12 ライラのお願い
ライラはヘルカを世話係に据え、魔道士ユリウスの婚約者――兼抱き枕係としての生活を始めることになった。
ライラの朝は、ユリウスの腕の中から始まる。
ユリウスはライラと一緒に寝ることで不眠症は解決できたが、元々朝には弱い質らしい。朝日を感じてライラが目覚めた時にもほぼ間違いなく、ユリウスはまだ夢の中だ。
(今日も、よく眠ってらっしゃる……)
どうせヴェルネリが起こしに来るのだから、それまでの間ライラはユリウスの寝顔を観察していた。といっても、疚しい心があるからではない。
ライラの腰に片腕を回してすうすう眠るユリウスの顔。その目元の隈が日に日に薄れているのを確認できると、とても安心できるのだ。
今日も彼は魔力過多で悩むことなく、朝まで熟睡できている。幸せな夢を見ているのか口元は微笑を湛えており、その顔つきは日中よりも少しだけ幼く見えた。
そうしていると、朝食の仕度を終えたヴェルネリが寝室にやってくる。
彼に声を掛けられてようやくユリウスはまぶたを開くが、彼の頭の中まで目覚めるまでさらに時間が掛かった。
「ユリウス様、もう朝です。ライラ様から離れ、仕度をしましょう」
「ん……もうちょっと。ライラ、すごく抱き心地がいいんだ」
そう言って目を閉じたユリウスは、ずっと抱いたままのライラの肩にすりすりと頬ずりをしてきた。
まるで甘えたがりな猫のような仕草にほんわかする反面、婚約者とはいえ男性に抱きつかれているということでどきどきしてくる。
(こ、このままだと二度寝に連れ込まれる!)
入り口のところでヴェルネリがじとっとした目で見ているのを横目に、ライラは自由に動く方の手でゆさゆさとユリウスの肩を揺さぶった。
「ユリウス様ー。起きましょー。ヴェルネリが怖い顔で睨んでまーす」
「だいじょうぶ……ヴェルネリはやさしいから……まってくれる……」
「いや、そういう問題じゃないでしょう」
そしてヴェルネリも、まんざらでもなさそうな顔をしないでほしい。
結局今日は、なかなか降りてこないライラの様子を見るために上がってきたヘルカが一喝し、ユリウスからライラをべりっと引きはがしてくれた。
「ユリウス様、ライラ様と共に寝る時間が幸福なのは結構なことですが、もう朝なので切り上げてください。そしてヴェルネリ。ユリウス様相手とはいえ、時には毅然としなさい」
「……ごめん、ヘルカ、ライラ」
「……ふんっ」
立場に関わらず男二人を叱るヘルカは、非常に格好いい。非常に大人びていてしっかりしているヘルカだが、年齢を聞いたところライラより三つ上なだけで、ユリウスやヴェルネリより年下だった。
それでも男たちを叱責して反省させられるヘルカは、ライラの中で密かな憧れの対象となっている。
(私もヘルカくらい、しっかりしたいなぁ……)
身長や美貌や体型はとうてい真似できないが、ヘルカのような凛とした大人の女性になるのがライラの目標である。
ヘルカに連れられて二階の自室に降り、着替えをしたらもう一度ユリウスの部屋に戻る。今日ヘルカが選んでくれたのは若葉色のドレスで、腰の後ろの大きな蝶々結びが可愛らしい。
そしてユリウスのリビングで、一緒に食事を取る。ユリウスはやはりカリカリに焼いたベーコンが好きらしく、毎日のようにメニューに上がっていた。
だがヴェルネリはユリウスの健康もしっかり考えてメニューを作っているので、野菜や果物、キノコなどもバランスよく盛り込まれている。
「……僕、野菜もそうだけどキノコが苦手なんだよね」
「味ですか、見た目ですか?」
「一番は、食感かな。……ぐにゅって歯ごたえが昔から苦手なんだ。ライラは苦手な食材、ないの?」
「わりと何でも食べますね。……あ、食材云々より、辛い味付けのものが苦手です。味付けは薄くてもいいので、甘めが好きですね」
「僕も、甘いものは好きだよ。ヴェルネリがいつも買ってくれる焼き菓子は、どれもおいしいんだよね」
「そうですね……」
そこで、ライラはあれっと思った。
(そういえば、茶菓子に出てくるのはどれも市販のものっぽいような……?)
ユリウスと時間の都合が付いた時には、クッキーやケーキなどを添えたティータイムの時間を共有することにしている。
だが少なくともライラは、ヴェルネリがそれらを厨房で作っている気配を感じない。菓子独特の甘い香りがしないのだ。
食後、一旦ユリウスの手に触れて魔力をほどよく放出してから、彼は自室で魔道の研究をすることになった。
「ライラは今日、どうする?」
「そうですね……本を読んだり、屋敷の中を歩いたりしてみます」
ユリウスに問われ、ライラは考えつつ答えた。
ユリウスの未来の花嫁として屋敷に居座ることになったライラだが、夜はユリウスの添い寝という重大任務がある反面、昼は基本的に暇だ。
家事全般はヴェルネリが張り切って行っているし、ライラの身の回りのことはヘルカがしてくれる。
彼女も暇な時には話し相手になってくれるが、魔道研究所から持ち帰った仕事がある時などは一階にある自室に籠もっているので、ライラは手持ちぶさたになってしまう。
(今日、せっかくだからヴェルネリが暇そうな時に、蒸留室を見せてもらおうかな)
蒸留室とは、簡単に言うと菓子作り用の部屋だ。
元々は女主人が果実の蒸留やジャム作りなどをしていたことからその部屋の名が付いたのだが、最近では専ら菓子を作ったりジャムなどを保管したりする場所として、メイドたちが使う部屋となっていた。
ユリウスを見送ったライラは、二階から一階に向かう階段の途中でちょうどよくヴェルネリの黒ローブを見かけた。
「ヴェルネリ、ちょっといいかしら」
「内容によります」
(本当に、この人は!)
ユリウス第一主義者の彼は、いくらライラの体質がユリウスの病状緩和のためにぴったりとはいえ、ぽっと出の平民の女に心から傅く気になれないようだ。
そういうことでライラが屋敷に来て数日経つがいまだに彼の態度はどこかつんつんしており、ライラもそういうものだと受け入れるようにしていた。
「じゃあ質問するから、はいかいいえで答えて。時間がある時でいいから、半地下にある蒸留室を案内してくれない?」
「……」
てっきり「嫌です」と即答するかと思いきや、ヴェルネリは難しい顔で黙り、自分より階段五段分ほど高い場所にいるライラの顔をじっと見上げてきた。
「……蒸留室で、何をなさるおつもりで?」
「それはもちろん蒸留室なのだから、もしお許しがもらえるのならお菓子作りをしたくて」
もしかすると、ヴェルネリは菓子作りをしない――できないのかもしれない。
屋敷案内の際にちらっと見た蒸留室は整理整頓されていたが物寂しく、使用されていないのが明らかだった。
厨房はヴェルネリの聖域だというから蒸留室も同じかと思ったらそうでないし、手製の菓子が出たこともないとユリウスは言っていたため、そう予想したのだ。
ひくり、とヴェルネリの口元が歪む。
「……ああ、そういえばライラ様は、菓子作りがご趣味でしたか」
「ええ。お菓子作りだったら、専門のメイドにだって負けない自信があるのよ。蒸留室はあまり使われていないようだから、そこでお菓子を作りたくて」
言ってから、ヴェルネリの矜持を傷つけてしまったかとひやっとする。
だがヴェルネリは渋い顔でしばし考えた後、さっと目線を逸らした。
「……その菓子は、ご自分用ですか?」
「え、ええ。とりあえずは。……だってたとえ作ったとしても、ユリウス様やヴェルネリには食べてもらえないでしょうし」
ヘルカなら一緒に食べてくれそうだが、「ユリウス様にそんなものを食わせるつもりか!」とヴェルネリの怒りに触れそうだ。余っている卵と小麦粉、砂糖などを使って簡単なものを作り、趣味にできれば……と思っていたくらいだ。
ヴェルネリはしばし黙った後、さっときびすを返した。
「……ご案内するなら、今がいい時間です。すぐに参りましょう」
「あ、うん。お願いします、ヴェルネリ」
どうやらヴェルネリの気が向いたようなので、彼が気分を変える前にとライラは急いで彼の後を追った。
蒸留室は、一階の廊下の奥を少し降りた先、半地下にあった。
元々ここは厨房を取り締まる料理人ではなく、メイドたちを監督する家政婦の管轄にあるので、厨房から少し離れた場所にあってもおかしくない。
ヴェルネリが開けたドアをくぐった先の蒸留室は、やはりがらんとしていて使用感が感じられなかった。
(泡立て器、ボウル、オーブン……一通りの設備は揃っているみたい)
「……数年前は、ユリウス様の教育係を担ったメイドがここを使っておりました。しかし高齢の彼女が引退してからは、使うことがなく……結構いい道具を揃えていたようですけれどね」
作業台の下にあった立派な秤に触れ、ヴェルネリが呟く。やはり彼はここを使っておらず……上質な調理器具をしまったままにしていることを、申し訳なく思っているようだ。
「元々蒸留室は、屋敷の女主人の仕事部屋です。ユリウス様も快諾なさるでしょうし……誰かに使われた方が、この道具たちも喜ぶでしょう」
道具が喜ぶ、なんて彼らしくもない詩的な表現だが、それには突っ込まずライラは頷いた。
「ありがとう、ヴェルネリ。メイドの方が残された道具、大切に使わせてもらいます」
「……そうしてください」
立ち上がって頷いたヴェルネリは、少しだけ嬉しそうな顔をしているように感じられた。
蒸留室は昔のヨーロッパの屋敷に存在していた部屋です。
ただ、ここで登場するものはオリジナル要素も入れているので、資料にあるものとは一致しないかもしれません。




