8−2 危険な思考に陥った時
不気味なくらいに穏やかなローヴェルズの報告書を出して、誰にも捕まらないうちに帰れると思っていたのに。今日は天使長様や大天使様ではなく、ティデルが聞きたいことがあるとかで……彼女の話に付き合うことになってしまった。神妙な顔からするに、彼女にとっては重要な話のようだが。何があったのだろう?
「……あの、師匠。教えて欲しいことがあるんです。お忙しいとは思うんですけど、ちょっといいでしょうか……」
「別に構わないけど……ティデル、師匠はやめようか? 神界では師匠と弟子なんて関係は、無意味だと思うし……」
「そんなことありません! ルシエル様は私の超師匠です!」
超師匠って、何だろう……。妙に鼻息の荒い彼女の興奮を尻目に、私は自分のテンションが急降下していくのを感じていた。それはともかく、彼女の話を聞いてやる方が先か。
「それはもういいや……それで? お話って、何かな?」
「あっ、ハイ! 師匠はリッテルが帰って来た時、どうするべきだと思いますか? お仕置きは必要だと思いますよね?」
「あぁ、そういうことか……ちょっと話は聞いていたけど、ティデルはリッテルの事、嫌いなの?」
「嫌いです。師匠とハーヴェン様の間に無理やり割って入ろうとしたし、お仕事は中途半端だったし。その上、みんなに迷惑までかけて。最低です。帰って来たら、厳しい罰を与えた方がいいと思います!」
厳しい罰を……か。確かに、ティデルがそう思うのも、無理はないと思う。彼女の言う通り、リッテルが「やらかした事」は易々と許されることではないだろう。しかし……。
「そう。私は正直、そんな風に思わないな」
「……どうして? だって師匠も……リッテルには嫌な思いをさせられていたじゃないですか!」
「嫌な思い、か。それは罰を与えるか否かを考える上での判断材料にはならないよ。それでなくても、私もかつて重大なミスをして翼を失ったことがあったし……。ティデルの言い分からすると、私も最低の部類に入るんじゃないかな。乞われた事とは言え、大天使の命を奪ったのだから。それに比べたら、リッテルのミスなんて可愛いモノだと思うよ」
ミスをしたという意味では、私もリッテルと同類でしかない。そんな私には、リッテルに「厳しい罰を与えるべき」と言う資格もなければ、きっと自分を守るためでもあるのだろう……正直なところ、そこまでの必要性も感じない。
「あっ……でも、あれは仕方なかったって聞いてますっ! リッテルのとは、かなり状況が違うと思うんです」
「どうだろう? 私にしてみれば状況はどうあれ、神界の規律に反したという意味では、変わらないように思う。確かに、リッテルのお仕事は問題だらけだったのかもしれないけど、それを修正できなかったのはラミュエル様の責任もあると思うな。彼女がここまでの過失を起こすまでに、色々と方策はあったはずなんだ。それを放置したのだから、彼女だけに厳罰を与えるのを、私は必要だとは思わない。リッテルが死んでしまう結果になったら、ラミュエル様はきっと、立ち直れなくなるだろう。罰は必要かもしれないけど、同時に彼女に挽回のチャンスを与えるのも、必要な事だと思う」
彼女を追い詰め、思い詰めさせたのは、何も彼女自身のせいだけではない。ハーヴェンの事があってから、神界はリッテルにとって居づらい場所にもなっていたようだし……「こうなってしまった」原因はいくらでもあったと思う。それを是正しないまま放置していたのだから、これは何も、リッテルだけが悪いわけではないだろう。
「誰かさんが言ってたけど……みんなただ生きているだけで、数え切れないほどの間違いをするものなのだそうだ。間違いの大小に違いはあるのだろうけど、代償が命になるほどの間違いは、そうあるものじゃない。ティデルがそんな風に思うのも、間違いではないと思うけど。だからと言って、誰かが死んでしまうかもしれない事を、容易く必要だと言い切るのは危険じゃないかな」
「師匠も同意してくれると思ってたのに……。ミシェル様に言われたことが、分かったような気がします」
「ミシェル様に?」
「は、はいっ! この間、一方的に誰かをバカにしはいけないって、怒られちゃって……。それが分からないうちは、師匠に遠く及ばないって言われたものだから……私、それが悔しくて。……だから、こうして師匠が何て言うか確かめたかったんですけど。師匠はやっぱり凄いです! 私も師匠みたいに、ちゃんと深〜く考えられるような、立派な天使になりたいです!」
「そ、そう……。ティデルの中で納得できることがあったのなら、それでいいかな……」
深く考える、か。考えることは確かに大切だが、1人で考え過ぎることは時に、誰も望まない結果を生むことにもなりかねない。
私の場合はハーヴェンのようにきちんと話を聞いて、それに対して鋭い指摘をくれる相手がいるから、そんな風に思えるだけで……結局のところ、思考レベルはティデルのものとさして変わらないだろう。
1人で見えない答えを探し続けた結果に、危険な思考に陥った時。それを抑止してくれる相手がいるのは、非常に稀有な事だ。そういう意味でも誰かと話し合うのは、とても大切なことだと……今更ながら、思う。それを考えれば、ティデルに話相手として頼られるのも悪いことではない。
最後に律儀に「ありがとうございました」とペコリと頭を下げ、心なしか軽やかな足取りで戻っていくティデルの背中を見つめながら、ふとハーヴェンの事を思い出す。今頃、どうしているかな……。今日こそはちゃんと夕食に間に合うだろうし、みんなと一緒に食事できるかな。そして、今夜のデザートは何だろう……。




