13.天才を守護する者
いよいよ来る。覚悟していた通りの展開だ。なるべく静かに、騒ぎを大きくせずに済ませたいところだが、どうだろう。
ヴィオラは人間ではない。吸血妖精なのだろう。相手にするのは初めてだが、強い相手というわけでもない。蜉蝣のような、幽鬼のような存在。けれど、だからこそ苦戦してしまう事もある。
「動くな」
近寄ってくる彼女に銃を向けると、ヴィオラは怪しく笑って見せた。
「どうぞ、撃てばいい。ですが、カッライスさん。まだ聞いていませんでしたね。私がやったという証拠はあるのでしょうか」
「ない。だから、これは賭けだ。君を撃ち、人間であれば罪を償おう」
「なるほど、そうはいっても疑ってはいないよう。であれば、申し開きは不可能ですね」
直後、ヴィオラはあっさりと動いた。銃を恐れていない。その理由を考えるよりも先に、身体は反射的に動いた。耳を劈く破裂音が響き渡る。間違いなく、別室にいるモリオンやオーバードにも聞こえているだろう。狙いは逸れていない。弾は真っ直ぐ彼女の心臓を狙っていく。けれど、実際に傷がついたのは彼女の背後にある壁だった。
「……当たらない」
一瞬だけ動揺を見せてしまったその隙に、ヴィオラは突風のように迫ってきた。あっという間に捕まえられ、冷ややかな眼差しと異様に冷たいその手に掴みかかられる。その前に、私はナイフを抜いた。だが、彼女を傷つけることは出来なかった。
「無駄ですよ」
ヴィオラはそう言うと、とうとう私の手を握り締めた。掴んでくるその力は強いのに、私からの攻撃は全て当たらない。焦ったせいだろう。揉み合っているうちに、ヴィオラにナイフを奪われた。そして──。
「勝負ありましたね。どうやら私たちの事を深く知っているわけではなかったようで」
「く……っ」
私はあっさりと切りつけられてしまった。すぐに庇った手を深く切られ、血が垂れていく。塗られた毒で私は死なない。けれど、激しい痛みに苛まれた。
「ぐ……あっ──」
耐え切れずに膝をつく私の髪を、ヴィオラは掴み上げた。
絶体絶命と言うべきかもしれない。
吸血妖精は、か弱い生き物だ。けれど、か弱いからこそ特殊な能力も身に着けているという。
その一つが、透過。空腹状態であれば、彼女たちは幽霊のように透けることが出来るという。腕力に長けるわけでも、魔力に富むわけでもないからこその能力だ。
彼女たちは強くない。だが、忘れてはならない。その強くないというのは飽く迄も魔物の中での話。私たち人間は、ごく簡単に彼らの餌食になってしまうのだ。
「は、放せ……」
どうにか訴えると、ヴィオラは冷たい眼差しをこちらに向けてきた。
「可哀想に。自力では立ち上がることすらできないのね。そうでしょう。あなたからの暴力は一切受け付けませんもの。分かっております。これが人間の非力さなのだと」
彼女はそう言うと、どこか恍惚とした様子で語り続けた。
「これまで何人もの魔物を屠ってきたのよね。今度はあなたが屠られる番ですよ、狩人さん。コルネットが興味を持ったあなたの血──人狼にも吸血鬼にも愛されるあなたの血を全ていただきましょう。そして、その血はオーバードのために……彼の作る美しい芸術をより高めるための力へ」
「──これまでも……そうやって人々を襲ってきたのか……。オーバードに……力を貸すために……彼と……手を組んでいたのか?」
私の問いに、ヴィオラは厳しく目を光らせてくる。
「いいえ、オーバードは何も知らないわ。彼の音楽に欠かせない、アリアもね。ついでに言えば、コルネットもそうよ。あの子はただ生きるために狩りをしていただけ。オーバードに惚れて、勝手に才能を高めたのは私だけの願いによるもの。彼の世界を目撃し続けるためには、よりよい生贄が必要なの。そう、彼の為には──」
凍り付くような声で、彼女はそう言った。
もう終わりだ。私に出来る事は、これ以上、何もない。オーバードも、モリオンも、ここへ踏み込んでくる様子がない。この場はすでに、ヴィオラの怪しい力に支配されてしまっているのかもしれない。ここはすでに屠殺場となっているのかもしれない。
ヴィオラが音もなくしゃがむ。そして、その口が首筋に触れた。ルージュの噛み傷のある場所──アンバーによく噛まれる場所だ。そこに牙が食い込んだ瞬間、私の心は恐怖で満たされた。
血を吸われる事。そこで生まれるのは、やがてもたらせる死への恐怖ではない。裏切りへの恐怖。この傷を最初に作ったルージュが、ヴィオラを激しく拒んでいる。その殺気が肌に伝わり、じわじわと思考を蝕まれていった。
このまま私は死ぬのか。いいや、そうではない。こうなる事もある程度は見越していたのだ。忘れてはならない。まだ、奥の手がある。禁じ手にも近い奥の手が。
「……ルージュ」
薄れゆく意識の中で、私はその名を口にした。
「お願い……来て」
その直後だった。ヴィオラが口を放した。その目が見開かれ、私の背後へと向く。ぼんやりとした意識の中、私はふと背中を誰かに支えられていることに気づいた。私の体を支えながら、その人物はヴィオラの頬に手を添えている。
「お味はいかが、ヴィオラ?」
その声を聴いた瞬間、私は寒気を感じた。
ルージュだ。音もなく現れた。一体何処から。私の影だろうか。ともあれ、幻でも何でもなく、彼女はここにいた。ヴィオラは目を丸くしている。
さすがにルージュの事は怖いのだろうか。だが、すぐに我に返ると、立ち上がり、私たちから慌てて距離を置いた。
「出たな。コルネットの仇……!」
私から奪ったナイフを手に構えるも、ルージュは動じなかった。
彼女が見ているのは私だった。首筋から今も流れ続ける血を見ている。このまま放っておけば、私は死ぬだろう。静かに悟っていると、ルージュは私に囁いてきた。
「安心なさい、カッライス。あなたはまだ死なない」
そして、彼女は私の傷に口づけをし、ナイフで切られた手を強く握ってきた。ぴりっとした痛みが生じ、声が漏れた。そんな私をぎゅっと支え、ルージュは軽く血を吸った。再び彼女が唇を離すと、不思議と痛みが引いた。手の方もだ。血が止まっている。意識は相変わらず朦朧としていたが、苦しみはだいぶ減った。
ルージュが支えるのを止めると、そのまま床へ倒れることしか出来なかった。起き上がることはできない。そんな状況の中、ルージュは躊躇いもなく私の手に握られていた銃を奪い取った。
「く……来るな」
と、ヴィオラが敵意を示したその直後、銃声が響いた。
全く隙を見せず、発砲した。私の視界の中で、どさりと倒れるのはヴィオラだ。容赦なく額を撃ち抜かれたらしい。どくどくと血が流れている。
「透過出来るのは空腹のときだけ、だったわね」
ルージュは静かにそう言うと、私のもとへと戻ってきた。
「好い様ね、カッライス。私を殺すのだと粋がっておいて、その私に助けられるなんて」
言い返すこともできず黙っていると、ルージュは私の目を覗き込んできた。
「このままあなたを連れ帰ってやりたいところだけれど、それには少々、面倒が多すぎる。だから、今は約束だけ取り決めておきましょう。よく聞いて、カッライス。そう遠くない未来、あなたは私のもとへと戻ってくることになる。それまでの限られた時間を大切に。今のうちに、あの狼と愛し合っておくことね」
吐き捨てるようにそう言ってから、ルージュは手に持っていた銃を私に握らせた。
「ヴィオラはあなたが討ち取った。相討ちに近い形でね。そういうことになさい」
そして、彼女の姿が消えたその直後、大きな物音と共に応接室の扉がうち破られた。
「ヴィオラ!」
「カッライス?」
同時に聞こえてきたのは、オーバードとモリオンの声だった。慌てたように彼らは入ってくる。倒れている私のもとへ、モリオンは真っ直ぐ来た。そして、恐る恐る私の体に触れてきた。
「……生きているな?」
「──ああ、生きているよ」
「よかった。君に死なれたら、どこぞの狼に腸を食い破られるところだった」
冗談交じりの彼に、笑い返すことも億劫だった。代わりに私は倒れたまま動かないヴィオラへと視線を向けていた。
オーバードが彼女を見ている。青ざめた顔で、彼女をじっと見つめている。絶命していることは一瞬で分かるだろう。そして、何故、こうなったのかも、理解しているだろう。
だが、彼は茫然としていた。茫然としたまま、ただただその名を寂しそうに呟いた。
「ヴィオラ……」
別れを認めたくないと願っているかのような彼の悲痛な声が、私の心に深く刺さった。




