6−17 出来損ないの悪魔
眼下に広がる溶岩の川に沿って西に向かうと、小高い丘陵地帯へと景色が変化する。そこまできたところで、ハーヴェンが下に降りるように指示を出してきた。どうやら、翼で飛べるのはここまでらしい。
「この先は上空の乱気流が激しくてな。だから、この後は歩きになるんだが……川の色が紫になっている所からがいよいよ、羨望の大悪魔・リヴァイアタンの所轄地だ。多分、一筋縄では行かないと思う」
「そうか……。しかし、魔界の風景ってなんというか……」
「あぁ、分かってるよ。……紫と赤と黒。大体、そんな感じの色で埋まっているからなぁ。まぁ、ベルフェゴールが住んでいる凍土地帯は多少、色味は明るいんだけど。でも、やっぱり大半は紫だな……」
そう言いながらも、ハーヴェンはここで休憩をいかがと、提案してくる。おそらく、この先は息をつける場所がないということなのだろう、私とオーディエル様に近くの岩に腰掛けるように促す。
「ここでひとまず、休憩をしたいと思います。もしよければ、この辺でお弁当はいかが?」
「おぉ! 待っていました! 是非、お願いしますっ!」
もう既に慣れつつあるオーディエル様の変な口調を気にする事なく、手に提げていた包みからお弁当を1つ彼女に手渡すハーヴェン。そうして私も受け取ったお弁当は……以前のものよりコンパクトになっており、何かの葉で包まれている。落ち着いたグリーンの佇まいは、どこかノスタルジックな印象を醸し出していた。
「前回みたいに大っぴらに広げる余裕はないから、簡易的なものになって悪いんだけど……」
ちょっと申し訳なさそうに言いながらも、ハーヴェンは手際よく、私とオーディエル様にお茶を渡してくれる。しかし、そのお茶も妙に見慣れない色合いで……手元のお弁当の葉と同じ色をしているが、独特の香りを確かに鼻に伝えてくる。
「こ、これはなんのお茶なんですか?」
「え? あぁ……お弁当も含めて、オリエント風にしてみました。それは緑茶といって、茶葉を発酵させない状態で加工したものらしい」
「お茶を……発酵?」
「うん。厳密にはいろんな定義があるんだろうけど……簡単に言えば、普段人間界に出回っている紅茶は完全発酵の茶だ。で、お前達の手元にあるのは無発酵、つまり紅茶の前段階のものを加工して煮出したもので……元を辿れば、両方とも茶葉自体は一緒だぞ」
「そ、そうなんだ……」
食材に関しても博識なハーヴェンの説明を頂きつつ、緑茶というらしいそれを口に含む。独特な渋みがあるそのお茶は……確かに紅茶とはかなり違う味わいだが、どことなくまろやかな甘みもあり、これはこれで美味しい。
「で、お弁当のオムスビという米料理にはそれが1番合うんだと、レシピを教えてくれた奴が言っててな。それでオムスビだけど、中身はそれぞれ別の具が詰めてあるから……それも含めて楽しんでくれると嬉しいぞ」
「うん。どれどれ……?」
ハーヴェンに解説を頂きながら、綺麗に4つ並んでいる手元のオムスビとやらの1つを口に運ぶ。中身は肉を甘辛く煮込んだものらしい。米の控えめな塩気に、甘辛いタレが絡んでとにかく美味しい。
「……ハーヴェン様、これはなんの具ですか?」
「あぁ、それは魚の卵のソイソース漬けだな。鮭の卵をオリエントの調味料で漬け込んだもので……もしかしてお口に合わなかった?」
「い、いいえ! そんな事はありません! ただ、あまりに美しくて、食べるのがもったいないと言うか……」
オーディエル様の手元のオムスビからは、綺麗な赤い粒が覗いている。なるほど。確かに、綺麗に赤く輝く球体は芸術的な美しさかもしれない。
「そっか。でも、そいつは1番足が早いから……食べないとすぐに腐っちまうぞ」
「‼︎」
そんな妙に脅迫めいた事を言いながらも……ハーヴェン自身はお茶を啜るだけで、お弁当を食べる様子はない。彼の様子を見ていると、周囲を警戒をしているらしい。時折、耳と鼻をヒクヒクさせながら……辺りを窺っているようだった。なるほど、魔界が安全ではないというのは大げさではないということか。
「……やっぱり、お出ましになったか……」
「ハーヴェン?」
「すまない、ちょっと追い払ってくる」
私がそんな事を考えている矢先に、急に立ち上がった彼の視線の先を追うと……小さな子供のような悪魔が数人、こちらの様子を探っている。それらは悲しそうな瞳をしており、害があるように見えないのだが……。しかし彼らの様子に反して、彼が獰猛にコキュートスクリーヴァを構えると、小悪魔達はハーヴェンに戦意がある事を読み取ったらしい。
「クケケケケッ!」
先程までの悲しそうな表情が一変、口が耳まで裂けたかと思うと、ハーヴェンに向かって飛びかかってきた。ハーヴェンの方はさも慣れた様子で、コキュートスクリーヴァの背で打ち返してはいるが……打ち返されても、打ち返されても、小さな悪魔は突進をやめようとしない。
「……チィ! キリがないな……。あんまり手荒な真似をするつもりはなかったが、仕方ない……」
そう言いながら、彼が何やら魔法の詠唱に入る。そうして相変わらず、向かってくる彼らに打撃を与えながら器用に魔法を展開し始めた。
「紺碧の深淵、永劫の苦痛に身を委ねん! 氷土の交わりを持って絶望を知れ‼︎ グレイシャルフィールド!」
魔法の発動と同時に、薄黒い大地が白銀の世界に様変わりする。確か……グレイシャルフィールドは水属性最高位の魔法だったはずだ。それを武器を振るいながら軽々と展開してみせる時点で、上級悪魔は伊達ではないことをまざまざと見せつけられた気がするが。……ハーヴェンはいつの間に、こんなに強くなったのだろう?
「……ゆっくり食事もさせてやれなくて、申し訳ないな……」
「い、いいえ……こちらこそ呑気に食事をしていて、すみません……。しかし、あれは一体……?」
オムスビを既に全て平らげたらしいオーディエル様が、ハーヴェンにさっきの小悪魔の正体を尋ねる。
「……あれは出来損ないの悪魔でな。魔界は魔力だけは潤沢なものだから、時折、ああして死んだ獲物が中途半端に闇堕ちする事があるんだよ。ただ、大抵の場合は生に縋っているだけだったりするから……特定の欲望に向いて闇堕ちもできていないらしくて。悪魔やこっちに迷い込んだ人間なんかを襲って、悪魔に成り上がろうとしているんだ。どういう理屈なのかは分からないけど、襲った相手の脳を食い散らかして知識を奪う事で、ちゃんとした悪魔になれると信じているらしい。……実際はそんなこと、絶対にないんだけどな。あいつらは言葉も持たなくてさ。話も通じないもんだから、仕方なく、こちらも食われないように追い払うしかないんだ。因みに、さっき刃の方を使わなかったのは、ぶった切った先で増殖するからだ。胴体を真っ二つにすると、別れた先でそれぞれ再生をするもんだから……あいつらを切り刻むのは、最もやってはいけないことだったりする」
食事時に聞きたい話ではないものの、先ほどの悲しい顔はそういう部分もあってのことなのだろうか。……出来損ない、か。なんだろう、そんな風に呼ばれなければいけないのは……とても辛いことのような気がする。
「……悪魔にしてやることはできないのか?」
「それができたら、苦労はしない。悪魔は闇堕ちの瞬間、欲望が向く先が固定される。闇堕ちの時に魂が向いている欲望が判別できないと、悪魔として完全に転生することはできない。だからチャンス……って言うのも、何だか変なんだけど。悪魔になりきれない場合は、ずっとそのままだ。そして中途半端だろうと、1回でも闇堕ちを経験したら2回目はない。悪魔が2回目を迎える時は、それは完全なる死……魂の消失を意味する」
かつて、アヴィエルがピキちゃんを魔力分解した事があったが。おそらく、彼の言っている魂の消失はそれに近いものなのだろう。既に氷漬けにされてピクリとも動かなくなった彼らを見つめながら、オムスビの最後の一口を飲み込む。
こうして美味しい食事をいただける事、そして……こうして、生きていることに喜びを感じられる事。もし、彼らにそれがないのだとしたら。それは……出来損ないと呼ばれること以上に、辛いもののような気がする。
「2人とも落ち着いた? またあいつらが現れてもいけないし、そろそろ出発するぞ」
「うん。大丈夫。……とにかく魔界が危ない場所だということは、よく分かったよ」
「そうだな……多少想定はしていたが、やはり私は呑気に考えすぎていたかも知れん。ここから先は気を引き締めた方がいいだろう」
オーディエル様の口調が変化しないことに、何やら安心したらしいハーヴェン。そうして私達に立つように促すと、自身は先頭を歩くつもりらしい。かなり魔力を抑えているらしい尻尾からは、冷んやりとした空気が伝わってくる。その尻尾をしっかりと見つめながら……私は今まで以上に、魔界の魔力のひり付きを肌で感じていた。




