35 不穏な手紙
木枯らし吹くある日、ユリウスはヴェルネリと一緒に王都の魔道研究所に行くことになった。
「あそこに行くのも久しぶりだからね。これまで手紙でやり取りはしていたけれど、やっぱり直接皆と話をしたくて」
先日仕立てた冬物のコートを羽織ったユリウスが言うので、彼の着替えを手伝っていたライラは頷いた。
「お戻りは夜になりますか?」
「魔道研究所は王都の隅にあるから、今回は飛んでいく。だから夕方には戻ってこられると思うし……今日は、近くの町に食事に行こうと思うんだ」
「外食ですか?」
ユリウスの細い腰にウエストポーチを着けたライラが顔を上げると、ユリウスはふふっと笑った。
「そう。実はもう、予約しているんだ。夕方までヴェルネリを振り回すから、彼に夕食の仕度をさせるのは忍びなくて。たまには僕たち四人で外食に行くのも楽しいかなって思うんだけど、いいかな?」
「もちろんです!」
思えば、両親や友だちと一緒に食事に行くことはあったが、夜会以外でユリウスたちと外で食べたことはほとんどない。あるとしても仕事の都合で寄るくらいだから、食事のためだけに外出するというのは初めてだ。
(ヴェルネリとヘルカもいるなら、護衛も十分だし……楽しみ!)
「ふふ、ライラ、子どもみたいに目がきらきらしている」
「そ、それは、とても楽しみなので! それじゃあ、遅くなりすぎずに戻ってきてくださいね」
「もちろんだよ。ライラも、お腹を空かせて待っていてね」
ユリウスが言ったところで、ライラが彼のコートを整え終えた。
振り返ったユリウスはライラをぎゅっと抱きしめると、首筋に顔を埋めてくる。
「……ここ、キスしていい?」
「えっ!? く、首ですか!?」
「うん」
急な提案に声がひっくり返るが、雑に考えれば首も頬も唇もライラの肌という点では同じだ。
ヘルカの趣味らしいロマンス小説には「痕を付ける」なる言葉があったし、ライラもその存在は知っていたが、ユリウスがキスした時に痕を付けたことはない。
おそらくだが、知らないのだと思う。
(……それなら、まあ、いいかな?)
「……いいですよ」
「ありがとう」
首筋でくすっと笑われたので体中に痺れが走り、ライラは唇を噛んで堪える。
そうしていると少し顔の位置をずらしたユリウスがライラの左の鎖骨付近に唇を寄せ、軽く押しつけられるだけのキスを落とした。
「……ライラ、いい匂い。ずっとこうしていたい」
「ユリウス様、魔道研究所! 仕事! 夜の約束!」
「……はは、了解。じゃあ名残惜しいけれど、行ってくるね」
苦笑してライラから離れたユリウスは、それまで壁際で待機していたヴェルネリに声を掛けた。
彼の隣にはヘルカもおり、ヘルカは目を細めてこちらを見ていたが、ヴェルネリは直立不動の姿勢のまま眼球だけ真横を向いている。
二人が例の馬なし馬車に乗って飛んでいくのを見送り、ライラはふうっとため息をついた。
「欲求不満……ですか?」
「ひっ!? そ、そういうわけじゃないわよ!」
音もなく背後に忍び寄ってきていたヘルカに言い返すと、彼女はくすりと妖艶に笑って、少し濁った冬の空に消えていく馬車を見つめた。
「ユリウス様も、本当によく我慢してらっしゃることです。ヴェルネリの話では、昔のユリウス様は今ほど我慢ができなかったそうなので」
「えっ、そうなの?」
「と言いましても、温厚なユリウス様のことですからいきなり怒ったりなどはなさりません。どちらかというと、思ったことをその場ですぐに口になさり、したいと思ったことをすぐなさり……他人に迷惑を掛けない程度にふわふわ自由自在だったというところでしょうか」
「ああー……分かる気がするわ」
とはいえ。
(ユリウス様……我慢してらっしゃるの?)
それは、何に対して?
何をしたいけれど、我慢しているのか?
じっと考え込むライラを見、ヘルカはくすくす笑う。
「いつかきっと分かりますよ。そうですね……来年の夏、結婚なさった後には」
「……」
「さ、今日は昨日の読書の続きをなさるのでしょう? 書庫に参りましょうか」
「う、うん」
色々と、知りたいような、知ったら後悔するような。
ユリウスについての悩みは尽きないが、こうして悩むことも幸せなのだと、ライラは思った。
ヘルカと二人だけの屋敷は静かで、時間もゆっくり過ぎていくようだ。
「まあ……ライラ様。アントン・キルッカ様からお手紙ですよ」
「えっ、父さんから?」
ヴェルネリが作り置きしていた料理をヘルカが温めて昼食として食べていたら、銀盆に手紙を載せてやって来たヘルカが言う。そういえばそろそろ、郵便が来る時間だった。
いつもなら山盛りの手紙を選別するのはヴェルネリの仕事だが、今日はヘルカが代わりにやってくれるらしく、彼女は一通の封筒を抜いて差し出してきた。
「郵便係曰く、近くの町に寄った際にキルッカ商会の関係者から託されたそうです」
「そうなのね。父さん、何かあったのかな」
ちょうど、学院時代の同級生の結婚状況について確認したいと思っていたところだ。
急ぎ中を確認するとそこには父の字で、現在仕事のために近くの町に寄っているので、これから屋敷を訪問してもいいか、と書かれていた。
(なるほど……だから急ぎ書きっぽい字なのね)
そういえば両親は一度も、この屋敷に来たことがない。今日は残念ながらユリウスは外出中だが、ヘルカと一緒に父をもてなすくらいならできそうだ。
「父が近くの町に来ていて、ここに寄りたいそうなの」
「……父君が?」
それまではすいすいと手紙を選別していたヘルカの手が止まり、澄んだ茶色の目に見つめられてライラはどきっとした。
「……それは本当に、父君の直筆ですか?」
「う、うん。この、私の名前を書く時の癖が同じだから」
「……。……そうですか」
ヘルカは疑り深そうな顔でライラから手紙を受け取り、しげしげと眺め始めた。
(……何だろう。父さんからの手紙じゃないかもって疑っているのかな……?)
ライラが冷や汗を掻きつつそわそわ見守っている間、ヘルカは封筒を撫でたり指先で突いたりしていた。
だがやがて小さく唸った後、それをテーブルに置く。
「……妙な魔力は感じられませんね。しかし、ユリウス様のご不在時にライラ様が屋敷の敷地から出られるのには不安がございます。庭まではユリウス様の結界がありますがご本人との距離が離れているため強度には不安があるので、その外となると……」
ヘルカの言葉に、ライラはごくっと唾を呑む。
ライラ自身は非力な平民の女だが、ユリウスの婚約者という肩書きがある。
ユリウスのことを快く思わない者だっているのだと、ヘルカからも教わっていた。
(確かに……そうだよね)
「分かった。でも、この書き方だとこのまま向こうから来そうだし……ヘルカに対応をしてもらっていい?」
「ええ、わたくしもそう申し上げようと思っておりました。ライラ様は屋敷の中にいていただき、父君の身分確認が取れましたらお招きします」
「……うん、お願い」
固い声で応え、ライラは手紙をじっと見る。
いくら見てもそれは、ライラが子どもの頃から見慣れた父の字で書かれていた。




