Ordinary Men(4-3)
レイチェル女史とコルベール准将がにらみ合うのを横目で見ながら、僕は勇気を振り絞って、自分の仕事をすることにした。
つまり、レイチェル女史に対する勧告だ。
「ドクトル・レイチェル。証人の安全を確保するなら、僕らはもう動かなくては。
帝都は特別警戒中ですが、それは逆に言えば狙撃銃を持った警察局の人間が屋上に伏せていても、こちらからはその意図が分からないということです。
けして状況は簡単ではないですよ」
僕の言葉を聞いたレイチェル女史は、苛立たしげに「そんなことは分かってる」と言おうとした。その言葉を途中で遮って、僕は強い言葉を使う。
「いいえ、分かっていない。
現時刻は1708時。2000時までにこの場に証人を連れてくるのが目標です。
まず、移動時間として90分は最低でも確保したい。ベラ嬢が運転したとしても、この時間は譲れません。たとえ意図的な妨害ではなかったとしても、警備に伴う緊急の道路封鎖や、それによる一時的な渋滞などはあり得ます。
となると、自由に使えるのは80分。安全確保のための経路策定、防弾仕様の車の手配など、やるべきことは多い。既にもう、綱渡りのスケジュールです。視野が狭いと罵られようが、僕は今すぐ行動を開始することを、強く提言します」
レイチェル女史は僕をきっと睨み付け、それからコルベール准将をちらりと見て、深々とため息をついてから、僕に向き直ると頭を下げた。
「ごめんなさい、少尉。貴重な時間を無駄にしてしまったわね。
あなたの見解は正しい。行動しましょう」
かくして僕たちは揃って大使館の応接室を出た。
背後で扉が閉まるとき、准将が「昔は僕がラシェルにあんな感じで怒られてたなあ」と述懐するのが聞こえたが、僕もレイチェル女史も振り返らなかった。
■
証人の護送は、想像の4倍くらいの効率で完了した。
まずそもそも、フント・デス・モナーツに戻った段階で、すべての準備が整っていた。
安全経路の策定はシュネー嬢が最適化したプランを出し、防弾仕様の車はソーニャ嬢がアガトニークの名前でストラーダ一家から借り出していた。トリーシャ嬢は証人にボディアーマーを着せ終えていて、ベラ嬢はゴツい車のエンジンの暖気を終えている。あとは大使館に戻るだけ。
それにしたって手回しが良すぎるだろうと思ったけれど、その秘密はベアトリーセ様が教えてくれた。マーショヴァー卿のもとには1500時の段階で「レンバッハ軍曹に関する一切の捜査の完全な打ち切り」が通達されており、1600時頃にフント・デス・モナーツを訪れた執事のクラウス氏がその情報を告げるや否や、皆が準備を始めたという次第。
なおソーニャ嬢は「コルベールが妙に後ろめたそうだったから、これは共和国でも捜査打ち切りが決まったんだろうなと思って」、大使館からの帰り道でストラーダ一家のアジトに立ち寄ったそうだ。うん、それはもうちょっと早めに教えてもらえたら嬉しかったかな。
結局、最悪の事態として想定されたことは何一つ起こらず、僕らは無事に証人を共和国大使館へと送り届けた。証人の女性は僕らに聞きたいことがたくさんあったと思うけど、結局最後まで無言のままで、車を降りたときに「ありがとう、さようなら」とヴージェ語で言って頭を下げた。
大使館からフント・デス・モナーツへと戻る道すがら、車内はどうにも静かだった。
ベラ嬢はドライバーに徹し、レイチェル女史はけだるげに窓の外を見ている。僕は微妙な居心地の悪さを感じつつも、こういうときってレイチェル女史にタバコを勧めたりするのがいいのかなとか、冷静に考えたらやけに難易度の高い行動について思い悩んでいた。
そのうち、レイチェル女史は軽くため息をつくと、ハンドバッグからシガーケースを取り出した。この数日で見慣れた、細身の葉巻。レイチェル女史がふと「借り物の車の中で吸ってもいいのかしらね?」と独り言のように言ったので、「これはストラーダ一家の車です。タバコを吸わないマフィアなんていませんよ」と返事しておいた。レイチェル女史は「それもそうね」と言って小さく笑うと、自分で葉巻に火をつけた。んんん。いまの流れのどこで「火を貸しますよ」を差し込めたのだろう。
ゆっくりと、時間をかけて最初の一服を吸ったレイチェル女史は、誰に向かってということもなく、しゃべり始めた。独り言。あるいは昔話。
「私がまだ小さな子供だった頃、私はレインラント帝国の愛国少女だった。
すごい田舎の村で生まれたんだけど、村全体がそういう雰囲気で一色だったのよ。だから特に疑問を抱くこともなく、皇帝陛下への忠誠だとか、弱者への庇護だとか、そういうことを口にしてた。
ヴージェ共和国は憎むべき退廃国家であり、帝国を滅ぼすべく邪悪な陰謀を巡らせているってのも常套句だったわね。『だからこそ我々はヴージェの言語を学び、彼らの企みを見抜かねばならない』ってね」
レイチェル女史の語り口には、どこか過去を懐かしむような透明さと、どこかその過去を忘れ去ろうとしているかのような暖かさがあった。
「同世代の誰よりも早くヴージェ語を覚えた私は、次に何を学ぶかを選ぶことになった。
私は迷わず『帝国軍人としてヴージェのクソどもをぶっ殺す技を学びたいです!』って言ったけど、『女の子には無理だ』と却下されちゃったのよね。
代わりに練習させられたのが、裁縫仕事。帝国軍人の軍服を作り、また繕う仕事は、帝国の清らかなる婦女子にとって基本となる奉仕……とかなんとか。あの頃は本当にイヤでイヤで仕方なかったんだけど、今でもあそこで覚えた技術を使って服を作ってるんだから、人生ってほんと、わかんないわね」
マフィア御用達のいかつい車は、石畳の道路の上を滑るように走った。
窓の外を、夜闇に包まれていこうとする帝都の風景が流れていく。
「コルベールに初めて会ったのは、私が12のときだった。
コルベールは士官学校を出たばっかりで、サイズのあってない第一礼装を無理矢理着てた。私はそれがどうしても許せなくて、上着を一晩預かって、簡単な仕立て直しをしてあげたの。
それからコルベールはときどき村に来るようになって、愛国少年に銃剣術を教えたり、愛国青年に射撃を教えたりした。
でもあの頃のコルベールは、私にしてみると、不真面目で軽薄な、帝国軍人にあるまじきクソ野郎だった。シャツがズボンからはみ出てるのを見るたびに、あなたは弛んでるって食ってかかったものよ」
なんとなく昔話を聞いているだけのつもりだった僕は、ここでようやく、レイチェル女史の話が奇妙な捻れ方をしていることに気づいた。
コルベール准将は見るからに生え抜きの共和国軍人であって、どんな事情があろうとも、帝国の辺鄙な村を巡って自警団をトレーニングするような人物からは極めて遠い。
「16歳の頃、ヴージェ共和国との戦争は不可避で、開戦までは時間の問題だっていう噂が村を賑わせるようになった。コルベールは以前より頻繁に村にくるようになって、訓練も厳しさを増した。
私はいてもたってもいられなくなって、コルベールに『どうしても戦い方を知りたい、私は皇帝陛下の兵士として最先頭で戦って、最先頭で死にたい』と訴えた。彼は私の望みを叶えてくれて、次の日から私は男の子たちと一緒になって、泥まみれになりながら訓練を積み重ねていった。
幸いと言っていいのかどうなのか、私は直感的に、『こうすれば人は痛いと感じる』ことが理解できた。純粋な力比べじゃ男には勝てないんだけど、戦闘すれば勝つのは私だった。
神様は、盲目的な愛国女子に、人殺しの才能を授けてくださったのよ」
捻れに捻れた昔話は、でも、なんだか僕の心にすとんと落ちた。
つまりこれは、そういう物語だったのだ。
レイチェル女史もまた、〈レンバッハ軍曹〉なのだ。
「格闘訓練では村の誰もが私に勝てなくなった段階で、私は『もっと上級の訓練』を受けるために、村を出ることになった。
そうそう。ずっとライバルだった男の子が大泣きして、最後に勝負しろって詰め寄られたから、その場で投げ飛ばしてやったのを覚えてる。その子は地面に突っ伏したまま泣きわめいて、でも最後は必死で笑顔を作ると、『立派な兵隊になれよ!』と私を送り出してくれた。
青春よね」
青春。そうかもしれない。いや、そうだったのだろう。
そうでなきゃ、その男の子が哀れすぎる。
「村を出た私は、深い山の中に作られた、いかにも秘密基地っていう場所で適正の検査をされて、そこでもう一度、大暴れした。
私は潜入工作員として適正がある、と判定された。でもその頃の私はまだまだ頑固な愛国少女で、『最先頭で戦って、最先頭で死ぬ』ことが私のたったひとつの夢だったの。
だから私を突撃隊に入れろ、格闘戦では誰も私に勝てないくせになんで私にはスパイなんて汚れ仕事を割り振ろうとするんだってわめき散らして、大暴れした。最後は魚を捕る網をいくつも投げつけられて、制圧されちゃったけどね」
双子姉妹とアイン嬢という特級の狩人がいるせいで目立たないけれど、レイチェル女史は〈月の猟犬〉における「なんでも屋」的なポジションだ。諜報も、対諜報も、交渉も、あるいは個人レベルでの戦闘も、隙なく高度なレベルでこなす。
「基地に来て最初の週に営倉に放り込まれた私は、そこで扉越しに、コルベールといろいろな話をした。あの頃の私は単細胞生物そのものだったから、コルベールに『敵国に潜入して情報を収集し、命令があれば要人の暗殺もするというのは、君が望む〈最先頭での戦い〉じゃないかな?』って言われたとき、それはもう深々と感銘を受けてしまった。
3日で営倉を出されてからは、コルベールの下で工作員としての技術を学んだ。
本当に、たくさんのことを学んだわ。文字通りの戦闘狂でしかなかった私は、食べ物やお酒の美味しさ、タバコの良さ、ちょっとした贅沢をする楽しさ、高級な服を着る喜び、ダンスを踊る豊かさを知った。
人を騙す方法だとか、筆跡を真似る方法だとかも学んだけど、あそこで学んだことで、今になっても生死の瀬戸際で思い出すのは、『人生は楽しい』っていう理解ね」
おそらくそれこそが、レイチェル女史の強さの本質なのだろう。
人生は楽しい。だからそれを手放さない。どちらかというとストイックに育てられることが多い「兵士」にあって、この強烈な生への渇望は、レイチェル女史をひときわ強く輝かせている。
「もちろんといったら何だけど、コルベールには他のことも学んだ。恋することとか、人を愛することとか、そういうことも。
だから初めての任務でコルベールが率いるチームに配属されたときは、ちょっとした困惑もあったけど、嬉しくもあったわ。互いに、任務は任務、プライベートはプライベートで、ちゃんと区別していたしね。
コルベールにサポートされながら、私は裏工作の世界に飛び込んでいった。共和国の要人たちが避暑地で散歩するのを尾行し、盗聴して、会話の内容を暗号化して帝都に送る。共和国軍のプロパガンダ映画で主演を飾った男優に接近して、薬を使って悪酔いさせ、醜態を新聞記者たちの前にさらけ出す。そんな仕事の、積み重ね。2年目にはコルベール以外の男を知って、3年目には吐き気がするような暗殺作戦を成功させた。
来たるべき共和国との戦争において帝国が勝利するためなら、私はその最先頭に立って、何でもできた」
言葉にしがたい痛みと怒りが、僕の奥底からわき上がる。
こんな無惨で、救われない物語が、あって良いはずがない。
「やがて戦争が始まった。
すっかりベテランの工作員に育っていた私は、共和国の内部に浸透して、たくさんの任務をこなした。帝都に舞い戻って、共和国の工作員を排除する任務も、何度もやった。
なかでも一番興奮したのは、コルベールと2人で共和国諜報部への浸透に成功したことよ。私は事務方として、コルベールは清掃係として。2人とも、共和国諜報部が得ていた情報を帝国に流すために、知恵と勇気の限りを絞って働いた。
でも――」
でも。
「帝国は負けて、戦争は終わった。
絶望した私は秘蔵していたありったけの手榴弾をバックパックに詰め込んで、戦勝に沸き立つ華の都のど真ん中で、なるべくたくさんの共和国要人を巻き込んで自爆してやろうと決意した。
できなかった。
私の心は、折れてしまったから。コルベールが、完膚なきまでに、私の心を折ったのよ。
彼は、何もかも教えてくれたわ。
私は生まれてから今まで、ずっと帝国の人間だと思い込まされて、育てられてきたのだと。
そして今まで私が帝国のためと信じてやってきたことは、共和国軍にとって望ましからざる思想を持った政治家や文化人を社会的に抹殺することだったり、帝国に対する欺瞞工作だったり、共和国諜報部に対する内部調査だったり、ときには裏切った共和国工作員の粛正だったりしたのだ、と」
何もかもが、作られていた。
共和国政府は、自分たちにとって望ましくない活動をする共和国市民や共和国軍人を社会的に(ときには生物的に)抹殺する、専門の秘密組織を設立した。そしてその組織は、共和国国内にある極秘の箱庭で、「レインラント帝国の狂信的な愛国者」を育成し、選抜して、様々な秘密工作に利用する計画と一体化していた。
使う側にとってみれば、この組織は危険かつカネがかかるが、それ以上に魅力的な暴力装置として機能しただろう。共和国政府は「帝国の陰謀」を自在に演出するのみならず、実行することさえできたのだから。
でもそんな組織であればこそ、戦後、その組織に――そしてレイチェル女史の身に何が起こったかは、明白だ。
「また、これもなかったことにするの?」
レイチェル女史がコルベール准将に向かって叫んだ言葉が、耳の奥でこだまする。
「何者でもなくなった私は、何度も何度も死のうと思ったけど、死ねなかった。
こんなにも苦しくて辛くてイヤなことしかないのに、やっぱり私は、生きるのが楽しかったから。
起き抜けに香る、自分の好みとは違うタバコの匂い。旬の生牡蠣の、クリーミーでちょっと潮っぽい味。洗い立てのシーツの手触りと、ほのかに感じるラベンダーの香り。ヴージェ共和国陸軍が誇る最大最悪のクソ野郎に手ひどく騙されたくらいで、これを全部捨ててしまうだなんて、私にはできなかった」
つくづく、思う。レイチェル女史は、強い。とてつもなく、強い。
憧れるというよりも、崇拝したくなるくらいに、強い。
ふと気がつけば、車はフント・デス・モナーツに近づいていた。
すっかり日が暮れた帝都の歓楽街には、たくさんの帝国市民と、たくさんの共和国市民が、一夜の夢を求めてフラフラと歩いている。
まるであんな戦争なんて、なかったかのように。
でもきっと、それでいいのだろう。何の根拠もなく、そんなことを思う。
「戦争が終わって、少し世情が落ち着いた段階で、私は正式に帝国市民になった。ほんとうに不思議だけど、『帝国の市民』っていう立場が、今でも一番しっくりくるのよ。
それから、殺すのはもう飽きたから、生かす方法を勉強した。殺しの才能は、医学を学ぶにあたっても、とても役に立ったわ。
あとはシンプル。開業医をしていた私は、ある夜、不思議な患者を迎えた。1人は全盲の東洋人。もう1人は黒マントに黒フードの人物。黒マントはひどい怪我をしていて、東洋人はうろたえきっていた。なんだか2人が他人に思えなかったから、出世払いで手当をしてあげた。そしたら1ヶ月後に『お迎え』が来た。
共和国と帝国の両方で、似たような仕事をすることになるとは、夢にも思わなかったわね」
フント・デス・モナーツの前で、車が止まった。
僕は先に車を降り、レイチェル女史が座っている側の扉を外から開ける。
僕の手を取って立ち上がったレイチェル女史は、蠱惑的な笑みを浮かべつつ、僕の耳元で一言だけ囁いた。
そしてその囁きが僕の耳から消えないうちに、レイチェル女史は夜の街へと去って行った。




