36 壊された平穏
ユリウス・バルトシェクは皆の注目を集めていた。
「おお、久しぶりだな、ユリウス殿! 健康になったのは事実だったようで、嬉しく思うよ!」
「お久しぶりです。これからはしばしば研究所に来られそうなので、よろしくお願いします」
「あら、ユリウスじゃない! 相談したいことがあったのよ! 後でいい?」
「もちろんだよ。僕も報告したいことがあったんだ」
「ユリウス様、お噂はかねがね。婚約者のご令嬢と仲睦まじいようで、何よりでございます」
「はは、本当にそうなのですよ。今度機会があれば、ライラを紹介しますね」
そしてヴェルネリはそんなユリウスの一歩後ろを陰のようについていきながら、すれ違う人たちに声を掛けられる主人のことを誇らしく思っていた。
ユリウスは魔力過多の体質ゆえ苦労してきたし、魔道研究所にもあまり顔を出せなかった。
だが彼の誠実で優しい人柄は多くの者に受け入れられており、自分が認めた青年はこれほど人徳のある御仁なのだと思うと、ヴェルネリも鼻が高い。
だがヴェルネリも暇ではない。ユリウスが次々に「じゃあ後で話を」「うん、後で資料を送って」と言うので、それらの用件をメモしながら歩かなければならない。
すぐに彼のノートはユリウスの対応予定者と内容でいっぱいになり、新しいページを捲るたびに充足感に包まれた。
……だが。
「ユリウス様、本当にこれだけの人数の対応をなさるのですか?」
研究所の客室にてヴェルネリが言うと、ソファに座ったユリウスはけろっとして頷く。
「もちろん。皆が僕に相談したがるだろう内容やその答えはもう頭の中に入っているから、後はそれを説明するだけだ。一人一人にそれほど時間は必要ないよ」
「……それはそれは」
「ただ、そろそろライラが足らない」
少し身を屈めて大きなため息をついて言われたので、ヴェルネリの手がぴくっと震える。
「……ま、まさか魔力過多に……?」
「それはまだ大丈夫。そうじゃなくて……ライラ成分が足りない、って言うのかな。こう、抱きしめてたくさんキスをしたくなってきた」
こう、と言いながらユリウスはライラの身長くらいの位置に右手をかざす。ライラ成分、とは、ヴェルネリが普段食事の献立を作る際に参考にする栄養価のような言い方をするものだ。
とにかく、残念ながらヴェルネリではライラの代わりになれないし、ライラの幻を作っても虚しいだけだ。魔法による幻影は作れなくもないがあくまでも幻なので、それを抱きしめることはできないのだ。
「……まずは、予定を全てこなしてください。ライラ様との約束通りに夕方頃に戻れたら食事をご一緒し、就寝なさる際に今おっしゃったことをすればよいのでは」
「そうだね、そうだよね。……うん、頑張らないと――」
そこでユリウスはさっと顔を上げ、何もない虚空をじっと見つめた。
主の急な変化にヴェルネリはさっと気色ばみ、何か魔力の気配がないかすぐに周囲を警戒するが、これといった異常はなさそうだ。
「……ユリウス様?」
「今、屋敷の結界が破られた」
ユリウスの告げた言葉は、ヴェルネリの手からノートを落とさせた。
――頭が痛い。体中が激痛で悲鳴を上げている。
ぐいっと腕を引っ張られた。痛い。
だが、悲鳴は言葉にならない。
(嫌だ、嫌だ! ここ、どこ? 私は……何をされているの?)
涙でかすむ視界では、周りの状況を把握することもできない。
だが誰かに引っ張られたライラの手が色々なものに触れさせられ、そのたびに周りから驚きの声が上がったのは分かった。
(何、私、どうして……ヘルカ、ヘルカはどうしたの!?)
激痛で意識がもうろうとする直前に聞こえたのは、ヘルカの悲鳴と何かが壊れる音。
ライラ様、と呼ぶ声がだんだん遠のき――こうしてライラは、わけの分からない場所でわけの分からない人たちに囲まれ、わけの分からないことをさせられているようだ。
「……だな。さては、この女にも価値が……?」
「だろう。……もじきに来るだろうが、使えるところは使っておけ」
「『兵器』の部屋に? ……ああ、……だからか」
「そうだ。……おい、おまえ。立て」
命じられたが脚に力が入らず、舌打ちして誰かに担がれた。
これまでユリウスにしか触れられたことのない腰に知らない男の手の感覚があり、頭痛の中で吐き気さえ催してしまう。
(気持ち悪い……頭、痛い……前が、見えない……)
誰かの肩の上でぐらぐら揺れながら移動すること、しばらく。
(……これは、子どもの泣き声? それに、何かが壊れる音……?)
「ここに入っていろ」
乱暴に言われた途端、ライラの体は宙に投げ出された。受け身を取ることもできずどさっと肩から倒れ込み、頭がぐらぐら揺れる。
(……ここは?)
痛みのせいか、それまでかすんでいた視界がやっと晴れた。肘を突いて上体を起こしたライラは、目の前でぐずぐず泣く子どもたちを見、ぎょっとする。
ライラが放り込まれたのは、ライラの部屋ほどの広さの狭い場所。四方を黒っぽい色の壁で囲まれており、窓はない。天井から下がる照明だけが、この部屋の光源だった。
その部屋の隅に、五人の子どもたちがうずくまっていた。年は、三歳から七歳くらいまでとまちまちで、皆髪が伸び放題でぼろぼろの服を着てひどく痩せているので、性別も分からない。
病的なほど細い手足がかつてのユリウスを想起させてぞくっとし、ライラは慌てて振り返った。
ライラを放り込んだらしいローブ姿の男がおり、今まさに鉄格子のようなドアを閉めようとしている。
「ま、待って……!」
「女、死にたくなければ大人しくしていろ。それから、そのガキ共をどうにかしろ」
「どうにかって……」
抗議しようとした途端、男はぎょっとすると急いで鍵を閉め、足音も荒く去っていってしまった。
「ちょっと……!」
呼び止めようとしたライラだが、背後の異様な気配に気付いて振り返る。
泣く子どもたちの髪が、ふわりと逆立っている。
風もないのに髪を靡かせる子どもたちは皆、ぜえぜえと息をついており――
『……とても楽な時間じゃなかった。息が苦しいし、吐きそうになるし、体中の痛みで涙が出る。その涙も、あっという間に枯れ果ててしまうくらいに』
がりがりに痩せていた頃のユリウスの暗い横顔が脳裏を掠めた途端、ライラは子どもたちに駆け寄っていた。
長い間不衛生な場所にいたのだろう、ぼろぼろの上に傷だらけの子どもたち。
――その顔に、ユリウスの顔が重なる。
ライラは腕を広げ、子どもたちを抱きしめた。あまりに子どもたちが細くて小さかったのでライラの体でも十分、五人をまとめて抱きしめることができた。
(もし、もしも、この子たちが――ユリウス様と、同じ症状を持っているのなら)
痩せ細った体と、苦しそうに喘ぐ姿。
風もないのに髪が逆立っていたのが、溜まりすぎた魔力が暴走を起こしかけているのだったら――
目を閉じてぎゅっと子どもたちを抱きしめていると、逆立っていた髪が落ち着き、子どもたちの震えも収まる。
ライラの予想は、当たっていたようだ。
(よかった……)
どうしてこんな暗くて狭い場所にユリウスと同じ体質の子が集められているのかは、分からない。
そしてここがどこなのか、ヘルカが無事なのか、これからどうなるのかも、分からない。
(分からないことだらけだけど……私がこの子たちの苦しみを取り除けることだけは、真実だった)
「……大丈夫? もう、苦しくない?」
ライラが優しく声を掛けると、子どもたちが顔を上げた。
色の違う五対の目がライラをじいっと見上げ――
「……ママ」
「えっ?」
「ママ、ママ!」
一番幼そうな子どもが掠れた声でライラを呼んだ途端、他の子どもたちも「ママ!」「かあさん!」とライラにすがりついてくる。
まるで、ライラの温もりを求めているかのように。
ライラの体質によって体が楽になることを、願っているかのように。
自分が母親になった覚えはないが、か細い声で母を呼ぶ子どもたちを拒絶できるはずもなく、ライラはぐっと唇を噛みしめて子どもたちを抱きしめていた。




