5−9 僕、知〜らない
今日はとっても楽しかった……そんな事を考えながら、お土産と小さな青い宝石を大事そうにローテーブルに置くベルゼブブ。しかし、彼の麗しいご機嫌に水を差すように、何やらおカンムリ状態のアスモデウスの声が背中に被さる。
「ちょっと! ナニ、ウチの子達に惨めな思いさせてんのよ! 折角、斡旋してあげたのに……あんな扱いをするなんて、どういう了見なのかしら⁉︎」
「あれ? サキュバスちゃん達、ご不満だった?」
「違うわよ! 怒っているのは、そこじゃないわ!」
「ん?」
彼女の怒りのツボは別にあるらしい。見れば、アスモデウスは燃えるような赤い髪を逆立てて、既に口が耳まで裂けている。……本気で怒っているようだ。
「あ、そういうこと? ハーヴェンが靡かなかったのが、そんなに不満なの?」
「当たり前でしょ⁉︎ お前のところのエルダーウコバク、ウチの可愛子ちゃん達を見て、興味ないとか吐かしたらしいじゃない! それがサキュバスにとって、どんなに屈辱的な事か分かってるの⁉︎」
サキュバスは相手の性欲を刺激するために、これ以上ないほどに蠱惑的かつ、魅力的な姿をしている。皆、絶世の美女と言っても差し支えが無いくらいに秀麗で、それでいて、妖艶な容姿をしており……そして、自身の姿にそれぞれ、絶対の自信を持っている。
だからこそ、彼女達は「何人落とした」かを互いに競うし、ハードルが高い相手を「いかに落とすか」を争う。反面、最上の姿を持ってしても「落とせなかった」相手がいるのは、屈辱以外の何物でもないらしい。
「仕方ないでしょ? 僕もハーヴェンも、“そっち”より大事なものがあるんだし。優先順位が違うんだよ。僕は食欲、ハーヴェンはお嫁さん。それが分からないうちは……僕はともかく、ハーヴェンを“落とす”のは絶対、無理だから」
「言ったわね⁉︎ ならば、そのお嫁さんが来るとかいう日に勝負しようじゃないの?」
「ん?」
「こうなったら……私が直々にエルダーウコバクを落としてやるわ‼︎」
「あ、なるほど。お前ですら落とせないって分かったら、サキュバスちゃん達のプライドも少しは回復するかもね〜」
「なっ⁉︎」
「アハハ! 今日は色々、愉快だな〜。僕、めっちゃくちゃ面白いかも。いくらお前でも、無理だよ。無理、無理。ルシエルちゃんには、絶対に敵わないって〜」
「何ですって⁉︎」
わざと色欲の大悪魔を刺激するようにからかう、暴食の大悪魔。そこまで応じたところで、ふと思い出したことを目の前の口裂け女に呟く。
「そうそう、例のお嫁さんだけど……丁度、あっちの時間で3日後にこっちに来るよ。お前もルシエルちゃんがどんな子か、見定めるといいんじゃない?」
「……フフ、フフフフ……そう、そういう事……! 分かったわ、私がエルダーウコバクを落としたら……こっち側に縛り付けて、お嫁さんとやらの前で最後の最後まで絞り尽くしてやるんだから……‼︎」
「うわぁ〜、怖〜い。まぁ、せいぜい頑張って。……多分、無理だろうけど」
そこまで言われても尚、余裕の表情を見せるベルゼブブ。そんな彼の様子に、不思議に思うところがあるらしい。ようやく気分を少しだけ落ち着かせると、美しい姿に戻ったアスモデウスがベルゼブブの余裕の理由を尋ねる。
「その余裕は、何なのかしら⁉︎ 何の確証があって、そこまで言う訳⁉︎」
「いやさ、今日、ルシエルちゃんとハーヴェンの愛の巣にお邪魔してきたんだ」
「は? 愛の巣⁇」
「うん、つっても……人間界で彼らが暮らしているお屋敷なんだけど。いや、楽しかったよ? ハーヴェン、ちゃ〜んと父親やってたし」
「何、それ?」
結婚の概念も吹き飛んでいる上に、子供の面倒を見るなんて思想は悪魔にはない。悪魔は天使と異なり、子を産むことはできるものの……基本的に子供ができにくい上に、父親が分かっているケースの方が珍しい。そのため、子供は産みっぱなしになるか、(残酷な話だが)その前に「処理」されてしまうことが多い。
だからこそ、アスモデウスにはピンと来ない。悪魔にとって、子供は捨てるのが当たり前なのだから……ベルゼブブの言う「父親をやっている」の真意を理解できないのだ。
「いやね、コンタローの他にも猫ちゃんや、ルシエルちゃんが契約しているらしい竜族の子供達がいてさ〜。とても可愛かったよ? 男の子の方は礼儀正しくて、優しくて。女の子の方は素直で、程よくワガママで。あの子、大人になったら、きっと美人になるだろうな〜。で、コンタローなんか、女の子にもちゃんと気を遣っていてさ〜。僕に注意までしてくるんだもん。ビックリだよ」
「子供って……そういうこと? フン、天使が子供を産めないもんだから、代わりに可愛がっているだけじゃないの?」
「う〜ん、そうじゃないと思うよ?」
一方、人間界を一定期間「フラついていた」ベルゼブブはハーヴェンが「父親をやっている」事について、理解を示すことができる。それでなくとも、ベルゼブブ本人も面倒見はいい方だ。配下に対する考え方が根本的に違う時点で、アスモデウスとは相容れないのかも知れない。
「多分、ハーヴェンはあの子達に食事やおやつを作ってあげるのが、楽しくて仕方ないんだよ。ほら、あの子も曲がりなりにも暴食の悪魔だからさ。元々、それが原因で闇堕ちしていた部分もあったし。今はあんな風にお嫁さん達と家族でいるのが、嬉しいんだと思う。……魔界じゃそんな事、できないからね」
結婚然り、共同生活然り。自分の欲望を優先する悪魔にとって、夫婦や家族という関係は煩わしいだけ。あるのは上下関係と利害関係のみ、気の合う相手と自由につるむのが基本スタイル。そこには多少の仲間意識はあっても、家族という結束までには至らないのが常だ。
「だから、いくらアスモデウスがテンプテーションを使っても無駄だよ。今のハーヴェンには家族がいるんだもん。それを手放す羽目になるような事は絶対にしないって。それに……そっち方面はお嫁さんがちゃんと相手してくれているみたいだし。お前達が入り込む隙は、1ミリもないから」
「……なんでそんな事、分かるのよ?」
「うん、ハーヴェンの指輪の色艶が良くてね。ちゃんとお嫁さんと適度にシンクロできているんだろう。あの指輪は互いの信頼関係が崩れると、色が濁るように作ってあるから。本当、綺麗なルビー色だったもん。ハーヴェンが満足なら、僕としては何も言う事はないかな〜」
「じゃぁ、私が信頼関係とやらを、グッチャグチャに崩してやるわ!」
「まだ、そんなこと言うの〜? だから、無理だって〜」
「やってみなければ、分からないでしょ?」
「やらなくても分かるよ、そんな事」
「どうしてよ?」
「だって、アーニャがお前の香水を持ち出してまで、ハーヴェンに迫ったことがあったみたいだけど。ちっとも靡かなかったもん。ハーヴェンは元異端審問官のエクソシストだからねぇ。悪魔祓いの一環で、悪魔の誘惑に耐性があるんだよ。お前のテンプテーション香水をプンプンさせても、ダメだったんだから。同じ術で引っかかる訳ないじゃん」
「なる、ほど……。しかし、今、なんて? アーニャが私の香水を持ち出した、ですって⁉︎」
「あ、あれ……知らなかったの?」
どうもベルゼブブは別の部分で、虎の尾を踏んでしまったらしい。美しい姿からまた、口裂け女に戻るアスモデウス。
「道理で……お気に入りの香水の減りが早かったワケね……‼︎ あのNo.5は材料が貴重な上に、調香が超面倒な特注品なのよ⁉︎ 私だって、とっておきの時にしか使わないで、大事にしてたのに……‼︎」
(あ、やっば〜い。アーニャちゃん、大丈夫かな……)
ベルゼブブが及び腰で見つめる先で……艶っぽさを捨て去ったアスモデウスが、「アーニャァァァ!」と大きな咆哮を上げ、髪を逆立てている。そうして一頻り、怒りを例の茶色いソファに八つ当たりした後、思い出したように翼を広げ飛び去っていった。
「アハ、アハハハ……僕、知〜らない。そうだな〜……ちょっと小腹がすいたし、気を取り直して……お土産食べよ〜っと」
アスモデウスのお怒りは関係ないとばかりに、手渡されたばかりの包みを開けると、マフィンの片方を口に放り込むベルゼブブ。若干冷めてはいるが、その分、しっとりとしてバターの風味が増しているような気がする。これはこれで美味しいと、ベルゼブブは満足そうにマフィンをモグモグと頬張る。
(それにしても、この宝石はどうしようかな〜。これがあれば……高レベルの使い魔を作れるだろうけど……うん。そのうち、何かの魔法道具を作るときに使おう、っと)
そこまで考ると……ベルゼブブは愛用の裁縫箱を呼び出し、細かいビーズ類をしまっている場所に宝石を加えた。
(うん、いい感じ! 今日は本当、楽しかったな〜)
彼にとって、今日という1日はこの上なく、刺激的だったようだ。2個目のマフィンをすっかり平らげると、身を沈め慣れたカウチに横になり……そのまま目を閉じる。またそのうち遊びに行こうなんて考えながら、暴食の大悪魔は満ち足りた様子で眠りについたのだった。




