2.天才作曲家の秘書
良い音楽というものは、さほどそれに興味ない者にとっても、良い酒と同じくらい食が進むものなのだろうか。
朝から肉料理をたらふく食べるアンバーの姿を眺め、私はそんな事を思いながら静かにナイフとフォークを動かしていた。
常に肉が足りない彼女とは違って、私の皿は流石に同じものではない。
ジャムを塗ったパンに、美味しい珈琲さえあれば十分だ。
けれど、そんな私の朝食メニューに対し、アンバーはケチをつけてきた。
「おいおい、そんだけでいいのか?」
「十分だよ。君と私は違うの」
「だとしてもさぁ、せめて魚くらいは食った方がいいんじゃない? こんだけ広い劇場なんだ。何階建てって言ったっけ。しかも、地下もめちゃくちゃ広いみたいだし」
「その端々を意味もなく歩くわけじゃないからね。それに、あまり食べすぎると逆効果だ。私の胃袋は、君のようにデカくないんだ」
つっけんどんな態度になってしまうのには理由がある。
他ならぬアンバーのせいだ。
劇場の隅々を案内されたあの後、最後に通されたのは、劇場に併設されている宿舎の、この度の私たちが泊まる事となる小部屋だった。
綺麗にしてあったが非常に狭い。
小さな部屋にそれなりの大きさのベッドが二つ。
普段は使われていないようだが、恐らく本当は一人部屋なのだろう。
──すみませんねえ、本当は二部屋用意しておくべきだったのですが、生憎、この部屋しか空きがなくってですねぇ……。
宿舎の管理人がペコペコしながら教えてくれたのは、この部屋の歴史だった。
ここには田舎から夢を見てやってきた双子の姉妹がいたらしい。
だが、その片割れが舞台上で事故死して以来、もう片割れがおかしくなってしまい、最後には行方知れずとなってしまった。
それ以来、この部屋では不吉なことが起こるのだとか。
何故、そんな話をわざわざ就寝前に。
そんな文句も初対面の彼に言う事は出来ず、結局モヤモヤした気持ちを抱えたまま、私は眠ろうとした……のだが、その怪談を利用して、アンバーは私のベッドに潜り込み、何度も脅してきたのだ。
あっさりと不安がる私の反応を楽しんでいたのだろう。
お陰で落ち着いて眠る事も出来ず、今に至る。
ぶっ倒れないといいのだが。
祈願をかねて、私は珈琲を口にした。
さて、そんな私たちの様子を見て、そっと笑みを漏らす人物が一人。
共に朝食のテーブルに着く彼女もまた、この度の依頼に深く関わる劇場関係者だった。
名前はヴィオラ。
紅葉した落ち葉の色に近い茶髪を束ね、菫色の目を黒い縁取りの眼鏡で隠す知的な印象の彼女は、天才作曲家オーバードの秘書であった。
この度の脅迫について、彼の婚約者でもある歌姫アリアを警備するにあたり、必要な情報を交換するために朝食を共にしていたのだ。
「失礼しました。お二人はとても仲が宜しいのですね」
仲が宜しい。
真っ直ぐそう言われ、何となく気まずくなってしまった。
誤魔化しがてら私は咳払いをして、彼女に話を振った。
「……それはそうと、ヴィオラさんオススメの珈琲のお陰もあって、だいぶ目も覚めてきました。よろしければ、本題に移りましょうか」
小声でそっと切り出すと、彼女もまた落ち着いた様子で頷き、語りだした。
「まず初めに、劇場に届いた脅迫文の話から致しましょう。私からすれば、子供染みた嫌がらせにしか思えませんが、手紙は口紅で書かれておりました。内容をまとめますと、『オーバードの新作に歌姫アリアの声は響かない。何故なら、私がその血を残らず頂くから』とのこと」
「その手紙に……名前は?」
「書かれておりませんでした。けれど、この話が広まるなり、『赤い口紅に血を奪うという強迫……これはきっとルージュの仕業に違いない』と騒ぎ立てる者が劇場内で現れまして、そのためにアリアもすっかり参ってしまっているのです」
「なるほどねぇ」
溜息を吐くヴィオラを見つめ、アンバーはそっと首を傾げた。
「念のために確認させていただきますが、今のところ脅迫文が届いただけですか? 何か、怪しい影なんかを目撃した者は?」
アンバーが訊ねると、ヴィオラは困った表情で答えた。
「それはもう、たくさん。ですが、そのうちのどれくらいが信じるに値する話なのか分からないんですよ」
「……と言いますと?」
「ヒステリーですよ」
私が問うと、ヴィオラは短く答えて軽く息を吐いた。
眼鏡越しにその目が伏せられるのが見える。
どうやらそれだけ頭を悩ませる事態であるらしい。
「実際にルージュという吸血鬼の話は有名ですし、怪談というものを本気で怖がる人はたくさんいます。そんな中でこんな事が起きて、ちょっとした物音や見間違いに過敏になって、若い踊り手なんかが騒ぎ立てるのです。それを面白がってふざけるいい年の大人なんかもいて、すっかり困っているんです」
そう言った類の問題が、ちょっとやそっとの注意で解決するはずもない。
ヴィオラの表情を見ていれば、それがどれだけ深刻で、厄介な事なのかが良く分かった。
「まあつまり、実際にルージュが劇場内に潜んでいるのかどうかさえも、はっきりと分からないという事ですね」
アンバーはそう言うと、ヴィオラに改めて訊ねた。
「ちなみに、ヴィオラさんはどうなんです? 劇場内でおかしなことに遭遇したことはありましたか?」
「私は……そうですね。気のせいだとは思うのですが、ありました」
思わぬ返答に、私たちはギョッとした。
「具体的に、どんなことですか?」
私が問うと、彼女は手を組み、緊張気味に答えた。
「脅迫文が届いた数日後の事です。アリアの楽屋付近にて、闇の中で目を光らせる奇妙な人影を見た気がしたんです。舞台衣装でもないし、当日にその場にいたどの役者でもない。ただし、真紅の衣装を身にまとう、金髪の女性であることは確かでした」
──真紅の衣装に金髪の女性。闇の中で目が光る。
それだけで確かなことは言えないが、どうしてもルージュの事は頭を過る。
きっと、巷で噂される彼女のイメージも、それに近いものなのだろう。
「勿論、見間違いかもしれません。あまりに恐ろしい事態でしたので、幻を見てしまったのかも。だけど、あれがもし、本当だったら……そう思うと恐ろしくて、それで、結局は私も総支配人を説得する羽目になったんです」
「……そうだったんですね」
私が反応すると、少し安心したのか、ヴィオラはさらに言った。
「怖いのは勿論ですが、私、どうしてもオーバードの作品制作を邪魔されたくないんです。今、彼は、身も心も削りながら作品を書いています。次回の舞台ではありません、その先の作品です。そんな彼の血が滲んだ結晶が、次の舞台なんです。その舞台を、穢されるわけにはいかないんです」
強く語るヴィオラの姿に、私も、アンバーも圧倒されていた。
舞台に、いや、オーバードの作品に、ヴィオラが取り憑かれている事が良く分かった。
その心酔は、冷静な顔をしていても隠しきれていない。
ヴィオラもそれを自覚したのだろう。
慌てたように目を伏せると、小声で彼女は言った。
「すみません、つい、力が入り過ぎてしまいました」
「いえ、いいんですよ」
私に続けて、アンバーも目を細める。
「お気持ちが強く伝わる方が、こちらもやる気が出ますからね。まあ、そういう事でしたら、しっかりと警備させてもらいましょう。アタシたちがここにいる限り、天才の恋人には指一本触れさせませんよ」
勝手に宣言する彼女に苦笑しつつ、私もまた静かに同意を示した。
さて、それから朝食が終わると、私たちはさっそくアカリュース劇場の端々をもう一度確認する事となった。
その過程で行った事と言えば、劇場を出入りする者たちへの聴取である。
ヴィオラが言っていた通り、根も葉もない噂や怪談が数え切れぬほど広まっていたが、その中からどうにか参考に出来そうな情報を集めてみた。
だが、そんな事よりも大事な仕事といえば、私たちが間違いなくここにいるという事を他ならぬ歌姫アリアにアピールすることだった。
「……そう、それでは、お二人とも本物の吸血鬼相手に何度も戦ってきたのですね」
亜麻色の髪に翡翠の目。
細身の体を人形のように着飾る愛らしい女性。
稽古の合間に時間を作って話をしてくれた歌姫アリアは、まさしく私たちとは対照的な雰囲気の女性だった。
だが、華やかさの端々に気苦労は感じ取れる。
化粧でだいぶ誤魔化してはいるが、顔色は非常に悪かった。
「はい。ルージュは警戒心の強い吸血鬼ですからね。私たちが常に見張っている状況で、狩りをしようだなんて思わないはずです。だから、ご安心ください」
アンバーが明るい声でそう言うと、ようやくアリアは笑みを浮かべてくれた。
だが、心から安堵は出来なかっただろう。
どうにか安全を示せるように努めなければ。
そう思わずにはいられない様子だった。
その後も、私たちは日が暮れるまで劇場を見て回り、夕食を経てようやく宿舎に帰れたのは、日が沈んでだいぶ経った頃だった。
部屋の扉を閉め、改めてその狭さを噛みしめたその時、不意に目の前の窓に小さな影が現れた。
月光に照らされるそれは、黒猫の姿をしていた。




