1.豪華な檻の中で
どこからか遠吠えが聞こえてくる。
朝を告げる小鳥たちの囀りに混じって、おどろおどろしい獣の歌が耳まで届く。
それを聞いていると、不思議なくらい悲しい気持ちになってしまう。
けれど、夢から覚めたばかりの私の頭では、それが何故なのか、すぐには理解できなかった。
──アンバー。
その名前が浮かんでやっと、私は思い出した。
ああそうだ。
かつての恋人の声に似ているからだと。
気怠さを堪えて身を起こすと、冷えた空気が肌に沁みた。
正確には全身の傷に。
昨晩、新たにつけられた傷と、その手当てに使われた消毒液がまだ沁みている。
少しでも温まりたいと毛布を手繰り寄せ、正面を見つめた。
カーテンの隙間から、白い朝日が差し込んでいる。
その先に広がるのは美しいベランダだ。
だが、外に出ることは出来ない。
窓を開けてくれる主人がいなくては、私はここで何も出来ないのだ。
ここは檻だ。
けれど、虜囚が入れられるような惨い檻ではない。
少なくとも、ここで暮らし始めてからは、食事も衣服も与えられている。
体を清潔に保つことも出来ている。
拷問のような仕打ちはあるけれど、殺されるようなことは今のところない。
それも、今だけだと分かっていても、私にはもう逃げる気にもなれなかった。
少しだけ体が温まり、私はようやくベッドから下りる気になった。
素足を柔らかく受け止めてくれるルームシューズを履いて、すぐに向かうのはカーテンのもとだった。
勢いよく開くと、テラスに集まっていた小鳥たちが驚いて逃げていった。
彼らを追うように窓へと手をかけ、小さく息を吐いた。
鍵がかかっている。
「……参ったな」
少し前までの私ならば、こんな鍵も壊せただろう。
武器を取り上げられても、壊そうと足掻いただろうし、そのための知恵だって絞れたはずだ。
けれど、今は何も分からない。
振り返り、与えられた部屋を見渡しても、何も浮かんでこなかった。
どうしても、本気で逃げ出そうという気になれないのだ。
その場に座り込み、私は膝を抱えた。
夜中に手当てをされた場所に腕が当たり、微かに痛む。
と同時に、思い出してしまうのは、私の本来の主人ルージュへの愛欲だった。
ここは月光の城。
本当ならばルージュを仕留めるために来るはずだった場所だ。
まんまと罠にはめられた今は、私を養う檻となっている。
ここでしばらく暮らし、良い家畜に仕上がったら人食いの暮らす城に運ばれていくらしい。
その先で待っている未来だって私には分かっている。
それなのに、抵抗する気にすらなれないなんて。
太陽を隠していた雲が流れたのか、暖かな日差しが背中に当たり始めた。
その温もりに心身を預けていると、再び遠くから声が聞こえてきた。
犬か、狼か。
他の場所ならば、野犬という可能性もある。
けれど、場所が場所だ。
人狼たちの村からそう離れてはいない。
──アンバー。今頃どうしているかな。
これでよかったのだという結論が、今は私を支配している。
それでも、後悔はたくさんあった。
その一つが、最後に喧嘩をしたままだったことだ。
仲直りすら出来ずに別れてしまった。
これが最後だと思うとあまりに辛い。
けれど、どうしようもなかった。
「ごめんね……アンバー」
膝を抱え、私は意味のない謝罪を繰り返していた。
アンバーは今も危険な状態にいる。
この城に招かれている猟犬──ドッゲが、昼夜問わず目を光らせているからだ。
私には彼を止められない。
この城に招かれているということしか分からない。
開くことのない窓から、もう私が持つこともないだろう馴染みの武器を背負い、森へ入っていくその背中を見たくらいだ。
夕暮れ時、彼が再び現れるだろう森の方角を眺めるたびに、私は恐怖を覚えていた。
森から戻ってきた彼が、鹿やただの狼ではなく、見覚えのある月毛の雌狼の亡骸を抱えてこないかと心配になるせいだ。
そんな私の怯えをルージュは分かっている。
だから、彼女は私の様子を見に来るたびに、ドッゲの様子をわざわざ伝えてくるのだ。
──彼はもう知っているわ。大金を生む毛皮の持ち主の事を。
今の私には、祈る事しか出来ない。
どうしようもない無力感に苛まれていると、不意に部屋をノックする音が聞こえてきた。
こちらが何も言わずとも、外から施錠は解かれ、来訪者は入室する。
現れたのは、見るからに生きた人間ではない使用人の女性だった。
目はガラス玉、髪は作り物。
顔色は青白く、皮膚と皮膚が丁寧に縫合されている。
動きもぎこちなく、意思を持って動いていること自体が嘘のよう。
けれど、確かに彼女は自分の意思で活動している。
若い女性の死体で出来た使用人だ。
身元は分からないが、生前はブロンドの髪と濃い青の目を持っていたのかもしれない。
「おはようございます、カッライス様。本日のお召替えをお持ちしました。朝食も間もなく運んで参ります」
淡々とした声もまた、生前のものと同じなのかもしれない。
きっと正式な名前だってあっただろう。
けれど、私はその名を知らなかった。
ただ、ルージュにはベイビーと呼ばれていることは知っている。
ベイビーは着替えをベッドの上に置くと、やはり、ぎこちない動きで私の方へと首を向けた。
「今朝はとてもいい天気です。ルージュ様のご機嫌次第では、テラスに出していただけるかもしれませんよ」
声の調子は友好的だ。
初めて会った時からそれは変わらない。
表情の変わらぬ継ぎ接ぎされた顔と、ガラス玉の目で、彼女は私に寄り添おうとしてくる。
まるで、普通のメイドのように。
「ねえ、ベイビー」
立ち上がる事もなく、私は彼女に話しかけた。
「君はいつからここにいるの。生きていた頃は、なんていう名前だったの」
彼女は無言のまま私を見つめてきた。
表情は全く変わらない。
だが、困っているらしいことは伝わってきた。
「ベイビーを困らせないであげて」
と、そこへ割り込んできたのが、いつの間にか部屋の入り口にいたルージュだった。
恐る恐る視線を向けると、途端にその姿に目が眩む。
今日も彼女は美しい。否定しようがない事実だった。
昨晩見た時と何も変わらぬ美しさのまま、彼女はこちらへやって来る。
そして、葡萄酒色の目をベイビーへと向けて、穏やかに告げた。
「後は任せて。お前は食事を運んできなさい」
ベイビーは丁寧にお辞儀をすると、そのまま退室していった。
その背を優しく見守ってから、ルージュは私に話しかけてきた。
「あの子はもう昔の事なんて覚えていないの。脳は取り出してしまったもの。食べられる部分は全て、食品に加工済みよ。ハニーへの手土産にするためにね。だからあの子はもう人間じゃないの。でも、まるでまだ生きているかのように良く出来ているでしょう?」
「……どんな人だったの?」
力なく問いかけると、ルージュはこちらに視線を戻した。
屈みもせず、見下ろすような格好で、彼女は言った。
「分かりやすく言うならば、自殺志願者よ。きっと助けてくれる人間なんてどこにもいなかったのでしょうね。森の中で死にたがっているところに出会ったから、そのまま攫ってきたの。即死はさせず、何日かに分けて血を吸って、少しずつ殺していった。けれど、本当に死にたかったのでしょうね。痛みに悶えつつ、命乞いの一つもしなかった」
「酷い話だ」
静かにそう言うと、ルージュはようやく私の前にしゃがみ、目を合わせてきた。
「そうかしら。少なくとも、彼女がそうなるまで追い込んだ人たちよりはマシだと信じているわ。あの子は世間に捨てられた。いなくなっても捜しに来る人すらいない。厄介払いができたとしか思われていないの。ねえ、可哀想でしょう?」
「そんな可哀想な人を君は殺したんだね」
言い返す私の頬に、ルージュは冷たいその手を添えてきた。
「望みを叶えてあげただけよ。利害が一致したから」
薄っすらと微笑むその顔と目を合わせられて、私はぞっとしてしまった。
──なんて綺麗なんだろう。
目を合わせたが最後、逆らう事なんて出来ない。
見つめられているだけで、心が懐柔されていく。
そして唇を軽く奪われてしまえば、私はすっかり良く懐いた飼い犬のようになってしまった。
口を放すと、ルージュは言った。
「さあ、そろそろ着替えましょう」




