6−24 この身を削ってでも
ハーヴェンが見つめる先には、陰鬱とした沼が広がっている。そんな暗い風景を前に、表情が分かりづらいはずのハーヴェンが、明らかに険しい表情を見せていた。……一体、この先に何が待っていると言うのだろう?
「さて。ここから先はルシエルが嫌がろうが、オーディエルさんも抱えて飛ばなければならない。ちょっと苦しい思いをさせるけど、心して聞いてほしい」
「どういう事?」
「ヨルムツリーの沼は猛毒の魔力を吐き出している。耐性がない者はひと吸いでもした時点で、猛毒に冒され、空気に触れた瞬間に目が潰れるだろう。……まぁ、お前達の場合は回復魔法と再生魔法もあるんだろうが、いずれにしても目が使えない時点で、自力で渡りきることは不可能だ。そこで俺がアクアプリズンを使って水の膜を作り、それごと2人を運ぶから……しばらく、中で少し大人しくしていてほしい。ヨルムツリーの根元にさえたどり着ければ後は問題ないし、帰りはベルゼブブの屋敷行きのポータルを構築できるから、復路の心配もいらない。ただ、沼を超える間だけの辛抱はしてもらわないといけない」
「その猛毒……ハーヴェンは大丈夫なのか?」
「あぁ、大丈夫だ。俺自身は悪魔だし、耐性も多少はあるらしい。ベルゼブブにルシファーの謁見に連れられてきた時も自力で越えられたから……問題ない」
「そういうことなら、私は大丈夫だ。……運ばれるだけで済まないが、そのくらいなら我慢できる」
「私もだ。……ハーヴェン様に身を預けるだけで良いのなら、喜んで従おう」
オーディエル様の返事にちょっとズレたものを感じつつ、私達の答えを受け取ったらしい彼の様子を見守ると、早速魔法の詠唱に入ったようだ。そうしてあっという間に、鮮やかな手際で中級の拘束魔法を発動させてみせる。
「揺めきの水際に身を委ね、その虚空に時を封じん……アクアプリズン!」
魔法の展開と同時に、空中にぽっかりと浮かぶ水の球体。指を突っ込むと、中は清廉な水で満たされている。かなり緻密な魔法構築をされているのだろう、ここまで濃密な空間であれば……確かに毒が侵入してくることはなさそうだ。
「出来るだけ急ぐから、少しの間……辛抱してくれな」
「分かった。……途中で落としたりするなよ?」
「もちろんだ。……この身を削ってでも、向こう岸に運びきってみせるさ」
「……うん、信じてる」
その答えに全てを託すと、息を大きく吸ってオーディエル様と一緒に水の牢獄に身を預ける。そうしてすぐに体を襲う窮屈さと浮遊感。既に彼に抱えられて飛び立ったらしい、揺らめきの向こうの景色を追えば。真っ黒な霧の中、同じ色のたくさんの黒い手がこちらに伸びてくるような錯覚に襲われる。時折、遠くに聞こえる唸り声は……おそらく、ハーヴェンのものだろう。
呼吸できないのが、こんなに苦しいものだと思いもしなかったが……それでも。妙な安心感に包まれて外の景色が滲みながら通過していくのは、とても不思議な光景だ。そんなことを僅かに考えながら、しばらくしたところで……水の塊が風船に針を突き立てたかのようにパリンと割れて、急に自由が戻ってくる。
「……ハァッ、ハァ……」
「つ、着いたのか……?」
……無事、「向こう岸」に着いたらしい。枯れ草の大地に手を着き、大きく息を吸いながら……私達の様子を見守っていてくれたらしいハーヴェンに応じるが……。
「大丈夫か。とりあえず、ちゃんと着いたから……一安心だな」
「う、うん……ありがと……⁉︎」
そうして呼吸を辛うじて整えながら彼を見上げると、真っ黒だったはずの体が、血まみれで赤く腫れているのが見える。何より、左足が完全になくなっているではないか。
「ハーヴェン……? ど、どうしたんだ、その傷⁉︎」
「あ、あぁ……ちょいとな。でも、しばらくすれば治るし……このくらいは想定内だ」
「そんなことを言っている場合か! すみません、オーディエル様! お力を貸してください!」
「分かっている! 再生系の魔法は任せろ‼︎」
満身創痍の彼の姿にに呼吸を整えるのも忘れて、2人で回復魔法を展開する。こういう時、魔力が濃い世界というのは本当にありがたい。
「深き命脈の滾りを呼べ、失いしものを今一度与えん……リフィルリカバー、トリプルキャストッ!」
「汝の痛み、苦しみ、全てを食み開放せん! 魂に再び生を宿せ……グランヒーリング!」
邪魔する者もいない状態で回復魔法をそれぞれきちんと発動すると、ハーヴェンの傷がみるみる塞がっていく。そうして、傷も怪我も無事治療できた頃には……ようやく全員の呼吸が落ち着いていた。
「すまないな、お2人さん。お陰で助かったよ」
「……何があったんだ? さっきの傷は……ちょっとで済む状態じゃないだろう⁉︎」
「いや、えぇと……」
「……両手が塞がっていたからか? あの黒い手のせいか?」
「……」
「……身を削って、ってそういう意味だったのか?」
「ル、ルシエル……」
「何で、初めにそう言わない⁉︎ どうして、そんな無茶をしたんだ!」
「だって言えば、お前達は先に進むのを躊躇するだろう⁉︎」
「当たり前だ! 大体、今日の遠征だって……こちらの都合なのに……! どうして、どうして……」
そこまで言葉を絞り出したところで、目の前がさっきの景色と同じように滲んでいく。
回復魔法で治せるとはいえ、彼が受けた痛みはかなりのものだろう。一方で、私の方はそんなことを考えるでもなく、気楽に運ばれているだけだった。毒の沼を越えるという話があった時点で、彼に無理をさせることくらい、どうして気づけなかったのだろう。とにかく自分が情けなくて、腹が立つ。
「……ハーヴェン様、本当にありがとうございました。あなたのお陰で……私達は前に進むことができます。……こちらの都合ばかり、振り回してばかりで申し開きようもありません。しかし、そのお力添えに報いるためにも……ルシエル、今は泣いている場合ではない。ルシフェル様にお会いして、知恵をお借りしよう。折角、3人でここまで来れたのだ。みすみす機会を無駄にする訳にもいくまい」
そんなことを言いながら、オーディエル様が背中を摩ってくれる。確かに今は泣いている場合でも、自分に腹を立てている場合でもないだろう。そうだ、彼の献身を無駄にしないためにも……前に進まなければ。
「そう、ですね……そうだ、今はルシファーに会わないと……。ハーヴェン、その」
「うん?」
「ありがとう……」
「おぅ」
そこまで会話をしたところで、背後から妙に圧迫感のある魔力の気配を感じて、振り向く。パチリと合う、視線と視線。しかして……先方の視線が不思議そうな光を帯びているのを見るに、彼女の方はしばらく、こちらの様子を窺っていたようだ。
「お出でなすったな。彼女が傲慢の元締め……ルシファーだよ」
「彼女が……?」
改めて、見やれば……黒い衣装に身を包みつつ、純白の翼を4枚生やした天使がこちらを見下ろし返してくる。白銀に輝く、短めに切りそろえられた髪。そして前髪の下に覗く瞳は、こちらを射抜くように鋭く、赤く……そしてどことなく、慈しみ深い色をしていた。




