33 負けた女②
その時、ライラがきょろきょろとあたりを見回し、ユリウスに何か耳打ちした。
そうしてライラは立ち上がって二人してどこかに行ったが、彼女が手に持っていた小物入れからハンカチを取り出していたのが見えた。おそらく、手洗いに行くのだろう。
「ヨアキム。私、お手洗いに行ってくるわ」
「ん? そうか。俺も途中まで行こうか?」
「いいえ、大丈夫よ。あなたはご挨拶もあるでしょうから、私のことは気にしないでお話をしてきて」
よい妻を演じて言うと、ヨアキムは調子よさそうに頷いた。
本当に、扱いやすい男だ。
カロリーナはすぐに会場を出て、ライラたちの後を追った。予想通りライラは廊下を曲がった先の手洗い場に行ったようだが、カロリーナの目的はそちらではない。
おそらく近くにいるはず――と思ってきょろきょろしていたら、廊下の突き当たりの壁に寄り掛かる目当ての人物を発見した。周りに他の人の気配はない。大当たりだ。
「……どなたですか?」
カロリーナの気配を察したらしいユリウスが、腕を組んだまま顔を上げる。
カロリーナは暗がりから出て、にっこりと愛らしい笑みを浮かべた。
「お初にお目に掛かります、ユリウス・バルトシェク様。私、ライラ・キルッカの学友のカロリーナ・カントラと申します」
「カントラ……」
ユリウスは何かを思い出すように、視線を落とす。
この時、カロリーナは気付かなかったが――ユリウスの眉間には、不快感を表すような深い皺が刻まれていた。
「はい、カントラ男爵家の次男の妻でございます。あなたがライラの婚約者だと伺い、是非ご挨拶したくて」
「そうですか。でも僕は、あなたのことを存じております」
「まあ! ライラが何か申しておりましたか?」
たまにはライラもいいことをするではないか、と内心ほくそ笑むカロリーナだが、ユリウスはそんな彼女に無表情で鉄槌を振り下ろした。
「いいえ。彼女はあなたについて、何も。……あなたは三ヶ月前、伯母上が主催した夜会で余計なことをしてくれた。あろうことか、ライラを公衆の面前で辱め、彼女を悲しませた……そうではないですか?」
「えっ?」
思いがけぬ言葉を吐かれてカロリーナがぎょっとしていると、壁から体を起こしたユリウスは冷めた眼差しを向けてきた。
「伯母上は、呆れてらっしゃいましたよ。ただ、あのような場でライラを傷つけるような行為をしたことは許せずとも……ヨアキムでしたか。あの男がライラを手放したおかげで、僕は生涯を共にしたいと思える女性と巡り会うことができた。それに関しては、礼を申し上げます」
そう言ってユリウスはきれいなお辞儀をするが、そこに愛想は一切感じられない。
ユリウスに目を掛けてもらおうと思ってわざわざ追いかけてきたのに過去のことを蒸し返され、カロリーナはそわそわと腹を撫でながら後退する。
「え、えっと……そのことは、夫ヨアキムの浅慮をお詫びします」
「あなたご自身には非がないとお思いなのですか? 僕もあの場で、成り行きを見ておりました。ライラを傷つけたのはヨアキムだけでなく、あなたの心ない言葉にも原因があると思われたのですが」
丁寧だが容赦のない言葉を浴びせられ、カロリーナは言葉に詰まる。
こんなはずではなかった。
カロリーナがライラの名を出してちょっと甘えれば、大魔道士に目を掛けてもらえると思って来たというのに。
ため息をついたユリウスが、歩きだす。
「あっ、お待ちになって……」
「申し訳ありませんが、僕はあなたやあなたの夫と懇意にするつもりは、さらさらありません。ライラはあなたのことを気にしていない……むしろもう存在を忘れかけているようです。しかし僕は、僕の花嫁となる女性に恥を掻かせたことを、許すつもりはありませんので」
ユリウスの言葉は、どこまでも冷たい。
先ほど会場で婚約者に向けていた眼差しとは正反対の凍える視線が、カロリーナに突き刺さってくる。
「……それに、あなたは既婚の身、あと懐妊もしているはず。このような場所にいらっしゃらず、ご夫君のもとに戻られるといいでしょう。僕も、そろそろライラを迎えに行きますので」
拒絶されたカロリーナは、ぱくぱく口を開く。
だがすぐに、めらりと胸の奥に炎が宿った。
この男はライラに盲目になっているようだが、所詮ライラは地味でぱっとしない女だ。
ちょっとカロリーナが手を出せば、すぐに愛情も冷め――
「ああ、そうだ」
カロリーナの横を通り過ぎようとしたユリウスが、足を止めた。
彼が少し身を屈めてカロリーナの耳元に唇を寄せたので、思わずぽうっと頬を赤らめるカロリーナだが。
「……え?」
ユリウスが呟いた言葉。
それは、カロリーナの自信や虚栄心や将来の展望、それら全てを壊すものだった。
「……どう、して。それを……?」
「僕はこれでもそれなりに強い魔道士なので。なんとなくそんな感じはしていましたが……図星のようですね」
「……」
「女性を脅す趣味はないのですが……もしあなたがライラに危害を加えようと企んでいるのなら、やめた方がいいですよ。ご自分の秘密を隠したままにしたいのなら……ね」
その言葉が、最終宣告となった。
絶望に目の前が暗くなったカロリーナには目もくれず、ユリウスは立ち去った。間もなく廊下の向こうでライラがユリウスを呼び、甘くとろけそうな声でユリウスが応えるやり取りが聞こえてくる。
腹部に手をやるカロリーナはその場にへたり込み、カタカタ震えていた。冷えはよくない、と分かっていても、立ち上がれそうにない。
カロリーナがライラに手を出したら、ユリウスの怒りに触れる。
そうすると彼は――「あれ」を暴露するだろう。
名家の子息と、男爵家次男の妻。
まともに戦って、カロリーナが勝てるはずがない。
「……ライラ、ライラ……!」
憎い。
ライラが、憎い。
大人しく地味に暮らしていればよかったのに。
ヨアキムにふられたショックで引きこもっていれば、「亡霊魔道士」の求婚を蹴っていれば……「亡霊魔道士」を生まれ変わらせなければ、こんなことにはならなかった。
自分は、悪くない。
自分は、幸せになりたかっただけなのだから。
悪いのは、ライラ。
余計なことばかりしてくる、「親友」だ。
「……そう、私が手を下したと、分からなければいい。……ちょっとだけ、ちょっと揺さぶれば、いい。大事にはならないくらいにすれば、ばれない。私は、悪くない……」
うわごとのように呟くカロリーナ。
ユリウスがいた時には淡く廊下を照らしていた星々は雲に隠れており、カロリーナの体を闇の中に包み込んでいた。




