3(狼)
鮭、玉ねぎ、豆腐、キャベツ、大根、長ネギ、ニンジン。
味噌仕立て。
ぐつぐつぐつ、と鍋の中は煮え、食卓を囲む僕たちを湯気と味噌の香りが覆う。
そう、僕たちは食卓を囲んでいる。
正面には燈花のお父さんが座っており、せっせと食卓を整えている。
「はい、香織さん」
そう言って微笑みながら、僕に取り皿を渡してくれる。
「ありがとうございます」
とは言ったものの、未だに僕は状況が飲み込めていない。
……なんだこれ。
右手には女子小学生、じゃなかった、燈花のお母さんが座っている。輝く金髪、交じるは純白。女子小学生が着てそうな適当な英語が書いたパーカー姿だった。よく見たらFirefoxと書いてあった。ブラウザか?
「おいおいおいおい狼娘、なにをそわそわしておる。集中しろ。鍋は戦いじゃぞ」
鍋は戦いではなかった。
唯一助けを求められそうな燈花は、僕の左手に座っているけれど、さっきから様子がおかしい。明らかにむすっとしているというか、拗ねているというか。
「おい燈眞、山椒をくれ」
「はいはい」
すでに燈花のお母さんが鍋を食べ始めていた。戦いだった。
*
時間を少々遡ると、数時間前、燈花と別れて、家についた僕は、今日一日を反芻していた。
反芻。何度も何度も同じことについて考えを巡らせること。
燈花と久しぶりに会って、話をした。直接話さないといけないと思ったと彼女は言って、僕たちは直接話した。
スカイツリーの展望台についたら、時間がやけに早かったから、いい感じに夜景を見るというわけにはいかなくなってしまった。夜景を見るプランなのに集合時間が朝というのが間違っている。そもそも、僕も夜に出歩くのはやめろと言われていたし、日没までには帰らないといけない変な門限がついていたのだった。そのかわり、次に来る日はしっかり約束させられた。まあ、昼間の景色も充分良かったけれど。結局、僕の使った言葉は、考えてみれば最後までなあなあだったような気がして、急に不安になる。本当に僕の気持ちは伝わっただろうか。
いや、伝わってしまったら怖いような気もする。
どうして僕なんだろうか。燈花は僕の中にわからないところがあると、見えないところがあって、興味を引かれたのだというようなことを言った。けれど、わからないところって、それは僕が背負っている狼のことだったんじゃないか。だとしたら、その秘密を知られてしまった今、それでも僕は興味を持ってもらえる存在だろうか?
いや、けど、大丈夫。僕たちはきっと大丈夫だと、どこかで胸が高揚している。
だって、さっき、付き合うことになった……よな? 多分、そういうことだと、思うんだけれど……。あれ……。
そんなこと本人に確認するなんて馬鹿みたいだなと思った。電話でもして聞いてみるか、と思っておかしくなって笑ったけれど、電話をするというアイデア自体で胸が変にうねった。この不安感はどうしたら良いのだろう。付き合うってなんだろう。この人とこの人は付き合ってますと誰かが認定してくれるわけでもない。いや、誰かに認定されても困るけれど……。認定って誰にされるんだよ。
ピンポン、と音がした。
我に返った。一瞬遅れて、それがインターホンの呼び出し音だと気づく。
ピンポン、ともう一度音がした。カメラがついているような上等なやつじゃないから、誰が来たのかは分からない。別に治安が悪いというわけじゃないけれど、一人暮らしだし、普通は夜に来た心当たりのない来客は無視してしまう。けれど胸騒ぎがする。
ピンポン、と三度音がした。
ゆっくりと、できるだけ音を立てないように立ち上がり、僕は玄関のドアへと向かう。そっと三和土の靴を踏み分けて、ドアスコープを覗き込む。
……知らないおじさんがいる。
え、なにそれ。こわ。
ピンポン、とまたチャイムが鳴らされた。
もう一度除いてもやはり見覚えのないおじさんだった。なんだろうこの人……。
ピンポン、とまたチャイムが鳴らされた。
全然帰る気配がないな。改めてドアスコープごしに息を殺して様子を見ると、普通に普通の格好をした、普通のおじさんだ。良い人かは分からないが、取り立てて悪い人にも見えない。
ピンポン、とまた鳴るチャイムを聞いて、僕は観念してドアにチェーンをかけて、そっと隙間を開けた。
「……はい」
「夜分遅くにすみません」
おじさんは思ったより柔らかい声で言った。本当に顔が申し訳なさそうだった。
「稲荷木燈花の父です。燈花の恋人の、神谷内香織さんですか?」
……認定されてしまった。
*
鍋は味噌仕立てで、濃厚な甘さがあった。しかし、鍋に玉ねぎとかキャベツって、普通入っていたっけ?
「おいこの鍋、油揚げが入っておらんではないか」
「石狩鍋に油揚げは入れないんじゃないかな」
「はぁー? 豆腐が入ってるんじゃからアブラゲ入ってても良いじゃろうが!」
「入っててもいいからって、なんでも入るわけじゃないからね」
ハイテンションな稲荷木母の叫びをさらりとかわす稲荷木父であった。なんだろう、ぶっ飛んでる人たちだけれど、案外お似合いなのかもしれない……。
『アシキ』の伝説によれば、この女子小学生……じゃなかった、稲荷木二色さんは、人間を仲違いさせる極悪な半妖だったはずで、どうしてそれが普通のおじさんと娘と三人で東京に暮らしているのか、僕には想像もつかない。
それにしても、石狩鍋か。
石狩鍋なんてちゃんと食べたことなかったけれど、白菜じゃなくてキャベツなのは、北海道のイメージなのだろう。玉ねぎが入っているのもきっと北海道流なのだろうと思う。漁師がとった鮭で作って食べてるイメージ。まあそうすると油揚げは違うかな。
「……あれ、お二人のご出身って、北海道なんですか?」
実は、違うって知っているけれど。二人は同じ××県の出身だということを燈花から聞いていた。けど何か、会話の取っ掛かりが欲しかっただけ。燈花は黙々と鮭を食べている。さっきから何もしゃべらない。
「いや、そういうわけじゃないよ」
稲荷木父が口にした地名は、やっぱり僕が前に聞いたのと同じだった。
「これは単に、験担ぎみたいなものさ」
「……験担ぎ?」
「勝負事の前に、カツとじ鍋定食を食べるようなものだね」
そこは普通にカツ丼でよくない?
「狼娘、特にお前がしっかり食っておかんといかぬふぉ」
「二色、言い終わってから食べるモーションに入りなさい」
この二人、案外お似合い……というか、もう父娘にしか見えない……。
燈眞さんに会うまでは、一体どんな人間ならば二色さんの夫が務まり燈花の父が務まるのだろうと思ったけれど、この超然とした普通のおじさんぶりを見ていると、ある種の納得感が生まれてきた。
「どういうことですか」
「かりゅうひょほほはふほは」
「二色、食べ終わってから喋るモーションに入りなさい」
燈花はさっきから黙って鮭ばっかり食べている。鮭ばっかり食べるな。山椒かけすぎだろそれ。
「まあ聞け狼娘。お前はさっき、狩人に殺された」
「は?」
「じゃが殺されたのはお前じゃなく、儂が化けたお前だったというからくりじゃ。恩に着ろ。崇めろ。奉れ」
……は?
「次は反撃じゃ。石狩鍋を食らって、狩人を食ってやるんじゃ」
卓に流れる沈黙。ぐつぐつ言う鍋の音に混じって、燈花が母親を無視して鮭を食べる音だけが響く。鮭ばっかり食べるな。
「うん、香織さん、僕から説明させてもらうね」
最初からそうしてください、と僕は言いそうになったけれど、黙って頷いた。燈花、山椒かけすぎだろ。




