7−45 常闇の悪意
ドアの先に広がっていたのは、どこもかしこも真っ白な異様な世界。魔力はそれなりにあるみたいだが、異常な空気がフュードレチアの皮膚をヒリヒリと焦がす。あたりを見渡しても……視界さえも真っ白なまま、何も動かない。
「……誰かいるの?」
何もないはずの空間にも関わらず、ふと右手に何かの気配に気づいて……フュードレチアはそちらに視線を向けると同時に、目を凝らす。視界にはうっすらとシミのような黒いモヤが浮かんで、少しずつ大きくなっていき……それが自分よりも遥かに巨大な、得体の知れない生き物であるらしいことをようやく把握する。
煌々と輝く緑色が2つ浮かんでいる以外は、黒い気体に包まれた正体不明の生き物。しかし、緑色の瞳らしい輝きに懐かしい雰囲気を感じて、フュードレチアは俄かに戦慄した。
「まさか……この感じは父上……?」
父上と呼ばれて、目の前の生き物の瞳が悲しそうな色を帯びる。そうして3色しかなかった色彩に新しく赤い色を加えるように口を開くと、彼女の問いに静かに呻いた。
「……この身を父と呼ぶそなたは、誰だ?」
「声が違う……。でも、この魔力は確かに父上のもの……。あなたは誰? そして……ここはどこ?」
父だと思っていた生き物の声は、掠れた女性のものだった。性別が違う時点で、目の前のそれが父親でないことは明白だが、それでも……懐かしい空気を帯びるそれを他人とも思い切ることもできず、フュードレチアは答えを待った。
「私の名は知らぬ方がいいだろう……。だが、ここはお前がいてはいけない場所であることだけは確かだ。……早く逃げるのだ。支配者に見つからぬうちに」
「逃げるって、どこに? 支配者って、誰のこと? それに、ここはどういう場所なのかしら……」
「……! まずい、隠れろ! 早く!」
「え? か、隠れるってどこに……」
フュードレチアが反応しきる間も無く、背後におぞましい空気を感じて、そちらを振り向く。一方で、真っ黒な生き物はその空気を感じ取るや否や、既に獰猛な唸り声をあげて、怒りを顕にしていた。
「おやおや、こんなところに迷子とは珍しい。……お前は誰ぞ?」
「……あなたこそ、誰?」
「お前ごときに名乗る名は持たぬ。しかし……ほぉ? その魔力、その尾に角……なるほど、お前は竜族か。ククク、これはいい! また面白いことができそうだ」
青色の短い髪を掻き上げたかと思うと、名前すら名乗ろうとしない女が右手を払う。その瞬間、真っ白だった景色が確かに形を持ち、蛇のような鎖となってフュードレチアを捉えようと慟哭するが……寸の間でフュードレチアを庇うように、真っ黒な生き物が身を呈して、代わりに戒めを受け止めた。
「……チィ! 邪魔立てするな、この出来損ないが!」
「この娘はただ、ここに迷い込んだだけのちっぽけな存在ぞ。お前にとって、取るに足らぬ相手であろう! これ以上、罪を重ねるでない! これ以上、不必要に誰かを苦しめるでないぞ!」
「罪を重ねる、だと? 口の利き方には気をつけろ」
整った顔を歪めて……吐き捨てられる声に反応するように、黒い体を締め上げ、伏せさせる白い蛇。それでも尚、唸り声をあげながら女を睨みつける、黒い生き物。
「私を庇ったというの? あなたは一体……?」
「私のことはどうでもよい! 早く逃げろ! 逃げるのだ!」
「折角の材料を逃しはせぬぞ。大体、どこに逃げろと言うのだ? この空間は既に我の支配下にあるのだ。出口など、とうにないわ」
新たに出現した戒めが、黒い生き物の口を更に締め上げる。しかしそうされても尚、彼女は諦めずに咆哮をあげようともがく。呪縛から逃れようとする身に、更に白い縄が食い込み、鮮やかな赤い血がその白を染め上げていが。それでも、咆哮からも血を吐きながら……黒い生き物は抵抗を止めようとしない。
「……しぶといな。だがその傷では、いくら思念体と言えど、さぞ苦しいであろう?」
「グルルル……! よ……せ……その体でそれ以上……」
「ふん。魂を剥奪して、私の邪魔をしたつもりか? その程度で、我が計画に狂いが出るとでも?」
訳の分からない会話を繰り広げながら、どこまでも柔和で優美な顔でフュードレチアに向き直る青髪の女。緋色の瞳におぞましいほどの悪意を滾らせながらも、尚も清らかささえ感じさせる風貌は……不気味としか言いようがない。
「これ以上私に近寄るな、無礼者! 私を誰だと思っている! 我こそは、竜界の竜女帝候補の……!」
「お前の名など知らぬわ。まずは物を言えぬ様に……その不愉快な口を閉じるとするか」
彼女が右手を挙げたかと思うと、フュードレチアの足元から無数の棘となった白い刃が、彼女の身を貫く。しかし……絶妙に急所を外しているそれは、最大限の痛みを彼女に与えつつも、命を一思いに奪う恩情は持ち合わせていなかった。
「……ッ⁉︎」
「態度は不愉快でしかないが、お前の存在は非常に利用価値がある。肉も骨も、そして魂も……全て使わせてもらおう。安心しろ。簡単には死ねぬ様にじっくりと、少しずつ身を剥ぎ取ってくれる。その過程の中で……新しい神の降臨の礎になれる事を、光栄に思うが良いぞ」
くぐもって、穏やかでありながら底冷えする様なその言葉に、血を吐くことしかできないフュードレチアは口答えすらできない。言葉を吐き出せない事におかしいと思って神経を巡らすと、舌先の感覚が丸ごとなくなっている事に、何とも言えぬ消失感が襲ってくる。ヒューヒューと不自然な隙間風の音を漏らしながら、舌が顎ごと切り取られてしまっているのにようやく気づいた頃には、痛みはとうに限界点を超え、体の感覚さえ麻痺し始めていて。体のどの部分が無いのかさえ、確かめる事もできない。それでもフュードレチアの神経は目の前の女が放つ、今までにない常闇の悪意にただただ怯えていた。
体の震えが止まる頃には、自分は死んでいるのだろうか。
痛みが消えゆく体と辛うじて繋がっているらしい頭が、そんな事を冷静に考えているのが、妙におかしくて涙が出る。しかし……その涙を掬ってくれる者は今も昔も、彼女の側にはいなかった。




