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月の猟犬  作者: ふじやま
1st episode:Das Wunderkind Is Still Under Studying
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Das Wunderkind Is Still Under Studying(1-3)

 案内された個室は、店内に比べると随分とマシな空間だった。もっとも店のほうはこの世の地獄と隣接しているような場所なので、そこよりマシだからといって、まともな空間だとは言い難い。ともあれ鼻を汚染しそうな臭いはだいぶ重みを減らしているし、調度の類はわりと上等なものになっている。さっきのソファに座るのは軍令でもなければ御免被りたいが、この部屋のソファなら、まあ、ギリギリ我慢できる。

 しかるにそんな部屋の奥に座っていたのは、真っ黒なケープとフードで上半身と表情を隠した、おそらくは女性だ。痩せた男に見えなくもないが、それにしては体の線が柔らかすぎる。


 そんなことを漠然と考えていた僕は、フードの女性が発した声に、心底驚愕する。


「フント・デス・モナーツにようこそ、エーデシュ少尉。

 私が脚本家(プレイライト)・シュネーだ。

 シュネーと呼んでいただいて結構」


 言葉遣いは、ぞんざいそのもの。とてもではないが敬意など微塵も感じられない。

 だがその声は、人間の声とは思えなかった。

 もし天使の歌声を生きたまま耳にできるなら、それはきっと彼女のような声だろう。

 帝国歌劇場のプリマドンナですら、彼女の声には及ぶまい。


 僕が彼女の声に呑まれていることを知ってか知らずか(今にして思えば「知って」以外にあり得ないのだが)、シュネーと名乗った彼女は右手を差し出し、僕に着席を促した。

 ほとんど催眠術にかかったかのように、僕は煤けたソファに腰を下ろす。


「それで、クラマー中佐はフント・デス・モナーツに何をお望みか?

 口頭での連絡なら、報告を。

 書面での連絡なら、この場で拝領しよう」


 ヤバイ。

 これは、おそろしく、ヤバイ。


 彼女の声は、麻薬だ。

 彼女の声を聞いているだけで、僕の脳から急激に語彙力とまっとうな判断力が失われていくのを感じる。


 だが帝国軍人たるもの、軍務を放棄することはできない。

 こればかりは軍人の家系たるエーデシュ家が代々受け継ぎ、僕の魂にも刻み込まれた、鉄の掟。何が何でも守るべき、最後の一線。

 その思いが、僕の脳を桃源郷から引き戻した。


 咳払いしてから、伝書筒を取り出す。

 19世紀頃から軍で使われ続けている、機密書類を運ぶために作られた、特別製の筒。規定の手続きに従って開封しないと、筒ごと中の文章が焼却される。もちろんそのときは、伝書筒を持っている人間も無事ではいられない。


 そんな危険物を、僕はシュネー嬢に恭しく手渡した。

 シュネー嬢は何の緊張も見せずに伝書筒を受け取ると、あっさりと解錠する。これだけでも、シュネーを自称する彼女がただ者ではないことが、改めて証明された。彼女は伝書筒に割り振られた暗証番号(毎週変更される)を、知る立場にあるのだ。


「すぐに読む。5分、時間がほしい。

 ああそうだ、レイチェル! レイチェル!

 起きていたら、エーデシュ少尉にお茶を!

 私のぶんは不要だ」


 そんなことを言いながら、シュネー嬢は素早く書面に目を通していく。

 レイチェルというのは初めて聞く名前だが、フント・デス・モナーツのメンバーなのだろうか。あるいはお茶を頼むあたり、お手伝いさんなのかもしれない。


 きっかり5分後、シュネー嬢は書類を丸めると卓上のライターを手に取り、書類に火をつけた。やけに大きな灰皿の上に置かれた書類は、あっという間に灰になっていく。読後焼却、ということか。

 燃える書類に目を奪われていると、背後でドアが開く音がした。

 上品なドレスに身を包んだグラマラスな美女が、お盆の上にティーカップを乗せて入ってくる。察するに、彼女がレイチェル女史か。


「もう起きていたか。

 ありがとう、レイチェル」


 シュネー嬢がレイチェル女史を労うと、レイチェル女史は妖艶としか言いようがない笑顔を見せて「どういたしまして」と優雅に一礼する。それから彼女は僕の前にティーカップを置くと、踵を返して個室を去っていった。

 レイチェル女史もまた、こんな場末にはまるでふさわしくない、規格外の美女だ。あの妖しい魅力は「いかにも」という雰囲気もあるが、商売女にありがちな下品さがまるで見受けられない。

 隣国であるヴージェ共和国には伝統的に高級娼婦という職業があり、先の大戦に敗れたレインラント帝国の宴席にもしばしば彼女らの姿が見られるようになったが、レイチェル女史はそこらの高級娼婦が裸で逃げ出すほどの色気と気品、そして才知のきらめきを兼ね備えている。


 そうこうするうち、灰皿の上の書類が燃え尽きた。

 僕は供されたお茶に口をつける。予想はしていたが、茶葉は超高級品だし、淹れ方も最高級のレストラン並。


 そうやってだんだん感覚が麻痺してきた僕を前に、シュネー嬢は、僕がまったく予想していなかった言葉を口にした。


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