5.逃亡、そして
「気付かれていないとでも思ったか?」
長老──イスカル博士は言う。
「言っただろう。われわれは《夢》を喪った存在なのだよ。お前が芸術家を名乗ったのがいけなかったな。《夢》をカタチにする芸術家が、龍に喰われぬはずがない。それなのに平然としていられるお前は、狩龍人の訓練を受けた以外に何があり得るというのだ?」
もはや、一刻の猶予もならなかった。
ティムルグは素早く傍らにある荷物を手に取ると、イスカル博士のからだを突き飛ばし、家を飛び出した。
するとそこにオランが待ち構えていた。
まるで別人のように強面であった。
「こんな遅くにどこ行くだか?」
「く……ッ! 邪魔だ、どけッ!」
オランを突き飛ばそうとするティムルグ、しかしそれは中途で阻まれた。すかさず鋭い痛みがティムルグの腕に走り、くるりと視界が一回転したかと思うと、彼は仰向けに倒れていた。
もがこうとするものの、オランの腕が離れない。狩龍人として訓練を受け、腕力とて頑強なはずのティムルグが、一介の村人であるはずのオランに敵わないのだ。
「馬鹿な……ッ!」
「よくやったぞ、オラン……」
あとからイスカル博士がやってくる。
月明かりに照らされた顔が見えた。
にんまり笑った、不気味な顔だった。
ティムルグは歯を食いしばった。
「さて、逃げるということはわれわれに敵対するものと見て、差し支えないかな、ティムルグ殿。鉄杭を持ってこなかった、ということは殺すのではなく偵察が目的だったと考えても良さそうだが……報告されても困るからな。残念ながら君も死んでもらおう」
オランの腕に力が入る。
みしっ、とイヤな音がして、ティムルグの腕に激痛が走る。指先が腕に食い込み、まるで大根でも引き抜くかのように、関節に負荷を掛けてくる。
その痛みに絶叫しながらも、ティムルグは生存の一手を模索した。模索して、考え、思考停止する直前に、一か八かの勝負を思いつく。
もう考えているヒマはない。
ティムルグは思いつきを実行に移した。
彼は残された意識を振り絞ってらからだを半回転させた。腕を離さなかったオランは、そのままティムルグの腕に釣られて、激しい前転を繰り広げる。
そして、そのほんの一瞬に、力が弱まるのを感じた。
ティムルグはオランの肩を掴むと、関節に負荷を掛けるように彼のからだを地面に叩きつけた。
と、そのとき。
グギリ、とイヤな音がした。
しかしティムルグはオランに内心で詫びながら、それを無視した。
彼は駆け出す。夜の中を。
そして、彼は月明かりを頼りにしながら昼間に通った気孔への道を行った。しかし足元は暗く、息も荒い。蟲の恐怖もあった。おそるおそる道を思い出しつつ、彼は進むが、やがて道は失われ、彼自身みずからの現在地がわからなくなってしまっていた。
そのとき、ようやく彼は腕に違和感があることに気づき、それを見た。
オランの腕が、付いていたのだ。
先ほどのイヤな音の正体は、オランの腕が取れたときのものだとわかり、ティムルグは悲鳴を上げそうになる。しかしやっとの事で堪えると、その腕を力づくで剥ぎ取り、草むらに放り投げた。
まだあたりには冬が残っている。昼間は春の兆しを秘めた若葉が、原生林を少しずつ染めているものの、夜になれば寒さが本性を現すのだ。温もりのかけらもない月影が雲に隠れると、全き暗闇が寒冷な恐怖を伴ってティムルグの耳元で囁いてくるのが感じられた。
歯の根が合わない。
ガチガチ、と音だけがやたら響く。
ティムルグは焦っていた。
冷や汗も止まらない。
もともとおかしいとは思っていた。
しかしこれはなんなのだ。
あの腕、オランの腕力、あそこに生きるひとびと……そのどれもが、単に《夢》を喪った以上の何かを示している。少なくとも、龍の吐き出す夢霞にそんな作用があるなんてことは聞いたことがない。
──だとしたら、いったいあいつらはなんなのだ?
人間ではない、と思った。
本当にそうなのかはわからない。
しかし直感がそう叫んでいた。
だとすれば、まさに巻き添えになるとしても、龍ごと退治せねばならない、とティムルグは考える。あんな不気味な連中に護られ、延々と《夢》を喰らい続ける龍の存在は、ティムルグの純粋な好奇心を上回って、はるかに危険だ。ギルドはまだそれを危険視していないからこそ、どうにかしなければならないと思えるのだ。
──とにかく、一旦中央に戻ろう。これはおれひとりの手に負えたモノではない。
そう思い立ち、ふたたび歩く決心をしたときだった。
ガサガサ、と音が迫る。
しかも、まっすぐこちらに向かっている。
いっとき止んだはずの冷や汗がまた湧くのを感じた。今度はオランなのか、それともイスカル博士が差し向けた新手なのか……?
ティムルグは駆け出した。
音が鳴るが、その場に留まるほうが良くないと感じたのだ。まぐれだったとしても、彼らの探知はこちらの予想を上回って野生的であることを踏まえなければ、生き残れる気がしない。
そして、それはやはりまぐれではなかったのだ。音という手がかりも加わってなのか、彼らの追尾はより正確になってきている。ぴったりと背後数十メートル、と言ったところか。少なくとも月が隠れているいま、眼で見てできることではない。
とにかく生き延びねばならない。
だがこのままでは追いつかれるだろう。
だからと言ってこんな闇夜の中、山を降りるなんてことは以ての外だ。手元が見えない中、しかも追われながら山を無事で降りられるわけがないし、自殺行為にも等しい……
──いや、待てよ。
確実に死んだ、と思わせるぐらいの何かを演出すれば、彼らを撒いて夜を凌げるのではないだろうか?
そう考えたとき、彼の行動は決まった。
背後の音がより鮮明に近づいてくる。
ティムルグはまた方向を変えた。
原生林を駆け抜け、コケに足を取られそうになり、枝を折りながらも、ついに彼は目的地にたどり着く。そして……
ちょうど、月が雲から現れた。
病人のように青白い光があたりを照らす。
そこは空き地だった。
森の中にぽっかりと空いたそこには……
巨大な穴があった。
南中した月明かりでも照らすことができないほどの奈落の闇を抱えたその穴は、知る人のあいだでは龍の気孔と呼ばれている。
ティムルグは、その底に顔を向けた。
そして絶叫を上げた。
叫び声は穴底から壁に反響し、重なり合いながら、咆哮のようにうねりを上げながら、龍の内部に轟いたのだ。
「なにをするのかと思えば……」
振り向くと、イスカル博士がいた。
さらにその後ろには、村人たちもいる。
みな恐ろしい獣のような眼をしていた。
爛々と、赤い瞳がこちらを向いている。
「破れかぶれになったのか、お前はなにがしたいのか本当にわからないヤツだな」
ティムルグは返事をしなかった。
できなかったのだ。
肺が壊れそうなほどの絶叫を上げ、息を切らしてしまっていたのだった。
それを見たイスカル博士は、哀れむような微笑みを浮かべていた。
「気が狂ってしまったのであれば、もう苦しむことがないように、速やかに殺して差し上げよう。さあ、せめて死後は安らかな《夢》を見なさい」
と、言ったときだった。
グラリ、と大地が揺らいだ。
イスカル博士たち一同は姿勢を崩す。
それほどの強い揺れが起きたのだ。
なんだ、と声を上げる間も無く、次の瞬間がやってきた。気孔の大穴から、ブーン、と羽音を立てて影が立ち上る。それは月明かりを背景に、悪魔のようによく映えた。
飛龍蟲だ。
龍の体内に潜んでいる寄生虫、共生者の代表格。その彼らが憤怒の赤い色に眼を染めながら、イスカル博士らに向かって飛び込んだのである。
周章狼狽、阿鼻叫喚の図が展開した。
飛龍蟲の群れから逃れようと原生林に隠れたものもいるが、そこには這龍蟲が現れるはずだった。突然の音波衝撃で我を忘れた彼らは、同属以外の生き物を見境なく殺してゆくだろう。
そして、それを見ながら、やはり彼らは同じ生態系に属しているのだ、とティムルグは確信した。集落は蟲の存在を怖れていた。ということは、龍のように《夢》を喰わない蟲たちとは、やはり喰って喰われる関係にあるのである。
とりあえず集落の脅威を取り除くことはできたが、ティムルグは次の選択を迫られていた。このまま突っ立っていては、蟲に殺されるのがせいぜいなのだ。
だから、彼は飛び降りた。命綱無しで。




