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月の猟犬  作者: ふじやま
3rd episode:Oridnary Men
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Ordinary Men(2-3)

 翌日1245時、僕はレイチェル女史に指定された建物の前に立っていた。

 その建物はどこにでもあるような集合住宅で、とてもではないがレイチェル女史がこんなところに住んでいるとは思えない。

 いぶかしく思いながら少し待っていると、街路の反対側にレイチェル女史が姿を現わした。軽く手を上げて挨拶。しかるにレイチェル女史に促されて集合住宅の4階まで階段で上がり、402と書かれた扉の前に立った。4階にあるのはこの402号室と、隣の401号室だけのようだ。といってもこの建物自体がかなり細長いので、どちらも部屋としては相当狭いと思ったほうがいい。


 でも、扉の鍵を開けたレイチェル女史に室内へと招かれた僕は、思わず呆然と立ち尽くすことになった。


 衣装。衣装。衣装。壁に衣装。棚に衣装。廊下に衣装。そして溢れかえるような数の靴とバッグと帽子。

 クラシックなドレスや最新のモードはもちろん、各種軍服、女性用のスーツ、男物のスーツやタキシード、いろいろな種類のコートと、膨大な量の衣装が402号室には詰め込まれていた。


 けれど僕の思考を完全に停止させたのは、質量ある色彩の洪水のごとき衣装の群れではなかった。

 レイチェル女史は玄関先で僕の顔をまじまじと見ると、こう言ったのだ。


「少尉。ダンスの経験は?」


          ■


 それから5時間後。ベラ嬢が運転する車が、レイチェル女史の衣装部屋がある集合住宅の前に止まった。

 この5時間、僕が何をしていたかというと、もちろんダンスの特訓――ではなく、僕に似合うタキシード探しと小さな手直しの手伝い、それから共和国流の「エスコート」のマナー学習&練習会だ。なんでも今日の20時から潜入する先は、「ちゃんとした男性の同伴」が必須らしい。なんだそれ。


 ともあれ。

 「先に車で待っていなさい」と命じられた僕は、あからさまに不機嫌なベラ嬢と一緒に車の中でレイチェル女史を待つことになった。だが5分待っても10分待ってもレイチェル女史は出て来ない。何かトラブルでも起こったのだろうか?


「少尉がとんでもなくマヌケな顔してるから念のために忠告するけど、レイチェルはいま身支度してるの。5分や10分で終わるわけないじゃん。バッカじゃないの」


 ……なるほど。


「あーあ……もう信じらんない。

 ねえ、少尉って童貞でしょ?」


 ……は?


「女の身支度にどれくらい時間がかかるかも知らない段階でバレバレだよ。

 そりゃあ、あたしらはその気になれば1分かからず身支度できるよ? でも、それと、これとは、別の話だからね? 顔の反射面に泥を塗りたくるのと、ちゃんと化粧をするのは、全然違うからね? 知ってた?」


 ……


「やだやだ。ほんとウンザリ。お姉ちゃんもそういうところ、本当にデリカシーがないんだよね。あの人、素材が最高にいいじゃん? それに眼力がすっごいからさあ、スッピンでも超カッコイイ戦士! って感じなんだよね。それに比べてあたしなんかさ、子供の頃から一番良くても『可愛いねえ』しか言われたことないもん」


 ベラ嬢はハンドルにもたれかかりながら、奔流のように愚痴を垂れ流した。

 僕は僕で、彼女と初めて会ったときは内気で無口な女性だなと感じたことを、漠然と思い返していた。わりと人見知りの強い彼女にここまで信用されるに至ったのは、嬉しいといえば嬉しい。うん。嬉しい。でもベラ嬢の言葉を借りれば、それと、これとは……。


「だからさあ、お姉ちゃんはいつも話が急なんだよ。休暇の日なんかもさ、お昼すぎくらいに突然『今日はちょっと良いレストランでランチにしよう!』とか言い出して、そのまま家を出ようとするの。そりゃお姉ちゃんはいいよ? でも、あたしはそういうわけにいかないんだよね。最低限のお化粧して、服も靴もバッグもそれなりのを見繕わないと、お姉ちゃんと並んで歩くの恥ずかしすぎるもん。でもお姉ちゃんってああ見えて意外とせっかちだからさ。あたしを押し倒すときも、9割方いきなりだし。任務のときはあんなにいつまでも待てるってのに、ほんとなんなんだろ」


 あれだ。これは、実に、辛い。本人的には愚痴なんだろうけど、延々とのろけを聞かされているというのが実態だ。これで姉妹喧嘩の真っ最中だというのだから何をどう評価していいのか分からないけれど、たぶん最も適切な言葉は「お腹いっぱい」だと思う。


 それからも濁流のように続くのろけ話を58分ほど聞いたところで、集合住宅の扉が開いた。出てきたのは、まさに「はっとするような美女」という言葉が相応しい女性――レイチェル女史だ。

 白い薄手のコートを着て、ベージュの帽子を被った彼女は、どうしても視線がそちらに向いてしまうくらいに美しかった。無理矢理視線を引き剥がしてベラ嬢を見ると、彼女の視線もレイチェル女史に釘付けだ。トリーシャ嬢がこの場にいたら、新たな喧嘩の火種になるんじゃないかと思うくらいに。


 でもそんな無粋なことが脳裏によぎったせいで、僕は自分が何をすべきかを思い出した。これは一種のテストだ。


 僕は慌てすぎないよう、でも素早く車を降りると、レイチェル女史の元へと歩み寄った。それから、散々に罵声を浴びながら仕込まれた作法どおりに、彼女に手を伸ばす。レイチェル女史は「ギリギリ及第点」と言うと、僕の手を取った。


          ■


 ベラ嬢が運転する車は驚くほどスムーズに走り、やがて劇場へとたどり着いた。ここでは今日は確か……そう、ヴージェ共和国が主催するパーティが開かれているはずだ。

 このパーティは、プログラム的には「舞踏会」とでも呼ぶべきものになっていると聞いているが、これはただの懐古趣味ではなく、「200年前の舞踏会を現代流に再解釈する」という挑戦を共和国と帝国の芸術家や学者たちが協力して実現したものらしい。なるほど、まるでわからない。


 とはいえこの場に僕を連れてくるにあたり、レイチェル女史が僕に「共和国流のマナー」を徹底して叩き込んだ理由なら、漠然と理解できる。会場に入るにあたってボディチェックをされたり、受付で招待状を見せたり、その間も周囲を行き交う紳士淑女の群れが離散集合するのを見たりしているうち、なんとなく分かってきた。


 レイチェル女史は、このパーティで何かとんでもないことをする自信があるのだろう。

 けれどそのためには、前段階としてクリアすべきことがある――この手の場所で何らかの勝負するためには、まずは他の参加者から「人間」として認識されねばならないのだ。

 そしてそのためには、招待状を持っているとか、まばゆい宝石を身につけているとか、別荘が購入できるクラスの時計を持っているとか、そんなことでは駄目だ。

 なぜならそれは、この場にいる全員が持っているものだから。


 この場でまず問われるのは、その人間にはこの場にいる資格があるか否か。言い換えれば、この場における「普通の人間」であるかどうかだ。どんなに規格外の才能や財産を持っていようが、それだけでは駄目だ。ここでまず要求されるのは、貴族社会のスタンダードと比較して「大きく欠けた能力がない」ことなのだから。


 レイチェル女史が僕を選んだのは、この場に女性が来るためには男性のエスコートが必要(=それが普通)だからであり、かつ僕が平凡な人間だからだ。

 完璧に着飾ったレイチェル女史はとんでもない美女だが、それでも「美女」という言葉で説明しきれる範囲にあるし、おそらくは意識的にそのレベルに抑えている。ここでさらに僕を横に従えていれば、間違いなく「若い軍人の恋人(ツバメ)を連れた美女」くらいの範疇に収まるはずだ。印象的だが、過度に目立たず、場の秩序も乱さない。まさにこの場が求める「普通さ」にピッタリ。


 ならば、僕に期待されている役割も分かりやすい。要するに僕は、適度に気が利かず、適度に自信過剰で(こんな美女が隣にいて自信過剰にならなかったら異常だ!)、適度にイモっぽい、どこにでもいる平凡な、それでいて過度に礼を失したりしない、若い男であればいい。つまり普段の僕だ。

 レイチェル女史も僕がそのように振る舞うことに納得しているようで、会場を歩きながら小声で「なかなかやるじゃない」と評価してもらえた……あれ? 評価? 酷評? これってどっちなんだ?


 ま、まあ、いい。いいとしよう。


 いま考えるべき問題は、このままでは何の意味もないということだ。


 この場は最高級の社交の場だが、レイチェル女史は自分から立ち話の輪に入っていこうとしないし、話しかけられても上品に断っている。つまり情報収集もできていなければ、誰かとコンタクトを取ることもできていない。何をするにしたって、そろそろ「ただ会場をフラフラしている」だけでは不味いのではないだろうか?


 そんな焦りは、実に簡単に吹っ飛んだ。


 それまで室内楽を演奏していた楽隊が退場すると、燕尾服を着た指揮者が姿を見せた。会場の誰もが会話を止め、盛大な拍手をする。指揮者は一例すると、オーケストラピットへと消えていった。

 それにあわせるように、会場の人々が動き始める。僕はどうしていいのか分からずオロオロするばかり。

 でもレイチェル女史はそんな僕に向かって「そこの壁で待ってなさい」と告げると、それまで羽織っていた薄手のコートをするりと脱いで僕に押しつけ、ホールを一直線に進んだ。

 ホールにはたくさんの人がいたけれど、レイチェル女史には人波をかき分ける必要などなかった。彼女に道を譲るように、自然と人垣が割れたから。


 颯爽と歩くレイチェル女史の先には、ヴージェ共和国の軍服(あれは第一礼装だ)を着た、ハンサムな男がいた。40代……いや、50代だろうか? よく鍛えられた細身の体ながら、髪には白いものが目立つ。

 その男はレイチェル女史の顔を見て、はっきりと苦笑してから、こう言った。


「一曲お相手願えますかな、マドモワゼル?」


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