Ordinary Men(3-1)
沈着冷静であることの難しさ。不都合な真実。A6の箱。見たものを忘れる精密機械。良い知らせと悪い知らせ。撤退はまだ指示されていない。2つの機密と2つの敵。ワインとチーズと干しブドウ。自殺行為。5つのサイコロ。44歳男性の性的嗜好を分析する。世界一美しい言語。真実の重み。賢者は目隠してから崖を飛び降りる。
僕の養父は、沈着冷静を絵に描いたような人だ。
イメージとしては、巨大な岩山。冷たく、硬く、重い。
だからというわけじゃないけど、僕はかつて義父に、「どうしてあなたはそんなにも冷たく、硬く、重いのか」といった趣旨の質問を投げかけたことがある。義父の答えは「何が起こるか分からないからだ」で、そのときは義父が何を言いたいのか、まったく分からなかった。
でも、今なら分かる。
正直なところ、「どうしたこうなった」をまったく理解できていないんだけど、なんだか知らないうちに僕は「ヴージェ共和国諜報部に雇われた情報コンサルタント」になっていた。レインラント軍の基準で言えば、100%どころか600%くらいの純度の裏切りだ。
つまり、義父の伝えたかったのは、そういうことなのだ。
「人生は何が起こるか分からないから、他人にどう思われようが、沈着冷静を貫け」。
でもさ。
でもさあ。
これはなくない?
……非生産的な愚痴はやめよう。今の僕は、ヴージェ共和国諜報部の協力者。そして僕らが直面している謎は、極めつけに遺憾ながら、帝国にとっても共和国にとっても解明する必要のある謎だ。
まずは現状で確実と言える要件だけまとめてみよう。
・レンバッハ軍曹は殺された
・レンバッハ軍曹は共和国工作員として高度な訓練を受けていた
・レンバッハ軍曹はかねてから外事課の要注意人物リストに(半ば形式的に)入っていた
・レンバッハ軍曹殺害事件、およびレンバッハ軍曹の身元調査を妨害する、レインラント軍内部の高官が複数存在する
ここまでであれば、推理はそう難しくない。
「レンバッハ軍曹は『共和国の工作員』という仮面を被った、他国の工作員」ないし「『共和国の工作員』という仮面を被った帝国の工作員であり、共和国に誤った情報を流していた」という推測は、かなり強力なものだ。
後者のダブルスパイ説であれば、軍の高官が彼の調査を妨害するのもいたって自然だ(調べた側が極めて気まずい思いをするだけでなく、軍曹がダブルスパイであったことに共和国が気づく危険性を高める)。またこの場合、軍曹を殺した黒幕は、彼がダブルスパイであることに気づいたコルベール准将だということになる。
ところがこの理想的な推理にとって、大変に不都合な事実が2つ、追加されてしまった。
レンバッハ軍曹の残した様々な記録や証言から浮かび上がる、彼が使っていた技術には、「額に焼き印でも押されたみたいに」(レイチェル女史談)准将から直接指導・訓練された形跡があるという。
ついでに言えば、レンバッハ軍曹の記録をざっくりと確認した准将本人も、軍曹が用いていた技術が准将ベースのものであることを認めている。
なのにコルベール准将はレンバッハ軍曹なるパーソナリティを覚えていないし、帝国軍兵站部からの定期的な情報は得られていないと言う。軍曹は毎週、暗号で通信を送っていたにも関わらず。
つまり。
・レンバッハ軍曹は、コルベール准将が訓練を担当した
・コルベール准将は、レンバッハ軍曹の存在を知らないし、軍曹から報告も受けていない
いやこれ、コルベール准将が嘘ついてるか、記憶違い起こしてるでしょ?
絶対、それ以外に成り立たないでしょ?
ていうかどう考えたってこれ、准将が訓練して帝国に送り込んだ工作員が、実は帝国に寝返ってダブルスパイになっていたんだけど、そのことにようやく気づいた准将が今頃になって、「俺はそんなヤツのことは知らないし報告も受けてない」とかツッパしてるだけでしょ? 准将の立場(と保身)上、そういうことにするしかないんでしょ? さもなきゃもっと悪いことに、准将はもうロートル扱いされてて、レンバッハ軍曹が絡んだオペレーションからは意図的に遠ざけられてたってことでしょ?
でも解せないことに、レイチェル女史は僕とは違う推論に至っているようだった。
午前中一杯かけて情報交換した僕たちは、准将がひいきにしているというヴージェ料理の専門店でランチを食べることになった。ランチ1回で僕の食費2日ぶんが吹っ飛ぶクラス。特に予約入れていなかったようだが、准将の顔を見たギャルソンは何も言わずに僕らを個室に案内した。
個室で細身の葉巻を吹かしながら、レイチェル女史は呟くように推論を口にする。
「少尉が死体を見つけたレンバッハ軍曹は、レンバッハ軍曹ではなかった。
そう考えれば、何もかも筋が通る」
……えっと?
僕の戸惑いを華麗にスルーしながら、コルベール准将は食前酒を一口。
「だとしたら、それをどうやって立証するつもりだい?
それに君の推理が正しければ、僕が君の敵に回るのは時間の問題だよ?」
レイチェル女史は天井を見上げると、吐息のような紫煙を吐き出した。
「まずは仮説の実証をする。
午後からは書類仕事ね。少尉、手伝ってもらうわよ」
ちょうどそのとき個室のドアがノックされ、3人分のランチの第一陣が到着した。見た感じ、何の変哲もない、冷製のコーンポタージュ。いかにも最近流行のヴージェ料理らしく、実に上品な量が綺麗なカットグラスに注がれている。
でもスプーンでひとさじ掬ってみると、思わず驚きの声が漏れた。なんだこれ!?
「どうかね少尉。ヴージェ料理も悪くないだろう?」
にんまり笑う准将。レイチェル女史もさすがに驚きを隠せなかったようで、顔がわりと真顔だ。
「相変わらずレストラン選びのセンスだけはずば抜けてるわね、コルベール。
これはスープだけど、サラダでもある。こんなありふれた食材で、こんなとんでもないものを作る料理人がいるだなんて」
「スープであり、サラダでもある」という評価は、この前菜を評価するにあたって最も適切な表現だろう。よくあるコーンポタージュのように甘くはないが、コーンの甘さがまったくないわけでもなく、それでいて新鮮なコーンサラダを食べているような香りが舌から鼻へと抜けていく。いやはや、これはすごい。僕なんかじゃ、「すごい」以外に言葉もない。
結局、そのランチは2時間ほど続いた。「ヴージェの金持ちはランチに2時間かけるそうだ」という噂は聞いていて、僕らはそれをよく笑い話にしていたものだけど、こんな料理を出されてしまうと抵抗できない。いくら僕でもこの料理をゆっくり味わわずに食べるだなんて、さすがに無理。子羊のソテーも、鰆のグリルも、なにもかもが素晴らしかった。
さて、最高のランチで意気が上がった僕らは、その足でヴージェ共和国大使館へと向かった。コルベール准将が既に手配していたのか、僕らにも来賓を示すバッジがすぐに手渡され、最上級の待遇で大使館の中へと通される。
大使は仕事で外出していた(本国の外相が来ているんだから当然だ)ので挨拶はすっとばし、「書類仕事」を始めることにする。ちなみに僕らが取り組むべき書類仕事とは、大使館にしつらえられた超巨大金庫の中に眠る、機密書類の探索だ。
……え、これってマジでやっていいことなんです?
その危惧感はいたって正しく、金庫室の扉を開いた僕らの周囲に、あっという間に大使館の職員や軍人が集まってきた。コルベール准将が「僕の権限で許可していることだ」と説得するも、彼らは納得しない。そりゃそうだ。僕だって彼らと同じ立場なら、絶対に引き下がらない。
膠着状態を打開したのは、レイチェル女史だった。彼女は「私たちが確認したいのは、A6と書かれた箱の中身だけ」と宣言したのだ。
もちろん、それで引き下がる軍人なんているはずがない。でもそんな彼らも、徐々にレイチェル女史の前に降伏を余儀なくされていった。
「中身は第一級の軍事機密だから、外国人に見せられるはずがない? 馬鹿言わないでよ。じゃあ誰かA6を開けて、ファイルFを確認して。ファイルFに収めた書類の1枚目には、フェヒトの情報が書いてあるわ。フェヒト。F-e-c-h-t。確認して? ほら、その通りだったでしょ? 何なら項目Aから順番に内容をここで言いましょうか?」
地獄のような押し問答(なお押される側にとっての一方的な地獄)はそれからも5分程度続いたが、僕らの行く手を阻もうとする軍人の一人があげた悲鳴のような「なんであんたはそれを知ってるんだ!」という叫びに対し、コルベール准将が「A6の中に入ってる書類を作ったのは彼女なんだよ」と答えた段階で、非建設的な議論は終わった。
その後、コルベール准将と大使館の警備主任が討議をした結果、僕らは大使館の地下室に案内され、職員たちの厳重な監視の下、その部屋の中でA6の内容物を調べることになった。無難な落とし所だろう。「ヴージェ共和国大使館に秘蔵される機密書類を作成したのはレイチェル女史で、今なお彼女はその内容を(全部ではないだろうが)克明に記憶している」という一点を除けば、実に無難だ。
「少尉。君にとってみると、ラシェル……失礼、レイチェル君はあり得ないことをしていると思うのだけれど、君はずいぶん落ち着いてるね?」
そりゃそうですよ准将。
この程度で驚いてたら、〈月の猟犬〉とは付き合えません。
かくして楽しい書類仕事が始まった。




