7.《夢》から醒めるとき
せっかくいい《夢》を見ていたというのに、とイスカルの肉体は考えた。ここは現実だ。起こされたということは、きっと地上で何か異変があったのだろう。そのために予備としてこのからだがあるのだから。
やがてゆっくり、記憶が伝達される。
どうやら前の肉体は蟲に殺されたらしい……いや、蟲を呼んだ誰かが要る……狩龍人……そうか、ヤツらが来たのか……
裸の肉体もそのままに、彼は歩き出す。ティムルグ、という名前のそれは龍の中に入り込んだ害虫だ。ゆえに駆除しなければならない。でないと、あの安らかな《夢》の中には帰れない……
ひた、ひた、ひた、と体液に濡れた肉体は足音を立てる。不気味なほどの静謐は、まるで龍そのもののがらんどうな生を暗示しているかのようだった。
けれどもイスカルは止まらない。
壊死した細胞をすら無視して、彼は歩き続ける。なにせ山脈と同等の大きさなのだから、ほんの一部分傷ついたところで、龍は《夢》を喰らうことで再生できるだろう、と。
しかし、彼はある異変を捉えた。
赤黒いだけの内臓に、何か色が付いている。赤と黒以外の色彩が混じり込んでいる。透けるような乳白色に、空のように澄んだ青、陽光を想起させる鮮やかな黄色に、萌える草木の緑が……あたり一面を彩っている。
──なんだ、これは?
イスカルは初めて戸惑った。
いわば、ここは庭だ。彼の、彼による、彼のための庭だった。現実を切り取り、造作し、理想の心地よい《夢》に浸るために築き上げたその庭に、憎き人間が入って荒らす。それが許せなかった。
だのに、今度はその庭に新しい色を加えてゆくものがいる。庭を壊すのではなく、造り替えようとしている。
なぜだ。なにがしたいのだ。
彼はいつしかその異変に心を奪われていた。本来なら、彼の想像の中ではあり得ない出来事が、なぜか興味をそそり、そして好奇心を刺激している。不意な侵入を憎み、怒りながらも、その変化の有り様に心を奪われずにはいられない。
「これは……!」
思わず呟いたその先に、龍がいた。
絵に描かれた龍のすがただ。
しかし、それはイスカルが今まで見てきた龍とはまるでちがうすがただった。というのも、それは空を飛んでいる龍のすがたであったからだ。架空に付け足された翼を広げて、悠々と雲海を越え、空高く飛び立つそのすがたを……
「そんな、馬鹿な……こんなの《夢》だ」
「そうだ。これは《夢》だ。おれの《夢》のカタチだ」
声がかかる。ティムルグだ。
彼はその龍の頭のあたりに控えていた。
どういうわけか、肉の足場を築いて、高くまで登っている。だからティムルグがイスカルの肉体を見下ろすようなカタチになっていた。
イスカルは歯軋りをして、ティムルグを見上げた。睨むように、唸り声をあげて。
「お前ッ! 私の《夢》に何をしたァ?!」
* * *
ティムルグは、絵を描いていたのだった。
体液に顔料を浸し、彩色された液体で以って描くのだ。そしてその顔料には、ヒ素やカドミウムや水銀が混じっている。いわば、直接内臓に毒を塗り込むという作業なのだ。
しかし、それと同時に、ティムルグはやがて起きてくるであろうイスカルに対しての最後の攻撃にも乗り出していた。それが絵──みずからの《夢》をカタチにすることだった。
「お前ッ! 私の《夢》に何をしたァ?!」
だから、イスカルの怒鳴り声に対して、ティムルグは叩き落すように言った。
「龍のあるべきすがたを描いた」
なんだと、というイスカルの言葉を涼しく聞き流し、ティムルグは続ける。
「イスカル・トリバニーニ博士。あなたは重大な過ちを犯した。たしかにあなたは龍を愛し、龍とともにヒトが暮らせる理想郷の《夢》をカタチにした。しかしそれは、龍のあるべきすがたを捻じ曲げて行なわれたモノだっていうことを無視している」
ティムルグは語る。
なぜ、自分が龍を殺すのか。
なぜ、自分が狩龍人を志したのかを。
そのために、彼は問いかける。
「なあ、イスカル博士。あなたは龍が飛んでいるのを見たことがあるか?」と。
イスカルは青筋を浮かした。
不完全で若々しい、龍の肉から成り立ったからだが、感情を制御できない。
「ふざけるな! 龍は空を飛ばない! 生まれてしばらく自由に歩き回ったのちに永住地を決め、そこで《夢》を喰らいながらただひたすら大きくなるこの巨大生物が、空を飛ぶだと……?! くだらない、くだらない! それこそ《夢》じゃないかッ! 研究していた私の知識を嗤う気なのか!」
「学問上は、たしかにそうなのかもな。だが、おれは見たことがある」
けげんそうな顔をするイスカルに、ティムルグは語りかける。
かつて、彼が少年だったころ。
彼の故郷の丘に成り代わって、龍が現れた。そして付近の住民の何人かが《夢》を喰われたとき、狩龍人がやってきた。彼はどちらかというと乱暴な人間で、その人間自身に憧れはなかった。
しかし、龍を殺したと思しきその夜。正確には明け方ごろに、少年ティムルグは見たのだ。地の束縛を離れ、天に昇る龍のすがたを。太陽に輝く翼を、広げて。
「それこそが、おれの狩龍人の志望動機なんだよ。だから思い出させてくれた博士には感謝したいくらいだ。
だが、あなたは自分の《夢》に囚われた。喪ったのではない。《夢》で育つ生き物を愛し、焦がれた結果、ついに《夢》の中に微睡み続ける方法を作ってしまった」
おれにはそれが許せない。
そんなことをしたら、龍は飛べなくなる。
「……ふ、あはははは」
イスカルは笑い出した。
心底愚かさを嗤っていた。
「それで、傷つき、逃げ込んだわれわれがようやく手にした《夢》を取り上げて粉々にしよう、という寸法なのかな、狩龍人殿よ」
「残念ながら、あなたのそれは《夢》というよりは、単なる駄々を捏ねた子供の執着というべきものだ。お前は自分のねがいを叶えるために、龍を踏みにじり、傷つけているのをあえて無視しているッ!」
「仕方ないことなのだよ。私は知ったのだ。龍は滅ぼすことはできないし、永久に滅ぼされることもない。少なくとも人類がこの世界にあるうちには、ね」
どういうことだ、と尋ねるのは、今度はティムルグになっていた。
形勢逆転にほくそ笑み、イスカルは両手を高く掲げた。
「なぜなら、逃避願望、快楽を求めるねがいこそが龍を生み出す卵だからだよ」
なぜ龍がこの世に現れたのか?
そしてなぜ龍が人類史のはじめからあったのか? それは龍たちが古生物である、という解釈もあれど、《夢》を喰らうという生態との矛盾があり、いまひとつ定説がなかったのだ。
「もうご存知かと思うが、私は龍の肉を借りて生き永らえることに成功した。その同化作業の中で、私は知ったのだよ。龍とヒトとはもともと不可分なモノだ、とね。
龍そのものがヒトの心を蝕む魔物なのではない。ヒトの心が、現実に蝕まれないように龍を作り出したというのが本質的に正しい解釈なのさ」
つまり、とイスカルは結論する。
龍はヒトが《夢》を見続ける限り、この世から消えることはない。ゆえに殺すのは諦めて、《夢》として龍に取り込まれた方がずっと良い。《夢》を醒ます努力など無駄なのだよ、と。
「……たしかに。そうかもしれない。だがもうお前の《夢》は終わりだ。この龍は死ぬのさ。おれがこうして塗った毒がそろそろ回りきって死に至らしめるはずだからな」
「毒、毒だと?」
「そうだとも。この絵の具は、龍を──地を這うことを強制された《夢》を殺す現実の道具だ。そしておれは、お前みたいに《夢》を地に留めておきたいというねがいを断ち切るんだよ」
「詭弁だッ! それは龍の本質に沿わない」
イスカルは怒鳴っていた。
全身全霊をかけて否定を試みた。
しかしティムルグは言った。
それはちがう、と。
「たしかに《夢》を抱くこと自体に罪はないし、それこそはヒトを生かすに足る精神のエネルギーとなる。その事実を、龍は生きておれたちの心を貪ることによって証明しているだろうさ。
しかし《夢》は、《夢》でしかない。この世ならぬモノをねがい続けたところで、ヒトは何ひとつ進歩できないんだ。お前自身も体験しただろう。《夢》は現実の前に脆く、あまりにも儚い。無邪気な空想ほど残酷なモノの一撃を喰らってやすやすと滅ぼされてしまう。それこそ龍が、鉄杭や毒を受けて殺すことができるようにね」
「黙れッ! お前は……お前は! 現実に敗れ、打ちひしがれたモノの想いが分かるのか? 心を砕かれ、立ち直れなくなった人間の行き場所を壊して回ることにためらいや問題を感じないのか! それこそ……それこそ残酷ではないか!」
「逆だよ。だからこそ龍は死ななくてはならないんだ。お前たちが簡単に逃げ込める場を作り、肯定してしまっては、本当に現実に戦っているヒトに対して失礼だろう? そしてそうした人間の、本当に叶えようと努力し続ける《夢》は、お前たちの言う生ぬるい優しさで喰い潰されてしまうわけにはいかないのだ」
イスカルさん、あなたもかつてはそうだったはずだ。
ティムルグのひと言に、とうとうイスカルは黙り込んだ。
「龍は滅びない。そうさ、ヒトはみな弱いのだから、コイツが死んでもまた次のヤツが、いつか誰かの《夢》を噛み砕くだろう。
しかしだからと言ってその片棒を担ぐ気にはならない。だって、おれたちが生きているのはいつまで経っても現実なんだ」
だから……とティムルグは言う。
《夢》から来たモノは《夢》に還れ、と。
言い終えたそのとき、世界が大きく揺れ動いた。そして赤黒い液体が壁や天井から噴き出して、全てを洗い流していったのだった。




