10.満月の日の攻防
満月の日が来る前に、私とアンバーは、うわばみの都を後にした。
昼も夜も酒臭いこの町から立ち去れる事自体は、私にとっては本来望ましい事であるし、アンバーにとっては本来名残惜しい事であるはずだろう。
しかし、今回は状況が違う。
後にまた足を踏み入れるとは言っても、ルージュが隠れているという場所から一度でも離れるということは、後ろ髪引かれる事だった。
そして、そんな私に対して、アンバーの方はすぐにでもこの町を離れたがっているようだった。
「こんな状況じゃなければ、永住だってしたいくらいだったのになぁ」
冗談めかして彼女は言ったが、その表情の奥には焦燥すら感じた。
人狼狩りのハンターたちは今も町にいる。
その気配を警戒しているのだろう。
それは私も同じだった。
都を出た後も、しばらくは背後から誰かに呼び止められやしないかという恐怖で一杯だった。
だから、そんな事もなく無事に拠点までたどり着いた時にはホッとしてしまった。
ちなみに、拠点にはアメシストがいた。
すぐに発つ予定だったらしいが、私たちが近くにいると聞いて、待っていてくれたようだった。
「人狼狩りの猟犬たちが、君たちのいるうわばみの都に向かっていったって聞いたからね」
そして、アメシストが見つめた先は、アンバーの方だった。
「かつてあの猟犬たちはね、うちの組合長とある小さな子犬ちゃんの行方を巡って、何度か喧嘩をしたことがあるんだ。それでさ、ペリドットが心配していたよ、アンバー。一度、顔を見せてやった方がいいんじゃないかな」
「そうしたいところだけどさ、誰かさんが言う事を聞かなくって」
突然、責任を擦り付けられ、私はムッとした。
しかし、そんな私たちのやり取りを、アメシストは面白がるように笑い、しかし、すぐに真剣な顔をして忠告してきた。
「そうだ。これも言っておかないとね。満月の日の後になると思うけど、ここにジルコンが来る予定なんだ。一応、頭に入れておいて」
「……ジルコン、か。予定が早まらないといいけれど」
思わず呟いてしまった私に、アメシストはくすりと笑った。
「彼とその弟子には内緒にしておいてあげる」
それから、程なくしてアメシストは去っていき、あっという間に満月の日はやって来た。
日の出前からその前兆は現れる。
拠点は町の宿泊施設と違って人の目など気にしなくていいのだが、いつもの癖か、はたまた彼女自身の精神的なものなのか、姿が変わる前に彼女は共に眠るベッドから抜け出し、部屋の隅へと逃げてしまった。
起きてみれば、寝室の隅で蹲る大きな狼の姿が確認できた。
「アンバー」
近寄ってその鼻先を撫でてみると、ぱちりと目を開き、いつもの声で彼女は訊ねてきた。
「……約束だよな」
何を言わんとしているのか、それは分かっている。
じっと見つめてくる獣の目から、私は目を逸らし、静かに立ち上がった。
今日、今宵、私はアンバーの信頼と愛を失うかもしれない。
それは分かっていた。
けれど、どうしても、諦めきれなかった。
「なあ、カッライス。はっきり言ってくれ」
呼びかけられたその時、窓がこつんと叩かれた。
ダイアナだった。
いつもの猫の姿で、彼女はそこにいた。
窓を開けてやると、ダイアナはぴょんと部屋に入ってきた。
そして、私の足元からじっとアンバーの姿を確認した。
「間違いなく……満月の日ね」
そして、ダイアナは私を見上げながら言った。
「いいわ。後の事はあたしに任せて」
「──おい!」
そこで、アンバーは立ち上がった。
雄大な狼の体が起き上がると、さすがに迫力がある。
姿もそうだが、その中身もいつものアンバーとは違う。
いつもよりも興奮気味の彼女を刺激するのは良くない事だろう。
けれど、私は距離を保ちつつ、アンバーに言った。
「アンバー。悪いけれど、今日の君の事はダイアナに頼んである」
「約束が違う!」
「悪いとは思っている。この事で私に愛想を尽かしたっていい。でも、君の事を守りつつ、ルージュを捜すにはこうするしかない」
「ふざけるな。アタシを侮るなよ。どうして、あんたに守られなきゃならない」
じりじりとアンバーはにじり寄ってくる。
本物の狼のように牙を見せながら、私とダイアナへと近づいてきた。
「頼むよ、あんた達。今のアタシをあまり怒らせないでくれ。でないと、人間でなくなってしまいそうだ」
「……アンバー」
もしもこの狼がアンバーの声で話さなかったならば、猛獣と変わらない。
森で出くわしたならば迷いなく撃つだろう。
しかし、そんな事は勿論出来そうにない。
だから、私が出来る事は、興奮した狼から距離を取ることだけだった。
「許してくれとは言わない。けれど、行かせてもらうよ」
「そうはいくか。あんたはアタシの従者なんだ。それを教えてやるよ。こっちを見ろ、カッライス。アタシの目を見ろ!」
野太い声でアンバーが吠えると、私の体に異変が生じた。
何か見えない糸で引っ張られているかのように、体が硬直してしまったのだ。
同じような状態になった覚えがある。
忘れもしない。
ルージュに攫われ、そこからアンバーに救われた日の事だ。
──私の目を見なさい。
ルージュにそう命じられた時、私の体は硬直してしまった。
その時は、必死の抵抗で目を見る事だけは防ぐことが出来た。
今回はどうだろう。
俯いてアンバーの命令に抗っていると、アンバーは苛立ち気味に吠えた。
「そうか、あんたがその気なら、力尽くで」
そう言って、アンバーは素早く動き出した。
噛みつかれれば、引きずられれば、敵わないだろう。
それでも、銃やナイフで応戦するなんてあり得ない。
ルージュを殺すために磨かれたこの武器は、アンバーの命だって容易く奪えるのだから。
しかし、下手に動けない私の代わりに真っ先に動いた者はいた。
「待ちなさい、アンバー!」
ダイアナである。
黒猫の姿から瞬時に人間の姿へと戻ると、素早く呪文を唱えた。
直後、床を蹴ったアンバーの体がふわりと浮かび、見えない何かに拘束される。
藻掻くアンバーの姿はまさに魔物だった。
けれど、そんな彼女を傷つける事もなく、ダイアナはそのまま床へと押さえつけた。
「くそ……ダイアナ……放せ……放せよ」
牙を剥いて暴れるアンバーを見つめ、ダイアナは告げる。
「駄目よ。今のあなたは冷静さを欠いている。このまま解き放てば、あなたが後悔する未来を招きかねない」
図星だったのだろうか。
ダイアナの言葉に、アンバーは絶句した。
それでも、プライドが彼女を暴れさせるのだろう。
その後は、本物の狼になったかのように言葉なく藻掻き続けた。
だが、こんな事で拘束は外れないのだろう。
ダイアナはじっとアンバーの姿を見つめたまま、私へと話しかけてきた。
「アンバーの事は心配しないで。満月の日が終わるまで、命に代えても、ここから一歩も出したりはしない。その代わり、どうか気を付けて。今宵、あなたを護る事が出来るのは、あなた自身だけとなるのだから」
「……分かった。頼むよ、ダイアナ」
私がそう言うと、ダイアナは静かに頷いた。
そして、何かの呪文を唱えると、藻掻いていたアンバーに異変が生じた。
「こ……これは……」
唸る彼女に、ダイアナは告げる。
「そう、眠りの魔法よ。どうか、怖がらずに夢の世界へそのまま歩んで。次に目を覚ました時、あなたの隣にいるのはあたしではなくて、カッライスになっているはずだから」
労わるようなダイアナと、そして私へ、アンバーは憎くてたまらないといった眼差しを向けてきた。
「覚えておけよ……カッライス……次に……目を覚ました時は……絶対……あんたを食い殺してやる」
そして、カッライスはぱたりと横たわってしまった。
眠ったらしい。
すっかり静かになると、ダイアナは肩の力を少しだけ抜いた。
「しばらくは大丈夫ね。さ、カッライス、今のうちに」
「うん……行ってくる」
そのまま拠点を後にして、うわばみの都を一人で目指す間、アンバーの殺意に満ちた眼差しが脳裏をちらついた。
彼女にならば、殺されても文句は言えないだろう。
それでも今は、どうしても優先したいことがある。
──ルージュ。
その名を思い出し、私はポケットを確認する。
彼女に持たされた指輪が間違いなくある事を確認すると、そのままうわばみの都──アヴァロンへと向かっていった。




