後編
翌朝、私は手鏡の前で完璧な笑顔を作り上げた。
口角の上がり方、瞳の輝き、すべてが「何も知らない従順な聖女」そのものだ。
「おはようございます、聖女様」
「おはよう、みんな! 今日も頑張りましょうね!」
元気よく挨拶を返し、私は朝食を喉に流し込んだ。
今日が、この吐き気のするような茶番劇の最終幕になる。
森は奥へ進むほど、その禍々しさを増していった。湿り気を帯びた空気は鉛のように重く、肌を刺すような不快感が全身を包む。空気そのものが腐敗しているかのような、濃厚な「澱み」の気配。
「聖女様、この先に……澱みの核がございます」
エルヴィンが杖の先で示したのは、黒い霧が巨大な竜巻のように渦巻く、森の最深部だった。
「あれが……」
「はい。まもなく、すべてが終わります」
ええ、その通り。すべてが終わるのよ。
私は深く息を吸い込み、肺にこびりつく澱みをあえて無視して一歩踏み出した。
そこは、古代樹が墓標のように林立する静寂の地だった。中心部で蠢く黒い塊は、時折奇妙な形に変形し、まるで何百もの亡者が這い出そうとしているかのような錯覚を抱かせる。近づくだけで胃の腑がせり上がるような不快感。
けれど、私は恐怖を感じなかった。むしろ、目の前の忌まわしいエネルギーが、私自身の帰還を叶える「燃料」に見えていた。
「聖女様、ここからは貴女お一人で。我々が近づけば、澱みの毒に中てられ、守護の力が弱まってしまいます」
「わかりました。行ってきます」
私は一人、核に向かって歩き出した。最後の一歩一歩を、慈しむように慎重に刻む。
間近で見る「核」は凄まじかった。けれど、私の内にある聖なる力が、呼応するように熱く脈打っている。
(さあ……私の帰還を、手伝ってもらうわよ)
私は両手を天にかざし、堰を切ったように力を解放した。
目も眩むような金色の奔流が私の身体から溢れ出し、黒い霧を包み込んでいく。
激しい反発。澱みが悲鳴のような音を立てて暴れ、私の全身に強烈な負荷を強いてきた。肋骨を締め付けられるような圧迫感。肺が潰されそうなほどの酸欠。
視界が白く点滅し、意識が遠のきそうになる。けれど、私は歯を食いしばって力を注ぎ続けた。
徐々に、黒い霧が中心へと凝縮されていく。
額を汗が伝い、膝がガクガクと震える。限界を超えた魔力の放出。
そして──。
激しい閃光のあと、そこには数個の石が転がっていた。
漆黒の闇を閉じ込めたような、不気味でいて美しい輝きを放つ結晶。魔石だ。
私はそれを一つずつ、震える手で拾い上げた。ずっしりとした重み。内部には、今まで感じたこともないほどの膨大なエネルギーが渦巻いている。
一つ、二つ……全部で五つ。エルヴィンの計算通りだ。
これが、私の自由への切符。
「成功です! 聖女様、実に見事な浄化でした!」
背後から歓喜の声が聞こえる。
私はゆっくりと振り返り、力なく、けれど満面の笑みを浮かべて手を振った。
「できました……! ジーク様、やりましたよ!」
駆け寄ってきたジークフリートが私を抱きしめる。彼の腕の中で私はぐったりと身を預けた。これは演技ではない。実際に、立っているのがやっとだった。
「よくやってくださいました、麻衣。貴女は我が帝国の真の救世主です」
「ありがとうございます……嬉しい……」
「聖女様、お疲れのところ恐縮ですが、魔石を預からせていただけますか。極めて危険なものですので」
エルヴィンが、慈悲深い笑みを浮かべながら手を差し出してくる。
ここが最大の正念場だ。
私は魔石の一つを太陽にかざし、うっとりとした表情で見つめた。
「これ……すごく綺麗。黒曜石みたいに透き通ってて、不思議な感じ……」
「聖女様?」
「ねえ、エルヴィン様。これ、一晩だけ手元に置かせてくれませんか? 私、こんなに頑張った記念に、もっと近くで眺めていたいんです」
エルヴィンの眉が、微かに動く。
「しかし、これは浄化されたとはいえ強大な魔力の塊。不測の事態があっては……」
「お願い。わがままなのは分かってます。でも、私、怖くて苦しいのを我慢して、あんなに頑張ったんですよ? 明日にはちゃんとお渡しします。一晩だけ、いい子にしてますから」
私は潤んだ瞳で彼を見上げ、縋るように甘えた声を出した。
「チョロいニホンジン」が、自分の出した成果に舞い上がっている。そんな幼稚な構図を彼らに見せつける。
エルヴィンはしばらく沈黙したあと、ジークフリートと視線を交わし、やれやれという風に頷いた。
「……分かりました。本日一晩のみです。ただし、決してテントの外へは持ち出さぬよう。良いですね?」
「やった! ありがとうございます!」
私は弾んだ声で喜び、魔石をすべて腰のポーチに詰め込んだ。
紐を二重に結び、間違っても零れ落ちないようしっかりと固定する。
完璧。
彼らは今、私のことを「手柄に浮かれる子供」だと確信している。
この冷たく重い石こそが、彼らの帝国に絶望を、私に希望をもたらす刃になることも知らずに。
* * *
その夜、私たちは魔の森の外れで野営を張った。
表向きの任務は完遂。あとは意気揚々と帝都へ凱旋するだけ──そんな高揚感が一行を包んでいた。焚き火の周囲では、騎士たちが酒の代わりにハーブティーを注いだ杯を掲げ、祝杯を上げている。
「聖女様の比類なき功績に、乾杯!」
クラウスが野太い声で音頭を取る。
「聖女様、本当にお疲れ様でした。貴女の祈りが、この国を救ったのです」
「……ありがとうございます。皆様の守護があったからこそです」
私は、さも疲れ果てた聖女らしい微笑みで応えた。けれど胸の内では、秒刻みで迫る計画の最終段階を、冷静に反芻していた。
魔石は五つ。
図書室の禁書には「複数の高純度魔石が必要」とあった。たった五つで、世界を跨ぐ扉は開くのか。足りなかったら? 術式が暴走したら?
底知れない不安が泥のようにせり上がってくる。けれど、今さら後戻りなど死んでも御免だ。やるしかない。
「我らの聖女様は顔色が優れないようだ。麻衣、どうかなさいましたか?」
ジークフリートが、芝居がかった優しさで顔を覗き込んできた。
「……いえ。少し、大仕事のあとの疲れが出ただけです」
「そうでしたか。無理もありません。では、今夜は早めにお休みください。明朝には、帝都へ向けて出発いたしましょう」
ジークフリートの言葉に従い、私は素直に自分のテントへと身を引いた。
一人の暗闇。私はポーチから、あの不気味な黒い結晶を取り出した。指先に伝わる魔石の拍動は、まるで生き物の心音のように力強い。
これが、私の希望。私の、唯一の武器。
(本当に、帰れるのかな……)
震える指先を握りしめ、私は深呼吸を繰り返した。
とにかく、やるしかない。冷たい地下牢で「処分」される日を待つよりは、爆散して消える方がマシだ。
深夜。
周囲の喧騒は消え、森は死んだような静寂に包まれた。焚き火は灰を被り、交代制の見張りたちの集中力も、任務完了の安堵で目に見えて緩んでいる。
私は音もなくテントを抜け出した。
枯れ葉一枚鳴らさぬよう、慎重に、けれど迅速に。向かうのは先ほどまで「核」が存在していた、魔力が最も溜まりやすい最奥の地だ。
ここなら、誰にも邪魔されずに力を集中できる。
私は五つの魔石を地面に並べ、その中心に跪いた。両手を掲げ、内なる聖女の力を一気に解放する。
「お願い……私を、私の居場所へ帰して……っ!」
魔石が、呼応するようにどす黒い輝きを放ち始めた。
脳裏に刻んだ空間転移の術式を、力ずくで構築していく。複雑な幾何学模様の魔法陣が足元に浮かび上がり、大気を震わせる。
けれど──何かが足りない。
光は強くなるが、次元を切り裂くほどの圧倒的なエネルギーに届かない。転移の扉が、あと一歩のところで開かないのだ。
(やっぱり、これだけじゃ足りないの!?)
絶望が首筋を撫でた、その瞬間。
聖女としての私の感覚が、世界に満ちる「力」の奔流を捉えた。
この森、この大地、この世界の至る所に、帝国が「魔石砲の材料」として収穫し残した澱みが、無限に眠っている。
(……なら、全部持って行ってやるわよ)
私は意識を世界全体へと拡張した。この森から、大地から、大気から。世界中に散らばる不浄の力を、私の意志という磁石で手繰り寄せる。
呼び寄せられた澱みが、漆黒の奔流となって私のもとへ集まり始めた。それらが魔石と融合し、金色の聖なる力と混ざり合い、臨界点を超えた光を放つ。
「……聖女様!?」
背後から、凍りつくような鋭い声が飛んだ。
振り返ると、そこには抜剣したジークフリートが立っていた。その後ろにはクラウス、エルヴィン、そして愕然とした表情のユリウスが、夜の闇から這い出すように現れる。
「麻衣、貴女は何を……! その術式、まさか帰還の──!?」
ジークフリートの声には、これまでの優雅な余裕など微塵もなかった。あるのは、計画が瓦解することへの剥き出しの焦燥。
「……見ての通りよ」
私は低く、冷え切った声で答えた。
もう、媚びるような笑顔も、甘えた声も必要ない。
「帰るの。……あんたたちの醜い野望も、この吐き気のする世界も、全部置いて。私は、私の場所に帰る」
「……まさか、魔石を触媒にして、世界中の澱みを引き寄せているのか……!?」
ジークフリート皇子の顔が、幽霊のように蒼白へと変わる。その瞳に宿っているのは、偽りの情熱ではない。取り返しのつかない事態を前にした、剥き出しの「恐怖」だった。
「そうよ。ありがとう、ジーク様。貴方たちが馬鹿正直に私に魔石を預けてくれたおかげで、最高の準備が整ったわ」
「待ってください! その程度の数では足りない! 世界を跨ぐ転移には、理論上、今の倍以上の魔石が必要なのです。無謀だ、命を落とすぞ!」
「知っているわよ。だから──」
私は、三日月のように口角を吊り上げた。暗闇の中でもはっきりとわかる、残酷で、美しい嘲笑。
「足りない分は、この世界にある澱みを『全部』使って補わせてもらうわ」
「何を言っている……!? そんなことをすれば……!」
エルヴィンが、喉を掻き切られたような悲鳴を上げた。
「この森は澱みの吹き溜まり。でも、澱みの源泉はこの世界の空気そのものに薄く、広く溶け込んでいる。そうでしょ? 私は今、そのすべてを掃除機みたいに吸い取っているの。この世界が『空っぽ』になるまでね」
「やめろ! それでは、この世界から澱みが、魔石の原料が完全に消滅してしまう!」
「ええ、そうね。魔の森も消える。魔物も生まれなくなる。……そして」
光の渦に巻かれ、私の身体がゆっくりと宙へ浮き上がる。眼下で絶望に顔を歪める男たちを見下ろし、私は最後の大鎌を振り下ろした。
「貴方たちの愛してやまない『魔石砲』も、二度と一門たりとも作れなくなるわ」
「……気づいて、いたのか」
エルヴィンの声から力が抜け、杖がカランと音を立てて地面に転がった。
「ええ。全部。メイドたちの嘲笑も、貴方たちの昨夜の密談も。魔石が侵略兵器に使われることも、澱みを放置しても世界は滅びないことも。……そして、村を襲わせたのが貴方たちの『自作自演』だったこともね」
クラウスとユリウスの顔が驚愕に染まる。彼らは本当に知らされていなかったのかもしれない。けれど、そんなことは今の私にはどうでもいいことだ。
「最初はね、迷っていたの。私が魔石を奪ったら、この世界の人々が病気や結界の消失で困るんじゃないかって。でも、全部嘘だった。魔石はただの『人殺しの道具』。そんなもの、この世から消えてなくなった方がマシだわ」
「そんな……っ」
ジークフリートが崩れ落ちるように膝をついた。その瞳から涙が溢れ、土を汚していく。
「私は……私は本当に、貴女を……」
「嘘よ」
吐き捨てるように、私は彼の言葉を遮った。
「マニュアル通りの演技、お疲れ様。歴代の聖女たちにも、その時代の皇子様が同じ台詞を囁いてきたんでしょ? 反抗すれば地下牢に閉じ込めて、殺すくせに」
「違う!」
ジークフリートが絶叫した。その声は、喉を血で焼くような切実さに満ちていた。
「最初は確かに、演技だった……! 国のため、義務として貴女を騙した。けれど、共に過ごすうちに、私は本当に……貴女という女性を愛してしまったんだ!」
一瞬だけ、胸の奥が微かに疼いた。
愛されたかった、孤独だった「私」が、その言葉に縋り付こうと手を伸ばしかける。
けれど、次の瞬間、脳裏に浮かんだのは──地下牢で「処分」された先代聖女たちの、見も知らぬ無念の顔だった。
「……今さら何を言っても、もう遅いの。私は二度と、貴方たちを信じない」
「お願いだ……帝国を見捨てないでくれ! 民は何も知らないんだ。澱みが消え、軍事バランスが崩れれば、隣国が攻めてくる。凄惨な戦争が始まる。無辜の民が、大勢死ぬんだぞ!」
必死の懇願。それは皇族として、この国を守ろうとする彼なりの正義なのだろう。
私は、冷え切った瞳でそれに応えた。
「それは、貴方たちが選んだ道でしょう?」
突き放すような、静かな声。
「魔石を兵器に転用し、戦争の準備を進め、人まで殺して私を騙した。……これは、その強欲が招いた自業自得よ。国が滅ぶなら、勝手に滅びればいい」
光の奔流が臨界点に達する。世界中から吸い上げられた漆黒の澱みが、聖女の光と混ざり合い、純白の穴を虚空に穿つ。
次元の扉が、ゆっくりと、けれど確実に開き始めた。
「やめてください! 聖女様!」
クラウスが剣を抜き放ち駆け寄ろうとするが、荒れ狂う魔力の障壁に弾き飛ばされる。
「聖女様! お願いです!」
今度はユリウスが、涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら叫んだ。
「僕は何も知らなかった……! 本当に、貴女と友達になれたと思っていたんだ! ずっとここで、一緒に……!」
「……ごめんね、ユリウス」
私は、彼にだけは微かな微笑を向けた。
「貴方だけは、本当に優しかった。……でも、私はこんな場所にはもういたくないの」
さようなら。
絶望に身をよじるジークフリート。呆然と立ち尽くすクラウス。泣きじゃくるユリウス。そして、すべてを悟って目を閉じるエルヴィン。
皇子の「愛していた」という言葉が、一瞬だけ心に棘のように刺さる。
けれどそれは、かつて愛を乞うていた私の、消え残った未練に過ぎない。
「私は、私の人生を始めるわ」
光が爆発した。
世界からすべての「澱み」を奪い去り、帝国から「力」の根源を剥ぎ取って。
私は、輝く穴の向こう側へと──。
* * *
聖女が光の中に消えた瞬間、世界は劇的に、そして残酷なほど静かに変貌を遂げた。
魔の森から「澱み」が、まるで引き潮のように一斉に消え去ったのだ。禍々しくねじ曲がっていた木々は、一瞬にして本来の瑞々しい緑を取り戻し、淀んでいた空気は水晶のように澄み渡った。
森に生息していた魔物たちは、力の源を奪われてその場に次々と倒れ伏し、やがてただの動かぬ肉塊へと変わっていった。世界中から不浄な力が霧散していくのを、魔導師長エルヴィンは己の魔力感覚で、肌が泡立つほど鮮明に感じ取っていた。
「消えた……澱みが、完全に……」
エルヴィンが呆然と呟く。それは救済ではなく、帝国にとっての「終わりの始まり」を告げる予感だった。
ジークフリートは、聖女が立っていた場所に膝をついたまま、動けなかった。その手には、聖女が落としていった白いリボンが握られている。彼女がいつも髪に結んでいたものだ。
「私の、せいだ……」
自分が聖女を騙したから。マニュアル通りに演技したから。本当の気持ちを、もっと早く伝えなかったから。
いや、違う。途中から、演技ではなくなっていた。本当に、あの聖女のことを愛するようになっていた。あの笑顔、あの一生懸命な姿、天真爛漫な振る舞い。全てが愛おしかった。
だが、絶望の淵でジークフリートが思い出したのは、精製した五つの魔石を太陽にかざして笑った麻衣の姿だった。
彼女は世界中の澱みを吸い上げて消し去った。それはこの世界から「魔物の脅威」そのものを消し去ると同時に、大量殺戮兵器の原料を奪うという、聖女としての最大級の、そして最後の救済でもあったのだ。
「麻衣……貴女は、最期まで聖女だったのだな」
自分を信じてくれなかった彼女。けれど、復讐のために帝国を壊すこともできたはずなのに、彼女はただ「武器の種」だけを奪い、民から恐怖を遠ざけて去っていった。その真意に気づいた時、皇子は白いリボンを握りしめたまま、泣いた。皇族として、人前で涙を見せたことなど一度もなかったが、もう抑えられなかった。
「殿下、戻りましょう」
クラウスが皇子の肩にそっと手を置く。その剛健な騎士の声も、今はどこか力なく、虚空に消えていった。
「国に、報告しなければ……なりません」
重い足取りで、一行は宮殿へと戻った。
待ち構えていたのは、想像を絶する大混乱だった。
「澱みが消えただと!? どういうことだ!」
玉座の間で、皇帝が震える声で叫ぶ。
「はい。世界中から、完全に、一片の残りもなく消え去りました」
「では……もう、魔石を精製することは──」
「不可能です。二度と。原料そのものが、この世界から消失したのですから」
エルヴィンの絶望的な報告に、玉座の間は死のような静寂に包まれた。
魔石は帝国の命脈だった。魔石砲、魔石兵装。それらがあったからこそ、帝国は大陸の覇者として君臨できた。だが、その力の根源は、一人の少女の怒りによって完全に奪い去られたのだ。
「北方諸国が、動き出すでしょうな」
ある将軍が、苦虫を噛み潰したような顔で発言した。
「魔石兵器という牙を失った我が国など、もはや恐れるに足らぬと判断するはずです。……早晩、戦になりますぞ」
「戦争になるのか……。わが帝国が、負けるというのか……」
皇帝の震える声は、誰にも届かなかった。
数ヶ月後、その懸念は現実となった。北方諸国が同盟を組み、かつてない規模で帝国に侵攻を開始したのだ。魔石兵器という拠り所を失った帝国軍は、信じられないほどの脆さで次々と敗北を重ねた。辺境の町は陥落し、かつて「演出」のために焼かれた村々とは比較にならないほどの本物の難民が、帝都へと溢れ出した。
ジークフリート皇子は毎日、防衛のための激務に追われながらも、あの最後の夜のことを思い出していた。
聖女の冷たい目。絶望的な笑み。そして、「本当に愛していた」と告げた瞬間の、彼女が見せた、ほんの一瞬だけの揺らぎ。
もし、あの時。もっと早く、もっと真剣に、本当の気持ちを伝えていれば。
「聖女」という道具としてではなく、一人の女性として彼女を大切にしていれば。
「麻衣……」
皇子は執務室で一人、汚れのついた白いリボンを見つめながら呟いた。
「私は、本当に貴女を愛していたんだ……」
でも、もう遅い。彼女は元の世界に帰った。そして、帝国はかつてない危機に瀕している。
それでもジークフリートは、かつてマニュアル通りに演じていた「完璧な皇子」を捨て、泥にまみれ、民のために戦い続けた。それは彼女を騙し、傷つけてしまった自分にできる、唯一の愛の証明だった。
ユリウスは、誰もいない静かな図書室で、ポツリと独り言を漏らした。
「聖女様。あなたは、正しかった。僕たちが、あなたを裏切ったんだ。……あなたは僕たちを、澱みのない本当の平和の中に突き放したんですね」
帝国は、ゆっくりと衰退していった。
魔の森は美しく恵み豊かな森に生まれ変わり、魔物の脅威は完全に消えた。それは本来、喜ばしいことのはずだった。しかし代償として帝国は魔石を失い、大陸の半分を占めていた広大な領土は、かつての三分の一以下にまで削られた。
だが、その厳しい歩みの中にこそ、かつての欺瞞に満ちた帝国にはなかった「清らかさ」があった。
晩年、老境に至ったジークフリートは、色褪せた白いリボンを眺めながら、独り言を漏らす。
「麻衣。見ていてくれるだろうか。……貴女が奪ってくれたおかげで、この国は、ようやく本当の意味で、美しい国になれたのだよ」
そして、元の世界に帰った聖女は──幸せになったのだろうか。
それとも、自分が引き起こした惨禍を思って、どこかで後悔しているのだろうか。
誰にも、もう分からなかった。
ただ一つ確かなのは── ジークフリート皇子が生涯、あの聖女を愛し続け、彼女が残した澱みのない帝国を、死ぬまで守り抜いたということだけだった。
* * *
気づくと、私は自分のアパートのベッドの上にいた。
あの六畳一間の、狭くて、壁の薄い古い部屋。窓の外からは、深夜の国道を走る車の走行音が、いつものように聞こえてくる。
「……戻ってこれたんだ」
私はポツリと呟いた。夢ではない。本当に、元の世界に帰ってきたのだ。
スマホを手に取ると、時刻は午前三時。日付を見ると、召喚された日の翌日になっていた。あちらの世界で過ごした三週間という月日は、こちらではまだ一晩も経っていないことになっていた。
不思議な感覚だった。あの豪華な宮殿も、厳しい訓練も、命を懸けた魔石の精製も、すべては幻だったのだろうか。
だが、体には確かにあちらで動いた疲れが残っている。それに──。
私は自分の手のひらを見つめた。胸の奥に意識を集中させると、まだ、あの温かい光のようなものを感じる。聖女の力は、消えずに私の中に残っていた。
けれど、目の前のコップに向かって祈っても、水が光るわけでも、何かが浮き上がるわけでもない。
私は何も変わっていない。相変わらず、学費のためにバイトを掛け持ちして、安アパートで日々の生活に追われるだけの、孤独な貧乏学生だ。家族との間には壁があり、腹を割って話せるような親友もいない。
それでも、私はここで生きていかなければならない。
翌日から、私は機械的に日々を送り始めた。一限の授業に出て、夕方からは居酒屋とコンビニのバイトをハシゴして、泥のように眠る。それの繰り返し。
異世界での出来事は、まるで遠い異国の昔話のように思えた。贅沢な部屋、豪華な食事、そして、自分に跪いてくれた人々。全部、私を利用するための嘘だったけれど。
ふとした瞬間に、ジークフリート皇子の顔が浮かんでくる。
あの最後に見せた、必死な顔。「本当に愛していた」という、あの叫び。あの時、一瞬だけ信じそうになった愚かな自分が、胸の奥で小さく疼く。
「……ジーク様」
だが、もう関係ない。私は、ここで私の人生を生きるしかないのだ。
そんな日々が一ヶ月ほど続いた頃、私はあることに気づいた。
最近、妙に「運」がいいのだ。
例えば、コンビニのバイト中。一番混み合う時間帯なのに、なぜか私のレジだけがスムーズに進み、客があっという間に捌けてしまう。
スーパーで買い物をすれば、欲しかった商品がちょうど目の前でタイムセールの対象になる。
土降りの雨の中、電車に乗り遅れそうになっても、なぜか電車が数分遅延していて悠々と間に合う。
大学の試験では、前日の夜にたまたま開いたページから、そのままの問題が出題される。
どれも些細なことばかりだ。だが、明らかに以前より「ちょっとした幸運」に恵まれることが、異常なほど多くなっていた。
ある日、私は図書館で勉強中、試しに聖女の力を使ってみることにした。
「次に開いたページに、今探している答えがありますように」
そう願いながら、胸の奥の温かい光を、ほんの少しだけ解放してみる。
ページを捲ると、そこにはまさに探し求めていた情報が、一字一句違わずに書かれていた。
「これって……」
私は息を呑んだ。聖女の力は失われていなかった。それどころか、この澱みのない世界では、形を変えて私を助けてくれている。
それから、私は色々と試してみた。
「駅まで一度も赤信号に引っ掛かりませんように」と願いながら力を使うと、本当にすべての信号が私の前で青に変わった。
「今日のご飯が美味しくなりますように」と願うと、バイト先で普段は出ないような豪華な賄いを振る舞われた。
どうやら、聖女の力はこの世界では「澱みを払う」のではなく、「日常の不運を払って、ささやかな幸運を引き寄せる」という形で作用しているらしい。
ただし、何でも叶うわけではなかった。「宝くじの一等に当たりますように」とか「私を馬鹿にした奴が不幸になりますように」といった、強欲や悪意に満ちた願いには、驚くほど無反応だった。あくまで、日々の生活の中にある、些細な幸運だけ。
そしてある日、私は衝撃的な事実に気づいた。
SNSで繋がっている見ず知らずの人が、「明日、人生をかけた資格試験なんです」と呟いているのを見た時だ。
私は「頑張ってください」とリプライを送りながら、ほんの少しだけ力を込めてみた。
数日後、その人から返信が来た。
「麻衣さんのメッセージをもらった後、なんだか不思議と落ち着いて。当日は驚くほど勘が冴えて、無事に合格できました! ありがとうございます!」
試しに、別の困っている人たちにも同じことをしてみた。
すると、やはり「なんだか凄く運が良かったです」という感謝の報告が次々と届くようになった。
異世界を渡った聖女の力は、なんとインターネットの海も易々と渡ってしまえるらしい。
その瞬間、私の中で何かが鮮やかに閃いた。
もし、この力を使って、たくさんの人々に幸運をもたらすことができたら?
迷った末に、私はVtuberとして活動することを決めた。
名前は「開運のVtuber、ラッキーセブン」。
ネーミングセンスについては、自分でもどうかと思っている。うん、放っておいてほしい。
まずは、自分で簡単な設定を考えた。四つ葉のクローバーをモチーフにした、明るくて元気な女の子のキャラクター。「視聴者に幸運をもたらす」という、一歩間違えれば怪しさ満点のコンセプト。
配信内容は、たわいもない雑談や、視聴者の悩み相談。そして配信の最後に、「明日のみんなに、小さな幸運がありますように」と祈る。その瞬間に、私は聖女の力を解放するのだ。
最初は、案の定ひどいものだった。視聴者は数人、コメントは冷やかしばかり。
「開運とか、また新しいタイプの詐欺か?w」
「宗教の勧誘乙」
「どうせお布施でも要求するんだろ」
そんなコメントが流れる中、私はめげずに活動を続けた。毎週決まった時間に配信をし、視聴者一人一人の幸せを、心から祈り続けた。
変化が起きたのは、一ヶ月が過ぎた頃だった。
「昨日、セブンちゃんの配信見た後、長年探してた物が見つかったんだが……」
「朝の通勤電車で毎日座れるようになった。これ、マジか?」
「セブンちゃんにお祈りしてもらった後、仕事で大きなミスしそうになったけど、奇跡的に助かった。これ、ご利益あるよ」
口コミで、じわじわと視聴者が増えていった。最初は十人程度だった視聴者が、百人になり、千人になり──。
半年後には、チャンネル登録者は十万人を突破していた。
投げ銭の額も、信じられないほど増えていった。「第一志望に就職決まりました!」「五月病が良くなりました!」「イジメ首謀者の悪事がバレて、退学になりました! おかげで学校が平和です!」という熱烈な感謝のメッセージと共に、色とりどりのスーパーチャットが次々と画面を流れていく。
一方で、悪質な荒らし行為を繰り返す人もいたが、不思議なことに、そういう人たちはなぜか自滅していった。
「外出のたびに頭にカラスのフンが落ちてくる」とか、「改札で毎回モバイルICカードアプリが落ちる」とか、「カレーを食べるとなぜか毎回お気に入りの白い服にこぼす」という地味に精神が削られる目に遭い続けたらしく、いつの間にか消えていった。
私の銀行口座には、今まで見たこともないような金額が振り込まれるようになった。
バイトを辞めても十分に生活できるどころか、将来の不安がなくなるほどの収入。
私は、オートロックのついた新しいマンションに引っ越した。
湿気に悩まされた六畳一間の安アパートから、日当たりの良い十帖1Kの築浅マンションへ。家具もすべて自分の好みに合わせて新調した。
疎遠だった家族には、この活動のことは一切話さなかった。
「バイトを増やしたから忙しい。こちらで就職活動もしている」とだけ伝え、自分から距離を置いた。長期休みになっても、実家に顔を出すつもりはない。
姉や弟ばかりを可愛がり、私を都合の良い家政婦かATMのようにしか見ていなかった両親。もう、彼らに媚びる必要はない。私は私の力で、私の人生を勝ち取ったのだから。
ある日の配信が始まる前の静かなリビングで、ふとジークフリート皇子のことを思い出した。
あの人は、今どうしているだろう。帝国は、本当に戦争になったのだろうか。あちらの世界の、何も知らない民たちが、苦しい思いをしているだろうか。
胸の奥が、ほんの少しだけチリりと痛んだ。
だが、私は自分の選択を、一度たりとも後悔していない。
騙されて、甘い言葉で飼い慣らされて、最後は地下牢で殺されるなんて、絶対に御免だ。
それに私は今、この力を使って、人々に幸運を届けている。あちらの世界のように人殺しの兵器を作るためではなく、この世界の誰かの日常を、ほんの少しだけ明るくするために力を使っている。
異世界では、私はただの「澱みを収穫するための道具」だった。
けれどこの世界では、私自身の意志で、私のために、この力を使っている。
それが何より、誇らしかった。
「みんな、今日も見てくれてありがとう!」
私は画面に向かって、満面の笑みを作る。マニュアル通りの演技じゃない。心から溢れ出す、本物の笑顔だ。
「明日のみんなに、最高のラッキーが訪れますように!」
そう言って、私は聖女の力を解放する。
光は光ファイバーを通り、電波に乗って、画面の向こうにいる何十万人もの人たちへと届いていく。
コメント欄が、「ありがとう」「大好き」「明日も頑張れる」という感謝の言葉で埋め尽くされていく。
私は、新しい人生を歩んでいる。
異世界で奪ってしまったものを、この世界で、私自身のやり方で還元していく。
それが、私が選んだ「聖女」としての、新しい生き方だった。
元気玉。




