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土間で靴を脱ぎ、裸足で長い廊下を咲について進んでいく。
慎『スリッパはないんだな、やっぱり。』
そんなことを考えている慎一だが、実はガチガチに緊張しているのはお察しの通りである。
しばらくすると、とりわけ立派な両開きの引き戸の前に着いた。
咲「ここがお父様の部屋です。」
慎「おお、お、お父様が…この向こうに……」
咲はいつになく真剣な面持ちでうなずくと、扉の方に向き直った。
そして一つ大きく息を吸い込み、
咲「お父様、深裂です。ただいま帰りました。許嫁候補の人間も一緒です。」
と、聞いたこともない大きな声で、毅然とした態度で、そう述べた。
慎一は驚きながらも、その様子に頼もしさすら覚えた。
ほどなくして中から返事がした。
父「入ってきなさい。」
咲が振り返る。
咲「行きましょう。」
その柔らかい笑顔に、ひたすらビビっている慎一はコクコクと頷くしかなかった。
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部屋の中に入った2人は、広々とした和室で、かなりいかつい顔とガタイをした男の前にちょこんと正座していた。
咲の"お父様"らしい男は、ただ黙って、その鋭い眼光で殺さんばかりに慎一を見つめている。
慎一は変な汗が止まらなかった。
たまに咲の方を見ても、咲は咲で男を凛とした姿勢で見つめるばかりである。
慎『死ぬ… 圧死する……』
慎一が呼吸の苦しくなってきたのを認識し始めた頃、ようやく男が口を開いた。
父「久しぶりだな、深裂。」
咲「そうですね、お父様。」
父「人間社会での生活には慣れたか?」
咲「徐々に慣れてきてはいますが、やはり分からないことだらけです。この東 慎一くんには本当に助けていただいています。」
父のよく響く低い声と、咲のよく通るソプラノのやり取りを黙って見ていた慎一は、いきなり名指しされた恐怖やら褒められた嬉しさやらで、表情をコントロールできなくなっていた。
父「君が深裂の許嫁候補の慎一くんか。」
初めて自分に向けられた声に、慎一は何とか返した。
慎「は、はい。」
父「深裂から話はよく聞いているよ。殲滅協会の会員から深裂を守ってくれたらしいな。それに日頃深裂の面倒をよく見てくれているようで、感謝しているよ。」
慎「い、いえ、そんな大したことは…。」
よく見たら、咲の父は慎一に微笑みかけていた。
その優しい表情で慎一の緊張は少し緩和された。
父「申し遅れたな。私は紅鬼灯 悪。この鬼灯族の族長であり、紅鬼灯家の長だ。」
慎「よ、よろしくお願いします。」
悪「今ちょっと家内は出ていてな。紹介は後になってしまうが勘弁してくれ。ともかく2人とも長旅で疲れているだろう。深裂、部屋に案内してやれ。」
咲「はい。慎一くん、こっちです。」
咲はスッと立ち上がり、慎一も慌ててその後を追った。
廊下に出てしばらくしてから、慎一は沈黙に耐えかねて咲に言った。
慎「最初怖い人かと思ったけど、いい人だな、咲の父さん。」
咲「お父様は鬼灯族の中でも特に人間に友好的な方です。人間との共存を本格的に開始したのも、お父様の提案あってのことですから。」
慎「なるほど。」
咲「…ただ、」
咲は突然立ち止まり、振り返った。
咲「母はあまり人間のことをよく思ってはいません。気を付けてください。今いないのも、何処かで慎一くんを暗殺する機会を狙っていないとも限りませんから。」
傾きかけた陽の赤が良い具合に咲の顔に差し、咲の顔に浮かぶ緊張を際立たせる。
慎一は生唾を飲み込み、心の中でつぶやいた。
慎『…話と違う……。』
慎一は悪が咲の母を止めてくれることを全力で祈り始めた。




