Ordinary Men(2-4)
そこから先は、レイチェル女史の独壇場だった。
彼女が着るドレスは喪服のように黒く、シンプルすぎるくらいにシンプルなスタイルだったけれど、どうしようもなく艶やかで、どこか蠱惑的で、それでいて凜としていた。見る人が見ればその理由も分かったのだろうが(ファッション筋っぽい人々がヒソヒソ声でそういう話をしているのは耳に入った)、僕には「すごい」以外に言葉もない。
もちろんダンスも完璧だった――とはいえ、純粋に技芸としての踊りであれば、双子姉妹のほうが上手なのは間違いない。姉妹の踊りには、肌がひりつくような熱と、魂を揺さぶる慟哭があった。そこには血の匂いと心臓の鼓動、粘り着く吐息と、死んだ肉体の重みがあった。
レイチェル女史のダンスからは、その手のものはまったく感じない。でも彼女のダンスは完璧だった。彼女は重力など存在しないかのように踊った。あたかも黒衣の天使がこの場に降り立ったかのように。
そして彼女のパートナーとなったヴージェ共和国の軍人もまた、遺憾ながら、素晴らしいとしか評価できなかった。レイチェル女史が「すごい」なら、こちらは「上手い」。
一般論で言えばダンスにおける主役は女性だが、レイチェル女史の着ているドレスには色気こそあれ、他のご令嬢たちのもののような華やかさはない。むしろヴージェ陸軍の伝統ある第一礼装を隙なく着こなす彼のほうが、主役に見える。
にも関わらず彼はあくまで黒子に徹し、レイチェル女史を主役として演出し続けた。こんなことは、ただダンスが上手いだけでは無理だ。ソーニャ嬢に劣らぬレベルで人の視線と心を操る技術を持っていなくては、自然と彼が主役になってしまう。
オーケストラの演奏は続き、多くの人はダンスに興じ続けたけれど、けして少なくない人数が2人のダンスを眺める側に回った。それだけじゃあない。2人の周囲には徐々に丸い空間ができていき、やがて2人専用のステージと言えるくらいにその円は広がった。
気持ちは、わかる。
誰だってあの2人の近くで踊りたいとは思わないだろう。もし僕がこの場で「お前も踊れ」と言われたら、あの2人から可能な限り遠い場所を選ぶ。当たり前だ。
まったく。
いったいどうして、この世にはこういう、神に愛された連中ばかりいるのか。
僕は自分の凡庸さに十分満足しているし、願わくばもうちょっと己を磨けまいかと日々努力しているけれど、さすがにこういう高みを間近で見せつけられると、ため息のひとつの漏れようというものだ。
やがて音楽は終わり、レイチェル女史とヴージェの軍人は互いに一礼をした。自然と、周囲から拍手が湧き上がる。2人はその喝采が当然であるかのように周囲にも一礼すると、手を取って僕のほうに歩いてきた。
僕としてはギクリとせざるを得ない瞬間だったが、その驚きは別の驚きで塗り替えられた。絶妙なタイミングで次の音楽が始まり、人々は主役を飾った2人を追うのではなく、新しいダンスに向けて気持ちを切り替えたのだ。
こんな偶然は、あり得ない。2人は特に打ち合わせもなしに、自分たちが退場するその瞬間に他の客の注意が別の何かに向くよう、呼吸を合わせたのだろう。
いや、あり得ないのはそれだけじゃあない。2人はまったく息を乱していない。僕の知る限り、あれだけのダンスを踊って、汗をかいた気配もなければ息も乱れていないというのは、完全に常識外れだ。
でも本当の常識外れは、そこではなかった。
レイチェル女史は途中でボーイから受け取ったシャンパングラスに軽く口をつけると、まるで笑っていない笑みを浮かべながら、先ほどまでのパートナーを僕に紹介してくれた。
「エーデシュ少尉には、初めて会わせるわね。
こちら、栄光あるヴージェ共和国陸軍、最大最悪のクソ野郎よ。
さすがにもうトシだから往年のクソっぷりは鳴りを潜めたかもと思ったけど、試しに踊ってみた感触から言えば、もっと悪化してる」
ええと。
まあでも、ここまでぶっ飛んだ紹介をされれば、逆にこっちも肩の力が抜けるというものだ。
「初めまして。自分はレインラント陸軍警察局、内事2課副課長を務める、ナギー・エーデシュ少尉です。ドクトル・レイチェルには職務でお世話になっております。よろしくお願いします」
うん。我ながら普通だ。でも挨拶ってのはこういうのでいいんだと思う。
ちなみに僕の挨拶を聞いた「ヴージェ共和国陸軍最大最悪のクソ野郎」はと言えば――
「丁寧なご挨拶をどうも。私はヴージェ共和国陸軍、最大最悪のクソ野郎です」
……もうちょっと普通でいいと思うよ、挨拶くらい?
■
とりあえずちゃんとした挨拶を済ませた僕ら(男はコルベール准将と名乗った。准将!? そりゃあ階級章は間違いなく准将のものだが)は、バルコニーにしつらえられた休憩用のテーブルについた。
コルベール准将はいつのまにかシャンパンを1ボトル確保していたので、僕らは各々のグラスに手酌でシャンパンをつぎ足すと、准将の音頭で乾杯した。「なにかのために乾杯っていうと最悪殺し合いになるから、乾杯とだけ言うね」というのが准将の言葉。レイチェル女史は「あなたにしては賢いわね、命拾いしたわよ」と真顔で返答したけれど、さすがに准将相手にはもうちょっと敬意とか……いや、なんでもないです。
乾杯のあとは、間髪入れずに商談が始まった。
口火を切ったのは、言うまでもなく、レイチェル女史だ。
「レンバッハ軍曹っていう名前の工作員、知ってる?
ちょっと前にウチで殺されたんだけど、理論上はあなたの部下なのよ。
やろうと思えば公式に非難声明を出せるくらいには、証拠がある」
レイチェル女史の言葉を聞いた僕は、思わずシャンパンを吹き出しそうになった。
とびっきりの機密を、よりによってヴージェ陸軍准将の前で暴露したのだから、当然だと思う。
でも彼女の発言に驚いたのは、僕だけだった。
「そっちの外事3課に潜ってるウチの職員から概要は聞いてるけど、レンバッハっていう部下はいないね。もちろん偽名どうこうという話じゃなくて、ね。
念のため、その『レンバッハ軍曹』について、君が掴んでる情報をもらえるかな?」
……いやそれ、我が軍の機密ですよ!?
あと、その外事3課にいるスパイが誰か、今すぐ教えてもらえません!?
「レンバッハ軍曹は兵站部勤務で、訓練教官のポジションだった。
暗号に〈カトル〉を使ってたし、記録を読む限りで言えば思考誘導に独特の癖がある。要するに、あなたの超劣化版よ」
だからそれって我が軍の機密です!
というか、報告書にまったく書かれていない情報が急にたくさん出てきたんですが!
「弱ったね。こいつは大いに弱った。
兵站部に対して内通者を確保するというのは、僕らとしても最重要課題の1つだ。だから僕が直接作戦を動かしてるし、潜入エージェントも僕が鍛えてる。
なのに僕は、レンバッハ軍曹って人物のことを、何一つ知らないんだよねえ。
なるほど。君が僕なんかと踊ってくれた理由が、よく分かったよ」
……ええと?
「分かってもらえたみたいで嬉しいわ。
じゃあ、ヴージェ共和国陸軍諜報部長殿にご提案があるんだけど。
私たちを雇ってみない? 特別に、日当は『ちゃんとしたランチとディナー』で我慢してあげる。朝はコーヒーとクロワッサンだけでいいわよ」
……へ?
「いいよ、雇おう。でも3日後の1800までだ。
そこを越えたら、僕もいろいろ手仕舞いしなきゃいけないんでね」
いや待った、僕は帝国軍人であって……
「その条件で結構。明日の0900にはそっちに出頭する。
ああ、階級章とか認識票はいらないから。この子が死体になったときに、そんなものがポケットに入ってたら大惨事よ」
えぇ……。




