6−33 誰かさんのお人好しが感染っちゃったかなぁ
「奥の部屋」は多分、ここだろう。
ベルゼブブ的には地味もいいところの廊下の行き止まりに、立派な設えの扉が見えてくる。落ち着き過ぎた色合いといい、暗さといい。物音1つ聞こえないくらいに、こうも静まり返っていると……却って落ち着かない。そんな事を考えながら、ベルゼブブは努めて「フランクに」ドアを開けながら、中にいる相手に声をかける。
「ハロ〜? マモン、調子はどう〜?」
「あ? ベルゼブブ、こんなところまで何しにきたんだよ? ……お前さ、この状況見て分からないの? 俺、もの凄く忙しんだけど」
「うん? そうなの?」
忙しい、か。
部屋の中央に据えられている天蓋付きのベッドの上には、支柱に首輪を繋がれた天使らしい女の子が転がされていた。繋がれている首は赤黒く変色しており、身体中の打撲の痕が彼の仕打ちがいかに凄惨なものかを如実に語りかけてくる。そして、回復魔法を使わせないようにだろう。口には轡が噛まされており、手酷く殴打されたらしい顔も全体的に痛々しく腫れ上がっていて……彼女の瞳の色さえ、分からない。
「ところで、マモン。……その子、どうしたの?」
あまりの光景に、流石のベルゼブブも低く呟く。しかし……ドスの効いた響きに物怖じすらせず、マモンがいつもの調子でカラリと答えた。
「別に? お前さんには、関係ないと思うけど?」
「ま、確かにね。以前の僕だったら、関係ないで済ませていたかもしれないけど。ただ、今はちょっと事情があってね。僕としては今後、あんまり天使と揉めたくないんだよ」
「フゥン? また何で? もしかして……ルシエルちゃんに枕営業でもされたの?」
かのお嫁さんの名前にかすかに反応したところを見ると、少なくとも彼女の方はルシエルを知っているらしい。そんな痛々しい反応が、ベルゼブブの気分を必要以上にざわつかせる。
「まっさか〜。ルシエルちゃんはハーヴェン以外に、そんなお下品なことはしないと思うよ〜? ただ、お嫁ちゃんに、今後ともよろしくお願いします……なーんて、言われちゃったから。僕も珍しく、やる気を出してみたんだよ」
違和感とムカムカする胸焼けにも近い嫌悪感を振り切るように、いつもの調子を繕う。
ベルゼブブは概ねいい加減ではあるが、気分屋ではない。中身は意外とマトモなのは、決して嘘ではないと……彼自身は思っていたりするが、今はそれすらもギリギリのところで取り繕っている。何がここまで自分の気分を害しているのか分からないのが、何よりも落ち着かない。
「あっそ。それじゃ、一応は答えてやるけど。こいつはリッテルって言うらしい。何でも、ルシエルちゃんと同じように“悪魔のご主人様”が欲しかったらしくてさ。俺がその望みを叶えてやろうと、飼ってやる事にしたんだよ」
「ご主人様違いじゃない? 確かに、ルシエルちゃんはハーヴェンの事を“主人”なんて呼んでいたけど。……あれ、飼い主って意味じゃないから」
「お前さ、俺のことバカにしてんの? ……そんなこと、言われなくても知ってるよ」
「そう? でも、これじゃ……分かっていないように見えるよ?」
先ほどから、リッテルと言うらしい天使が「ルシエル」の名前に反応している様子を見る限り……ちょっとやそっとの知り合いではなさそうだ。そんな事を考えつつも、さもバカにしたように肩を竦めてお手上げのポーズを取るベルゼブブ。マモンがどの程度の挑発に耐えるのかは知らないが、未だに危険な笑顔を見せないのを見るに、思いの外、落ち着いている状態のようだ。
「……だったら、何だって言うんだよ。とにかく俺は今、こいつを甚振るのに忙しいの。大真面目な話は後にしてくんないかな?」
「フゥン? ま、いいや。そういうことなら……話しておかなきゃいけないことがあったから、伝えるけど。……ルシファーが神界に帰ったよ」
「は? どういう事だ……それ?」
「うん。ルシエルちゃん達がこっちに来ていたのは、ルシファーに会うためだったんだよ。人間界で問題が起こっているとかで、手に負えない部分があるらしい。それで元天使長のお知恵を借りたいと、やって来たんだけど」
「それがどうして神界に帰る結果になるんだよ。大体、あの場所が引きこもるのに丁度いいからって、俺からあの玉座を奪ったんだぞ、アイツは! それが何で、そうもアッサリ帰ったりするんだよ!」
マモンは未だに、ルシファーに玉座を奪われたことを殊更気にしているらしい。ルシファーが帰ったことよりも……何故それを簡単に手放したのか、という点に拘っている。
「ハーヴェンに魔法で負けたみたいだよ」
「……嘘だろ?」
「いや、本当。ハーヴェンはルシファーに試合では負けたものの、勝負には勝ったみたいでね〜。ルシファーにあの旗を使わせるまでに追い詰めた上に、天使ちゃん達と一緒に彼女を説得しちゃったみたいよ?」
「アイツに魔法で勝っただと? エルダーウコバクが⁉︎」
「ハーヴェンは基本的に穏やかだけど、やる時はやる子だからね。特に今回は可愛いお嫁さんのために、かなり頑張ったみたいだよ。……あれが愛の力ってヤツなのかなぁ? 僕にはその辺はよく分からないけど、自分が傷だらけになろうとも、一生懸命になれるって……ちょっと羨ましい」
「……ケッ、くっだらねぇ」
吐き捨てるように言う割には……マモンの表情は寂しげだ。以前は自信に満ち溢れていたのに。もっと余裕のある表情をしていたのに。ルシファーやハーヴェンに負けたことは、彼から必要以上の何かを奪い取ったようだった。
「そう? お前がどう思うかは、僕には関係ないけど。あの玉座に座りたがるのは……多分、リヴァイアタンくらいしかいないと思うし。……もし良かったら、戻ったら?」
何気なく提案してみたが、おそらくマモンは戻らないだろう。……彼が欲しいのは、玉座そのものではない。
「今更、戻ったところで、誰も……俺が魔界1位だと思わないだろ。ルシファーだって、エルダーウコバクが追い出したんだったら、余計、あの場所には戻れない。俺は名実ともに1位に戻りたいんだよ。欲しいのは玉座じゃない。周りの奴らの畏怖さ。でも、今の俺にはそれを手に入れる力さえない。……どうすればいいんだろうな? どうすれば……前みたいに、周りの奴らは俺を崇めてくれるようになるだろう? ……どうしたら、前みたいに……俺の話を聞いてくれるようになるだろう……」
「さぁ、ね。それは自分で考えることだろ? それと、その子なんだけど。逃がしてやれとまでは言わないけど……せめて、轡は外してやってくれないかな。回復魔法くらいは使わせてあげないと、本当に死んじゃうよ。いいの?」
「別に構わねぇよ。死んだって。俺はルシエルちゃんみたいな可愛くて、生意気な天使を征服したかっただけだし。正直、口だけのこいつはどうでもいい」
「そう? どうでもいいって事は……逃がしてあげてもいいって事?」
「そうだな……。腐っても天使だし、そう言われると……逃すのは、ちょっと惜しいな。……分かったよ。回復魔法を使わせてやれば、文句ないか?」
心中を少し吐き出したせいだろう。随分としおらしくなったマモンの様子に、ベルゼブブは自分のムカつきが治っていくのを感じていた。
(そっか、僕は怒ってたんだ。……自分の配下以外の誰かのために怒るなんて、久しぶりかも)
ベルゼブブは配下への配慮は細やかではあるが、それ以外はどうでもいいと考えている部分があるのは、否めない。そのはずなのに、マモンの「お友達」への仕打ちを目の当たりにして、腹が燻るような感覚が自分の神経をジリジリと不愉快に焦がすのを、どことなく感じていた。……いつの間にか、ベルゼブブは自分が思っている以上に「お嫁ちゃん」を気に入っていたらしい。
(やれやれ。どっかの誰かさんのお人好しが感染っちゃったかなぁ……)
見れば早速、轡を外されたリッテルが苦しそうに口を動かしながら魔法を詠唱している。しばらくそのまま見守ると、きちんと回復魔法を発動させたらしい。……彼女の痛々しい傷が、みるみるうちに回復していく。
「へぇ〜。マモンの口ぶりからして……リッテルちゃんはそんなに美人じゃないのかも、なんて思ってたけど。この子、もんの凄い美人じゃない。確かに……手放すのは惜しいかもねぇ」
「そうか? 俺は正直、ルシエルちゃんみたいなのが良かったんだけど」
「でも、ルシエルちゃんはぺったんこだよ?」
「……だからいいんだろ。俺は小さい子供みたいなのを、甚振るのが良かったんだよ」
「うわ、悪趣味」
「あの屋敷に住んでいるお前に言われたくないし。まぁ、とにかくさっさと帰れよ。俺はあそこに戻るつもりはないから。……適当にリヴァイアタンにでも譲ってやれ」
「そう? それじゃ、どうするかはちょっと考えてみるよ」
「……そうしてくれる? それと、こいつは飽きたらちゃんと逃がしてやるから、安心しておけよ。……その様子だと、そっちがメインだったんだろ? 俺がいつ飽きるかまでは、保証しないけど」
ベルゼブブの「本当の目的」を理解している時点で、マモンは根底ではまだまだ話が通じる相手であるらしい。とりあえずは第一目標を達成できて、御の字と言ったところか。
「できるだけ早めに頼むよ。僕は天使ちゃん達と仲良くしておきたいんだよね。でないと、向こうに遊びに行けなくなっちゃうし」
「向こう?」
「そ、人間界のルシエルちゃんとハーヴェンのお屋敷。改めて、ルシエルちゃんからもお許しが出てね。僕が遊びに行く分には問題ないって言ってくれてさ。あっちに行けば、ハーヴェンから美味しいおやつをいっぱい貰えるんだよね。それが無くなるのは、ちょっと辛いかなぁ」
「……なに、お前まで天使に馴染んでるんだよ。そんなにあいつらとつるむのが、いいのか?」
「うん、とっても。天使ちゃん達は怒らせると怖いもの。僕としては敵に回すよりも、仲良くしている方が得策だと思うな。そっちの利点の方が断然、多いし」
話が平行線のまま、終わらないとでも思ったのだろう。マモンが諦めたように、手をヒラヒラと振ってあっちに行けとジェスチャーしている。少々むくれた様子ではあるものの……彼と必要最低限の話はできたことに、ベルゼブブはちょっと安心していた。
……正直なところ、マモンは冗談抜きで強い。風属性の彼に対して、地属性のベルゼブブは属性の相性はいいものの。それでもマモンは曲がりなりにも、かつては魔界第1位の座に君臨していたのだ。争いになったら無傷では済まない上に、実力を失っている今のマモンが相手でも……絶対に勝てない。
(それにしても、僕も魔法の使い方をハーヴェンから逆輸入しようかなぁ。あの子……マモン相手でも、無傷だったんだよねぇ。本当、特異転生体ってのは……どこまで未知数なんだろう?)
そんなことを考えながら、自分の触覚を指で弄ぶベルゼブブ。ハーヴェンが生前から魔法が使えた理由と、知識量の多さは、無関係ではないだろう。そして、彼はその部分で明らかに「特殊な能力」を持っている。
(……天使っていうのは、そういう意味でも敵に回すと厄介だよね。ハーヴェンが男の子だったのは、僕らにとっても……良かった事なのかもしれないな)
ハーヴェンが女の子だったら……もしかしたら、「そっち側」に転生していたかも知れない。なので、ハーヴェンが「彼」である事はベルゼブブにとっても、ある種の幸運だったのだ。そうでもなければ……きっと、今頃「悪魔のおじちゃん」等と呼ばれて、悦に入る事なんて絶対になかっただろう。
そんな事を考えては、おじちゃんも少しは頑張って良かったかなと、ほくそ笑むベルゼブブ。いつものニヤケ顔に、更に上機嫌を乗せて。暴食の大悪魔はお役目完了とばかりに、意気揚々と黒い空へ飛び立っていった。




