Ordinary Men(3-2)
それは、とても奇妙な「書類仕事」だった。
A6に入っていた書類は、レインラント帝国に送り込まれた工作員のプロフィールだった。なるほど、大使館勤務の連中が必死で守ろうとするはずだ。
コルベール准将は「念のために言っておくけど、ここで見たものについては全部、ここを出た瞬間に忘れてね」と笑顔で僕に告げたが、僕としてもその要請には自分の総力を傾けて従うつもりでいる。戦争で2人の息子を失い、自分も右足をなくした対ウージェ共和国最強硬派の帝国議会議員が、実はヴージェ共和国で育成された工作員だなんて、絶対に忘れてみせる。
いやあ、世界ってのは、本当にクソだなあ。
それはともかく、僕が任されたのは封筒を片端から開けてプロフィールを確認、レインラントの兵站部への浸透を命じられたか、計画されていた人物を、余さず抜き出すという作業だ。それって全部の書類を精査することになりますよね!?
と、思ったけれど、20人目くらいから逆に誰が何をどう命令されたかなんて覚えていられなくなってきて、40人目で僕は完全に機械的に動く何かになっていた。過剰なまでの情報を前に、僕の脳が考えることを拒否したのだ。僕の記憶に漠然と降り積もっていくのは「これは戦争に負けますわ」という印象だけ。てか弊社の暗号とか全部筒抜けだったんじゃねーの。アホらし。なーにが「数学的に見て突破不能の暗号システム」だよ。解読用の乱数表を特に意味もなく手元に持ってた偉いさん(62歳男性)の4人目の愛人(13歳男性)経由でなんもかんもバレバレだったじゃねえか。死ね。「報告:いつでも腹上死させられます」。ですよねー。「命令:戦後も共和国の役に立つ人材だから生かしておくように」。ですよねええええ。
いけない、思考と口調が乱れてきた。僕は機械。ただの精密機械だ。心が乱れたら「ベアトリーセ様はこんなクソどもを身内に抱えたまま帝国の防諜システムを守っている」と考えて忠誠心を燃やすんだ。
そうやって2時間ほど、書類と格闘していただろうか? 隣ではレイチェル女史とコルベール准将が一枚一枚、僕が選り分けた書類をじっくりと調べては、時折テーブルの中央に抜き出したり、抜き出された書類をチェックして袋に戻したりしていた。
そのうち、レイチェル女史が「いた」と呟いて、手を止める。
レイチェル女史から書類を受け取ったコルベール准将は、「ああ」と深いため息。
僕もつられて手を止める。
「少尉。まだ調査は終わっていないわよ。
手を動かして」
叱られた。
僕は再び、機械となって書類の仕分けを続ける。
それから更に2時間くらいかかったが、ついに僕はA6の中に入っていた最後の書類を仕分けし終えた。最後の一人は――いや、忘れろ。忘れてしまえ。
僕が仕事を終えたところで、コルベール准将は部屋で僕らを監視していた職員を掴まえて、僕に別室でコーヒーと軽食を振る舞うように命じた。正直、かなりほっとする。このままこの部屋にいたら、どうしても書類が目に入ってしまうから。
こじゃれた応接室に通された僕は、コーヒーと菓子を持って入ってきた職員にお礼を言い、職員は僕に「彼女は何者なんだ?」と聞いてきたが、僕はただ「詳しいことは知らない方がいいタイプの人物ですね」と答えるしかなく、その回答に職員は大いに頷いた。
その後、30分ほどで2人は地下室から出てきた。既に外は日暮れ時だ。
さすがに2人も疲れているのか、沈み込むようにソファに座ると、運ばれてきたコーヒーを美味しそうに飲む。レイチェル女史は細身の葉巻を取り出して封を切り、コルベール准将は懐からライターを取り出して火をつけた。
葉巻を楽しみながら、レイチェル女史は苦笑いを浮かべる。彼女にしては珍しい。
「まさかここまで『良い知らせと、悪い知らせがある』っていう月並みなセリフが似合う状況だとは思わなかった。
コルベール。一応、提案しておくわよ。私たちはここで、何も見なかったことにして、手を引いてもいい。今の私の上司も、この状況での手仕舞いは『仕方ない』と評価するはず。むしろここから先に進むなら、『無謀なことをするな』と怒るでしょうね。
どうする?」
「どうする?」と言いながらおそろしく艶やかな笑みを浮かべるレイチェル女史の顔を、コルベール准将はしばらく見つめていた。
それから、たっぷり時間をかけて、首を横に振る。
「見なかったことには、しない。
ここはまだ、撤退するラインではない」
それは、普段から軽薄な印象をまとわせているコルベール准将が、初めて見せた軍人の顔だった。
自ずから、僕の背筋も伸びる。
「なら現状の確認から。
私たちは『レンバッハ軍曹』を2人見つけた」
……なんだって?
「1人は先の大戦が終結しようとしている頃、帝国軍の兵站部に浸透を命じられた工作員。名前は――仮にフランツとしましょう。
帝国軍に志願兵として潜り込んだフランツは、兵站部を希望し、見事に採用された。
フランツにとって誤算だったのは、数学の能力があることを示したにも関わらず、補給部隊の護衛をする実戦部隊に回されたこと。そして戦争というものが変化する速度を、読み損なっていたことね。
戦争末期になって、帝国陸軍が戦線整理のために一部で大規模な撤退を開始したのに乗じ、その撤退を読んでいたかのようなカレドニアとヴージェの空軍は航空機を集中投入して、徹底した対地攻撃を行った。そしてその航空攻勢の後、フランツからの連絡は途絶えた。
帝国陸軍においてはギーレン一等兵と呼ばれていた彼こそが、1人目のレンバッハ軍曹よ」
「レンバッハ軍曹の戦歴は、2人の兵士の戦歴を混ぜたものだと考えると、矛盾がなくなるんです」。部下の声が、脳裏に響く。
だが、まだ結論を出すには早い。何より、確認しなくてはならないことがある。
「それって、良いニュースなんですか? 悪いニュースなんですか?」
レイチェル女史は、くすりと笑った。
「良いニュースよ。だから次は、悪いニュース。
2人目のレンバッハ軍曹は、あなたも知っているレンバッハ軍曹だったわ。
書類によれば、戦争末期に空襲によって負傷した彼は共和国軍の捕虜となり、収容所で共和国に寝返って工作員としての訓練を受け、その後『独力で敵の前線を突破した』体裁を装って帝国軍に浸透した。戦後は兵站部に訓練教官として採用され、共和国に情報を提供していた。
つい先日、帝国において謎の襲撃を受け、戦死。内部的には2階級特進済み。ちなみに彼の訓練過程には、コルベールは関わっていない」
……確かに、これは悪いニュースだ。最悪と言っていい。
「少尉はなかなか頭の回転が速いようだね。良いことだ。
まあ、まずは小さなトリックから話をすれば、〈カトル〉の暗号を上手く使われてしまった、というのが僕の感想だ。あのシステムは、誰が連絡員として機能しているのかを、監視側が見極めるのがとても難しいという強みがある。そこを逆手に取ったんだねえ。
実に小賢しいが、なかなか上手いよ」
とても悔しいが、指摘の通りだ。
僕はあの高度な暗号システムを見て、それが機能し続けていたことをハウスメイドの証言から推測し、そしてそのシステムが共和国のものだと知って、最終的に「レンバッハ軍曹は共和国に情報を流し続けていた」(だから「通信を受け取っていない」と主張する准将は嘘をついている)と判断した。
でも考えてみれば、あのシステムは本質的には無線と同じだ。つまり「受信機がなければ発信できない」なんて縛りはなく、軍曹は「誰も受信しない暗号を送り続ける」ことだって可能なのだ。それならば「軍曹は暗号通信を送っている」ことと「准将は通信を受け取っていない」ことが簡単に両立する。
「大事の前の小事はここまでにして、本題に入ろう。
終戦間際から終戦直後における帝国の混乱は、そりゃあひどいものだった。僕が帝国に送り込んだ工作員にも、せっかく戦争を生き延びたのに、戦後の意味不明な混乱に巻き込まれて死んだっていうケースが、結構あるんだよね。
そんな混乱の中で『レンバッハ軍曹』という戦歴を捏造するのは、そんなに難しいことじゃあなかっただろう。でも君がその死体を背負った『レンバッハ軍曹』は、可能な限りの完璧を期すことにしたんだ。僕が同じ状況におかれたら、それを目指すようにね」
准将の言葉が、じわじわと脳に染みこんでくる。
確かに、これは「可能な限りの完璧」だ。けして完璧ではない。でも、ほぼ完璧、あるいは必要十分に完璧だ。
「『レンバッハ軍曹』という物語を作り上げるにあたって、その人物は――仮にXとしましょうか――フランツの経歴も利用したのね。
Xは、共和国の諜報技術を極めてよく知っていた。兵站部に対する浸透に拘っていたコルベールが送り込んだエージェントのことは、一目でそうだと見抜いたでしょう。なにせXはコルベールの訓練を受けた人物なのだから」
そうだ。そこは僕も推理できていた。
帝国軍には、コルベール准将が訓練した精鋭工作員でありながら、何らかの理由で帝国に寝返った人間だっていたはずなのだ。
そしてそういった人物をコルベール准将がちゃんと把握できていた(いる)かとなれば、それは無理だと言わざるを得ないだろう。工作員にとって、任務中に行方不明になってそれっきり音信不通、なんて運命はあまりにありふれている。
「そうだね。
人物Xは、フランツもといギーレン一等兵の正体を見抜いていた。そしてXは、ギーレン一等兵を地上の地獄へと送り込んだ。僕ならそうするから、きっとそいつもそうする。
ギーレン一等兵を文字通り地上から消し飛ばすことで、Xは『共和国の工作員レンバッハ軍曹』という物語と同時に、『共和国の工作員ギーレン一等兵』というアナザー・ストーリーも手に入れた。
実に嫌らしいことに、この2つの物語は非常に似通っていて、違う登場人物の逸話が混じっても判別が困難だ。それなのに正確な『ギーレン一等兵』の物語は、共和国大使館の金庫室の、ボックスA6の奥底に眠る書類の中にしかない」
そう、それがこの仕掛けの最も小賢しいところだ。
『レンバッハ軍曹』の正体を完全に明らかにしようと思いたち、その経歴を洗い始めた人間は、どこかの段階でギーレン一等兵の影を見つけてしまう。レンバッハ軍曹殺人事件の特捜班たる僕たちが、その片鱗を見つけたように。
そして帝国の人間にとって、そこがデッドエンドの入り口だ。その違和感を大事にして延々と調査を続けた果てに「ギーレン一等兵」にたどり着けたとしても、彼について本当に正しい情報を得るためには、共和国軍諜報部の極秘情報にアクセスしなくてはならない。詰みだ。
一方で、実は『レンバッハ軍曹』という物語は、共和国側からだけでも読み解けない。兵站部に所属し、訓練教官という立場で兵站部員の個人データも一部管理するレンバッハ軍曹は、正確なプロフィールや経歴が機密扱いになっている。コルベール准将クラスの人間が本気を出して初めて、その全貌に手が届く可能性が生まれるのだ。
神の奇跡か悪魔の悪意かは知らないが、たまたまコルベール准将とレイチェル女史が手を組んだせいで、あっさりと『レンバッハ軍曹』という物語の基本形が露見したが、これはバレるほうが異常だ。そして彼らにしても、物語の全体像に手をかけるには至っていない。
「では誰が、なぜ、Xに『レンバッハ軍曹』という物語を与えたのか。
そしてXはなぜそれだけで満足せず、『ギーレン一等兵』という物語まで獲得したのか。
合理的な推測は、1つしかないわね」
実に遺憾ながら、確かにここで可能な推測は1つだけ――つまり、帝国軍がXにレンバッハ軍曹というカモフラージュを提供し、それだけでは不安を感じたXはギーレン一等兵というギミックでさらに隠蔽を強化したという説だ。
この陰謀の主犯が帝国軍でないのなら、帝国軍上層部からレンバッハ軍曹の捜査を中止させるような圧力がかかることが説明できない。そして人物Xは、帝国軍における上位の協力者がこの程度にはお粗末だからこそ、危機感を覚えて自己防衛した(実際、あのまま僕ら特捜班だけで捜査を進めていたら、僕らは「ギーレン一等兵」という分厚い壁に頭を打ち付けることになり、事件は死んだ人物Xの望むように迷宮入りしていただろう。今のこの展開は、上層部が捜査中止の圧力をかけてきたからこそ発生したのだ)。
……なお帝国軍上層部を軽くDisってみたが、正直に言えば僕は彼らにも負けている。僕は「レンバッハ軍曹は帝国軍のダブルスパイであり、共和国に偽情報を流している」という推理をしたが、これはまさに彼らが作った「レンバッハ軍曹の物語」にストレートに飛びついた推理だ。
ではなぜ、帝国軍はこんな労力をかけたのか?
間違いなく、帝国軍上層部にとってXは、深く調べられたくない人物なのだ。僕がそう推理してしまったように「レンバッハ軍曹ダブルスパイ説」に到達すれば、帝国軍人の多くはそこで納得し、口を閉ざしてしまうだろう。
ここまで理解が進むと、「レンバッハ軍曹」が共和国の機密書類に工作員として記載されていることがどれくらい「悪いニュース」なのかも、理解できる。
「コルベールの不手際も絡むとはいえ、戦時中に共和国を裏切った者がいる。
その裏切り者は帝国軍と手を結び、何か途轍もないことをしでかした。その後、帝国軍が結構な予算をかけて、その裏切り者に厳重なカバーストーリーを用意するくらいに、途轍もないことを。
そしておそらくこの『途轍もないこと』は今も何らかの形で続いていて、共和国軍は現在進行形で隠蔽に協力している。だから私が作った記憶のない『レンバッハ軍曹』の記録がこんなところにあって、更新され続けている。
覚悟なさい少尉。私たちの敵は、共和国軍と帝国軍の、両方よ」




