12.生まれる前のこと
ダイアナと一旦別れ、組合の拠点へとどうにか戻ってからは、私もアンバーもどっと疲れてしまった。
ミエール城に残した荷物など、どうでもいい。
それどころか、ここ数日の仕事が無駄になっただろうことすら、今は特に気にならなかった。
私もアンバーも無事にここまで来られただけで十分だ。
しかし、すぐにここを離れるかと言えば、そうはいかなかった。
理由はルージュにある。
私の目的は彼女だ。
ハニーの依頼なんてどうでもいい。
彼女があの城にいる以上、私もまたここを去る事なんて出来ないのだ。
当然ながらアンバーは呆れた。
あんな目に遭ってなおもルージュに拘る私の頑固さが信じられなかったのだろう。
アンバーがその気になれば、私の頑固さなんていとも簡単に崩されてしまうはずだ。
命じるだけでいい。
今の私の主人は彼女であるのだから。
それでも、アンバーはそうしなかった。
「言っておくけれどさ、本当にヤバくなったら、アタシだって最終手段を使うからね。恨まれようと、憎まれようと、あんたを安全な場所まで連れていく」
「安全な場所って?」
「そうだねえ。やっぱり師匠の家かな。そこを拠点にして稼ぐ生活に戻ってもらうよ」
「師匠が可哀想だよ。せっかくオニキスと二人きりでいられるようになったのにさ」
「問題ないだろ。師匠だって二人きりになりたい時はオニキスのとこに行くだろうし」
「私たちはどうするのさ。師匠の目を盗んで、こんな事をするわけ?」
こんな事、というのがどんな事なのか、そこは敢えて明記しないでおこう。
わざわざ言うまでもない。
アンバーと二人きりで、同じベッドの中で、毎晩何をしているかなんて。
そのくらい恥じらうべき事だとは分かっていたけれど、それでも、私にとっても、そして恐らくアンバーにとっても、この営みの意味が、ただの欲望の解消ではなくなっていたのだろう。
アンバーは深くため息を吐いて、私に圧し掛かる形で身を預けてきた。
地肌と地肌が重なり合い、温もりと安堵を覚えていると、耳元で彼女は囁いてきた。
「隠れ潜んで楽しむには色々と勿体ないよなぁ。お金貯めて、安全な場所に家でも買うか」
「せっかくだけど、私は──っ」
と、反論しようとしたところで、敏感な場所を捉えたアンバーの指により、会話は強制的に中断させられてしまった。
再び会話らしい会話が出来たのは、それから一時間ほど後のことだった。
事後の気怠さと満足感と共に身を寄せ合っていると、私の髪を弄りながらアンバーが再び口を開いた。
「ところでさ、城を脱出する前に、あんた、アタシの所に来ただろ。あのハニーとかいういけ好かない女に何かされたりしたの?」
「何もされていないよ」
ぎくりとしつつ答えるも、アンバーは私の体に密着したまま疑わしそうな声を漏らした。
「ふうん。それにしては、妙に奴のニオイが染みついているな。こことか、こことか」
「強いて言えば、されそうになった、かな。君のかけた術を解くのだとか言っていた」
素直に白状すると、アンバーは不満そうに息を吐いた。
「なるほどねぇ。ただ、未遂だったわけだ。それは良かったけども、油断ならないね。つまり、あいつ、あんたの体の呪いの事もよく知っているんだ?」
「そうみたい。ルージュから聞いているって言っていたよ。それだけじゃないんだ。私、あの人の事を知っていた。すっかり忘れていたけれど、少しだけ思い出したんだ。師匠たちに保護される前、ルージュと暮らしていた頃に、彼女と何度か会っていたみたい。あの頃から彼女は年を取っていない。ルージュの恋人の、魔物なんだよ」
「人間と見た目の変わらない不老の人食いか。そういう一族がいるっていうのも、噂レベルのことではあるけれど、疑う余地なんてないよなぁ。その上、あの女の恋人ときたら、警戒する点しかないな」
「たぶん、これまでたくさんの人が犠牲になっているんだと思う。昔、ルージュに捕まった時に言われたんだ。私を殺した後は、この体を人形にしてやるって。血は抜いてお酒にして、肉や臓器は親友を喜ばせる料理にって。その親友ってのが、ハニーのことなんだ」
アンバーは静かに私を見つめると、狼のように小さく唸った。
「他には何を言われた?」
「あとは……そうだ。私の両親について話していた」
「両親……あんたの?」
「うん。本当の話なのかは分からないけれどね、ハニーが言っていたんだ。奴の言っていた話が本当なら、私、攫われたわけでも、拾われたわけでもないみたいなんだ」
そこまで言ってから、私は口籠ってしまった。
これをそのまま白状するのは、気が引ける。
後ろめたさと共に得体の知れない恥ずかしさがあった。
けれど、そんな私を見つめ、アンバーは言ったのだった。
「教えて」
そこにどれだけ命令の意図が含まれていたのか、私には知る術もない。
ただ、アンバーが知りたがっている。
その事実が私の心に沁み渡ると、躊躇いも恥じらいも一瞬にして崩れていった。
「私が生まれる前、実の母親はルージュの屋敷にいたんだって。人攫いから逃げ出して、行き場を失って、ルージュに拾われたらしい。私と同じ、異国の目をしていたって。そこへ、同じ目をした旅人の青年が迷い込んできた。その人が私の父親となったって」
ペリドット達も知らない両親の事。
ルージュが教えてくれるはずもなく、それまで私は両親というものの存在すら意識していなかったのだ。
ルージュさえいればいい。
そう思わされていたのも、彼女の妖しげな術によるものだったのだろう。
「私が生まれたのは、ルージュがそれを願ったからみたいなことをハニーは言っていた。両親がその後どうなったのかも、彼女は知っているみたいだった」
実際にどうなったのか。
私は知らない。
知りたくない。
だから、聞かずに話を遮ったし、その事に関して後悔なんてない。
だが、私は今も落ち着かなかった。
彼らがどうなったのか、気づいたらその事ばかりを気にしてしまう。
知ればきっと後悔すると分かっているはずなのに、どうしてなのだろう。
「……そうか」
アンバーが静かにそう言うと、私は急に不安に陥ってしまった。
無事に危機から脱出して安心したからこそ、なのだろうか。
ハニーの言っていた話が、今更になって私の心にずっしりと圧し掛かってきた。
最初から、私が、ルージュのために生まれて来ていたのだとしたら。
私がもしもあの場から助け出されていなければ、ルージュは本当に、人間社会を脅かしたりしなかったかもしれない。
そう思うと、私の心に恐ろしい考えが顔を覗かせはじめたのだ。
私がいなければ、みんな、死なずに済んだのではないかと。
「なあ、カッライス」
その時、アンバーにふと名を呼ばれ、私は我に返った。
見れば彼女は仰向けになり、天井を見上げていた。
こちらに視線を向ける事もなく、彼女は言った。
「その話が本当だとしたら、なおさら、アタシは、あの化け物たちにあんたを近づけたくない。追いかけないで欲しいし、一緒に師匠のところに帰りたい」
「……アンバー」
ぐっと目を瞑ってから、アンバーは続けた。
「でもさ、アタシ、魔物としては意気地なしみたいでね。あんたの事を支配できない。おかしいよな。本に書かれていた人狼って、もっとこう、支配的で、男も女も気に入った奴を力強く従わせるって感じだったんだけど、人間に育てられたからかな。アタシは違うみたなんだ。奴を追う事を辞めさせることだって出来るはずなんだ。でも、無理だ。アンタがそうしたいなら、アタシはついて行くしかない」
アンバーは声を震わせる。
本当に、嫌なのかもしれない。
そんな姿を見せつけられ、私もまた動揺してしまった。
来たくないなら来なくていい。
いつもの調子ならば、そんな事を言っていた。
けれど、今は、どうしても言えない。
──ごめんね、アンバー。
あらゆるしがらみに心を縛られながら、私はただただそう思った。
ただし、口には出せなかった。
謝るという選択が正しいのかさえも、この時の私には分からなかった。
それほどまでに動揺は強かった。
だた、今なら分かる。
どんな言葉を思いつき、どんな言葉を投げかけたとしても、そこに本心が伴っていなければ、そして本心こそが彼女の願うものでなければ、彼女を傷つけてしまう事は不可避なのだと。
「悪いね。みっともなかったかな」
少し落ち着いたのか、アンバーは苦笑交じりにそう言った。
「そんなことないよ」
静かにそう答える私に、アンバーはようやく視線を向けてくれた。
「優しいね、あんたは。そうだ。あんたの旅だけどさ、強制的に止めなくてよかったって思っているとこもあるんだ。たとえば、ダイアナの事だってさ、あんたが奴を追いかけていたからこそ解放できたようなものだし。それだけでも十分価値はあるよ」
何処までも寄り添ってくれる彼女の言葉に、私もまた笑みが浮かんだ。
そっと身を寄せながら、私は彼女に囁きかけた。
「……君がそう言うのなら、今だけは誇っておこうかな」




