がある。今までずっと近くにいながら、それにすら気づけない点でも……ハンスとジェイドの差は歴然だった。




