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桜の下で‐十参‐

 次の季節は秋だった。

 正確に言えば、冬を向かえる前の季節だ。紅葉の時期は既に過ぎ去り、枝に残った葉も残りわずかで、それもハラハラと舞落ちていた。

 そんな中、雛菊は窓を少し開けて眠っている。顔色は青白く、頬はこけ、まともに食事も取れないのか栄養が行き届かず肌の艶や髪の艶もボロボロで、体は以前よりも更に痩せ細っていた。

 微かだが、眠る雛菊の呼吸も低く感じられる。


「雛菊さん……」


 真司がそう呟くと、雛菊はゆっくりと目を覚ました。

 そして、雛菊は細い腕で身体を支えゆっくりと起き上がる。体力自体が激減しているのか、身体を支えている腕は震えていた。


「雛菊さん、無理しちゃ駄目です!」


 そう真司が言っても、真司の声も雛菊の身体を支えようとした腕も虚しく消える。雛菊は何とかして自力で起き上がると、ぎゅっと桜貝を握り立ち上がった。


「行か、なきゃ……」


 よろよろとしながらも一歩、また一歩と歩く雛菊。

 普通なら歩く行為は簡単だろうが、病気に侵されている雛菊の身体は既にボロボロになっていたため歩くことすら厳しいものになっていた。

 雛菊は障子をゆっくりと開け、周りに人が居ないことを確認する。


「何とか、もって……私の体……ごほっ、ごほっ!」


 雛菊が咳き込んだ瞬間、ピチャッと床に血が付着する。雛菊は血で汚れた口元を袖で拭うと、そのまま部屋を出た。

 部屋に残るのは雛菊の吐血の跡だけ。


「雛菊、さん……」


 真司は雛菊を止めたかった。

 でも、どうすることも出来ない。だからこそ、真司は最後まで雛菊の姿を見届けたいと思ったのだ。

 この後どうなるか真司にはわからない。けれど、真司には予感があった。


『これが最後の記憶になる』と。


 真司はギュッと手を握り、心の決心がつくと雛菊の後を追った。

 雛菊は千鳥足になりながらも前へ前へと歩み続ける。足に力が入らず、そのまま崩れ落ちることも暫しあったが、雛菊はそれでも歩み続けていた。


「はぁ、はぁ、はぁ……」

「頑張って下さい、雛菊さん!」


 壁を伝って歩き続ける雛菊を声が聞こえ届かないとわかっていても真司は応援する。


「はぁ、はぁ……ごほっ、ごほっ! ごほっ! ……はぁ……はぁ……行かなきゃ……」


 咳き込む度に血が口から出る。雛菊はその度に袖口で口元を拭った。

 夜着の袖口は乾いた血で赤黒くなっている。それでも雛菊は歩き続けた。

 そして遂に、雛菊は玄関までやって来た。

 ここまでの距離を歩くのは、今の雛菊にとって長い道のりだったに違いない。しかし、雛菊が行きたい場所はここではない。ここは、まだ、初めにすぎなかった。

 雛菊は玄関の戸を開け外に出ようとする。その瞬間、お春と父親の声によって足は止まることになった。


「雛菊っ!!」

「お嬢様っ!!」

「父上……お春、さん……」


 慌てた顔で雛菊に詰め寄る父親とお春。

 父親は雛菊の折れそうなほど細い肩に力を入れ雛菊に怒鳴った。


「お前、こんなところで何をしているんだ! そんな体で! 今すぐ部屋に戻りなさい!」

「嫌です」

「雛菊!」


 雛菊は父親の手を振り払い、ジッと父親の目を見る。体はボロボロのはずなのに、雛菊の今の目だけは以前と変わらない凛として力強さが感じられた。


「父上、お願い……行かせて下さい。私は、行かなきゃいけないの。今すぐに」

「雛菊、お前……」

「お願い、致します……」


 深々と頭を下げる姿を見て雛菊の父親は何か言いたそうな顔をぐっと堪えると、そのまま溜め息を吐いた。

 これ程の意志の強さだ。何を言っても聞かないだろう……そう判断したのだ。


「……わかった。許可しよう」

「父上……!」

「但し、この私も着いて行く。もしお前が倒れそうになった時、支えが必要だろう」


 雛菊は父親の言葉に驚くと首を横に振った。


「いえ。大丈夫です。父上は私に近づいてはいけません。父上は……父上まで移ってしまうとこの家は……」


 ギュッと唇を噛む雛菊。

 そう。雛菊の父親は、決して移されるのが嫌で雛菊に会わなかったというわけではなかったのだ。

 この家の唯一の主が居なくなってしまうと、家は没落してしまう。雛菊はそれを防ぐために、自分の父親に「私の部屋には絶対に近づかないでください」と、言ったのだった。


 雛菊の父親は、娘の願いの通り近づくのを止めた。

 だが、今回だけは娘の願いでも叶えてやれることはできなかった。

 父親は俯き唇を噛み締める雛菊に近づき抱き締める。


「ちっ、父上!?」

「今までこうやって抱き締めることも出来なかったのだ……これは私の願いだ。……一緒に行かせてくれ」


 雛菊は父親の言葉に驚き目を見開くと、自分のことを抱き締める父親の温もりと温かい言葉が嬉しく雛菊は黙ったまま小さく頷いた。

 その後ろにいたお春も涙を拭いながら、雛菊のやせ細った肩にそっと触れる。


「お嬢様、私も着いていきます。いえ、行かせて下さい」

「お春さん……二人とも、ありがとう」


 雛菊は目に涙を溜めながら二人にお礼を言うと、父親は雛菊から離れ「先ずは着替えなさい。それから行こう。お前の向かう場所に……」と、雛菊に言った。


「はい」


 その数分後。雛菊はお春によって、髪は少しでも綺麗にと椿の香油を付け整えられ着物も真新しい物に変え、少しでも顔色が良く見えるようにとほんのりと化粧をされた。

 部屋から出てきた雛菊は、少しだけ元気だった頃の雛菊に戻ったような感じした。


「雛菊さん、僕も最後まで着いて行きますから」


 そう雛菊に向かって言うと、見えないはずの雛菊が真司を見て微笑んだ。

 そのことに真司は驚きを隠せないでいた。


「え!? 雛菊さん、僕のことが見えて!?」

「行ってきます」


 雛菊は真司を見てそう呟いた。


「お嬢様? 誰に言っているのですか?」

「ずっと見守ってくれた全てのものに、よ」


 そう雛菊が言うと真司は肩を落とす。


「見えてるわけじゃないんだ……だよね……これは、雛菊さんの思い出なんだから……」


 少し残念に思う真司だが、雛菊のその素直で優しい心に好感を持てた。

 もし雛菊が現代にいたのなら、きっと友達になりたいと思ったに違いない。芯が強くて、優しく、素直でどこまでも真っ直ぐな雛菊の心。

 昔の自分なら友達は自分から作ろうとは思わなかったし考えなかったが、今は違う。

 真司は、ふと『雛菊が真司と友達だったのなら』と考える。


「直ぐに荻原が好きになりそうだなぁ。好みのタイプって感じがするし、きっと喜ぶだろうな。それで、テンションが上がっている神代が荻原をなだめる……ふふっ」


 容易に想像がつくことに真司は可笑しく思いその場でクスクスと笑った。

 その頃、お春と雛菊の父親は弱りきっている雛菊の体を支えながら家を出て行ってしまったので、真司は慌てて追いかけた。


「わわっ! 待って!」


 真司も部屋を出て、家を出る。いつもならここで風景が変わりそうなのだが、今回はそうならず、家と外を繋ぐ門の外にも出ることが出来た。

 初めて外に出られた真司は興味津々な様子で三人の後に続きながらも周囲を見渡す。


「甘味処の思い出で外には出られたけど……やっぱり何だか新鮮な感じがする。昔の風景の中にいるって、よくよく考えてみると凄いこと……なんだよね?」


 自分のこの状況について改めて思う真司。

 日は既に夕暮れ時で、道を歩く人々は少なくなっていた。

 それでも、道行く人はいる。通り過ぎる人々は雛菊の顔を横目で見ると、怪訝な顔をしている者もいた。

 これが周りに結核だとわかると、恐らく小さな暴動が起こるだろう。何せ死の病を移される可能性もあるからだ。


「なんだが、悲しいな……」


 ポツリと呟く真司。しかし、つらそうな顔をしているのに、そんな人達には決して怯まず前だけを見ている雛菊を見るとその気持ちも薄れていった。


「周りがどうでも、雛菊さんには八郎さんやお春さん……お父さんもいる。きっと、お互いを支え合うってこういう事なんだろうな」


 お春も父親もふらつく雛菊を支え、また雛菊も二人に頼りながら一歩また一歩と歩き続ける。時には咳込んで倒れそうになりながらも、雛菊は決して下を向かず前だけを見て目的地に向かって目指すのだった。

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