12.邪魔する者たち
今宵は満月。
その影響を受けるのは、何も人狼だけではない。
恐ろしい魔物が潜んでいようと、この町の人々は今宵もまた、酒に、恋にと浸っている。
その間をすり抜け、向かうのは人の気配が乏しい場所。
裏路地の、そのまた先にひっそりと存在する、忘れ去られたような小さな広場だった。
以前からその場所を知っていたのだろうか。
決めたのはルージュだ。
その中央で立ち止まると、満月の光を浴びながら彼女はゆっくりと振り返ってきた。
その姿は、寒気がするほど美しい。
かつて、幼い私に向けられたものと同じ笑みを浮かべ、彼女は私を手招いた。
「そんな怖い顔をしないで、ベイビー」
「……カッライスだ」
その誘いを跳ねのけるように、私は言った。
「私の名前は、カッライスだ」
その言葉はルージュに向けられたものではない。
私自身に向けられていた。
自分自身を落ち着かせて、言い聞かせていないと、飲まれてしまいそうだったから。
だが、経験を積んだためだろうか。
以前と比べればまだ落ち着いている方だった。
今宵こそルージュの命をこの手に。
そんな焦りはあったけれど、以前、殺されかけた時よりもマシだった。
しかし、そんな私を面白がるようにルージュは笑った。
「冗談よ。カッライス。その名前、私も気に入っているの。あの赤毛、とてもいい名前を考えたわね。あまりにも気に入ったから、私、ハニーにおねだりして、本物のカッライスを二つ用意して貰っているの。何のためにか分かる? いつか、冷たくなってしまったあなたの目玉をくり抜いたあと、そこに嵌め込むためよ」
動揺してはいけない。
彼女の前では常に冷静でいなければ。
しかし、鼓動が早まるのを抑えることはどうしても出来なかった。
突き刺すようなその視線から軽く目を逸らし、私は吐き捨てるように言った。
「話っていうのは、その無駄話の事?」
「勿論、違うわ」
ルージュはきっぱりとそう言った。
「話というのは、あなた達の未来の事よ。これは揶揄いでもなければ、脅しでもない。ただの事実として話しましょう。人狼を恋人にするのはお止めなさい。アンバー。あの子はぎりぎりのところで理性を保っているだけ。いつ、その理性が崩壊し、あなたの腸を食い荒らしてもおかしくはない。あなたはそれでいいかもしれない。愛する人に食べられるのは寧ろ、本望かもしれない。でも、アンバーはどうかしら。愛したはずの人を自ら食い殺してしまったとなれば、あの子は不幸になる。愛しているのでしょう? 自分のせいで不幸にしたいの?」
責めるようにルージュは私に問いかけてきた。
駄目だ。
安直に答えてはいけない。
私は真っ先にそう思い、いったん思考を止めた。
開きそうになる唇を噛みしめ、答える代わりに向けたのは銃口だった。
そんな私の反応を見て、ルージュは微笑む。
全く動揺しないまま、彼女は続けた。
「私はね、あの子のことが少し可哀想だと思っているの。赤ん坊の頃に人間に囚われ、魔物のはずなのに、魔物らしく生きる事が出来ない。人間の手で育ったばっかりに、人間の身勝手な価値観に縛られている。人狼っていうのはもっと自由に生きるものなのにね」
聞いてはいけない。
しかし、動揺は強まる一方だった。
何故なら、ルージュが言っている事は、私も一度ならず考えたことがあるからだった。
アンバー。
彼女は本当に幸せなのだろうか。
人間として育てられ、人間の中でひっそりと生きる彼女は辛くないのだろうか。
──駄目だ。
私は浮かんだ考えを全て振り払い、心を無にして引き金に指をかけた。
「言いたいことはそれだけか。ならばもう口を閉じて貰おう」
「……そう、残念。もっとお話したかったけれど」
と、ルージュはスッと姿を消した。
だが、見えなくなっただけだ。
私は目を閉じ、感覚を研ぎ澄ませた。
かつて、ダイアナに言われたことがある。
今の私はルージュに近い存在となっているという。
ダイアナを解放出来たのもそのためだ。
ならば、ルージュの術だって、少しは異変を感じられるのではないかと。
そして、その結果、ほんの僅かな気配を掴むことが出来たのだった。
「……そこだ」
瞬時に目を開き、銃口を向けた先で、一瞬だけルージュの姿が見えた。
いける。
狙いは定まっている。
後は撃つだけ。
それで全てが終わる。
けれど、引き金を引くまでのほんの少しの隙に、私の体を強張らせる出来事が生じた。
そう遠くない場所から、おどろおどろしい猛獣の咆哮と、耳を劈くような女性の悲鳴が響いたのだ。
私が撃ったのは、その直後だった。
体が変に強張り、狙いはすっかり逸れてしまった。
乾いた音が虚しく響いたその瞬間には、外したことと新たな脅威が迫っていることに気づき、焦ってしまう。
しっかりと捉えていたはずのルージュの気配を逃し、気づけば背後に回られてしまっていた。
「──くっ」
すぐさま逃れようとしたが、その時には抱き着かれていた。
また、負けるのか。
心が挫けそうになったちょうどその時の事だった。
ルージュの動きがぴたりと止まった。
そして、すっと私の体から手を放すと、そのまま後退していった。
逃げようとしている。
慌てて振り返ってみれば、ルージュの険しい眼差しが、私ではなく私の背後へと向いている事に気づいた。
何を警戒しているのか。
答えはすぐに分かった。
「ここか」
野太い男性の声が聞こえると同時に、ルージュはそのまま建物の影へと下がっていった。
逃げられてしまう。
それは分かっていたが、新たに現れた者たちを無視することも出来なかった。
彼らは私を見つけると、すぐさま近づいてきた。
男女の集団。
その身なりと胸元の紋章、そしてリーダーと思しき人物の顔も、しっかり記憶に残っている。
人狼狩りのハンター……猟犬たちだ。
「銃を撃ったのは君だね。悲鳴を上げたのは?」
話しかけてきたのは、ルージュによってドッゲだと紹介されたあの男性だった。
その背の高さは間近だと威圧さすら感じる。
それでも、私は怯まずに、彼らへと向き直った。
「銃はそうだ。だが、悲鳴は私じゃない」
すると、ドッゲは私の手にある銃に気づき、納得したように頷いた。
「なるほど、同業者か。君も依頼を受けてきたのか?」
「いや、たまたまだ。人狼ではなく、別の獲物を追ってきたんだ。さっきの銃声も、その獲物に向けたものだった」
「別の獲物?」
「吸血鬼だよ。ルージュ。同業者ならその名前は聞いたことあるでしょう?」
すると、ドッゲはゆっくりと私に近づいてきた。
仲間たちの見守る前で、じっと私の目を見つめて、そして、静かに語りかけてきた。
「カッライス」
突然名を呼ばれ、思わず反応してしまう。
誤魔化せたりはしなかっただろう。
だが、彼はそんな私の未熟さに微塵も興味を示さずに、話を続けた。
「噂には聞いている。宝石の連中が、賞金首の吸血鬼の元から子供を救ったのだと。その子供が無事に成長し、新人狩人になったらしいのだと。カッライス。そんな名前だった。君がそうか?」
私のことを知っている。
ただでさえ関わりたくない人物だというのに。
しかし、変に拒めば目を付けられるだろう。
だから、私はなるべく冷静さを装って、彼に答えたのだった。
「そうだけど、何か?」
すると、ドッゲはじっと私を見つめ、そのまま黙してしまった。
一体、何を考えているのだろう。
その内心が全く読めず、私は怖くなってしまった。
そんなドッゲに困惑しているのは私だけではなかったようだ。
「おい、ドッゲ。そろそろ……」
仲間の一人である男性が話しかける。
それに便乗して、私もまた彼に言った。
「仕事の途中じゃないの? 人狼を追いかけているのでしょう?」
「ああ、そうだった。ついでに一応聞いておこう。この町で、人狼の姿を見たことは?」
息を飲んでから、私は答えた。
「一度だけ。何日か前の夜、建物の裏で乱暴な男に絡まれている女性を助けたんだ。その男が、恐らく人狼だった」
「ほう、どんな奴だった?」
「長身で、体格がすごくよくて、声は低くて……」
「髪の色は、目の色は?」
「髪は確か黒だった……目の色は……えっと」
何色だっただろう。
答えに窮していると、ドッゲは囁くように問いかけてきた。
「アンバー」
不意に向けられたその単語に、思わず震えてしまった。
「その目は、琥珀色ではなかったか。人狼に多い色だ。それ故、過去にはその色の目であるというだけで疑われ、処刑された者も度々いたらしい」
ドッゲは静かに語る。
私の方は、さっさと解放して欲しかった。
動揺が表に出ていない事を願いながら、私は彼に言った。
「悪いが、憶えていない。薄暗かったせいもあるだろう。それよりも、ドッゲだったっけ。早く悲鳴の主を捜した方がいい。この町の人々は、あなた達に期待しているみたいだから」
私の言葉に同意するように、ドッゲの仲間もまた声をかけてきた。
「そうだぞ、ドッゲ。獲物に逃げられちまう」
そんな彼らを振り返り、ドッゲは命じた。
「お前たちは先に移動しろ。俺も後から追う」
まさにその命令を待っていたのだろう。
ドッゲの仲間たちは、すぐさまその場を立ち去っていった。
広場に二人で残され、さらに気が重くなった。
困ったことになったかもしれない。
そんな考えが頭を過る中、ドッゲは再び私に向き直った。
「せっかくの縁だ。もう少しだけ協力して貰おうか」
どうやって煙に巻けばいいか。
背の高いその顔を見上げながら、私は必死に考えていた。




