9.冷酷な仕打ち
町を一望できる高台より、地平線の向こうに沈む夕日を眺めていた。
時間が過ぎるのはあっという間だったが、いつも以上に疲労がたまっていた。
肉体的にも精神的にも疲弊したのは久しぶりかもしれない。
こうやって町を眺めていると、また、彼に声をかけられるのではないかと思ってしまった。
何もかもが悪い夢で、生きているリップルが現れるのではないかと。
しかし、どうやら今日あった事は悪い夢なんかではなかったらしい。
──ルージュ……どこにいるんだ。
その名を心の中で呟くだけで、怒りがこみ上げてくる。
興奮を必死に抑えても、冷静になることは難しい。
そんな私を彼女は今も面白がっているのだろうか。
そう思うと癪だったが、感情は抑えきれなかった。
手すりを軽く拳で叩き、ふと思い出したのがシャローズ刑事と、身柄を拘束されたという男の姿だった。
その男は、魔物なんかではなかった。
金に困って途方に暮れていたただの人間で、それだけにあっという間に足がついた。
リップルを殺したのも、彼に特別な恨みがあったからではない。
頼まれただけ。
ただそれだけで、男はリップルをナイフで刺した。
──違うんだ。オレも脅かすつもりだったんだ。手が滑ったんだ。殺すつもりなんて。
彼は繰り返しそう言ったが、到底事故とは思えない。
どんなに否定したところで、ナイフについた指紋と目撃証言が彼の罪を確定させるだろう。
それでも、私は気づいていた。
あの男の言っている事は、口から出まかせというわけではないのだと。
脅かすつもりだったというのは本当だろう。
手が滑ったというのも、彼にとっては事実なのだろう。
しかし、事故ではない。
彼の手を滑らせた人物がいる。
哀れで愚かなあの男を金で釣った者だ。
──女だったよ。怖いほど綺麗な姉ちゃんでさ、信じられないほど金を持っていて。
男は震えながら言った。
──眩しいくらいの金髪に、血のような目をしていてさ。
脂汗をかきながら訴える男の姿を思い出すと、私まで寒気を感じた。
あの男に同情なんてしない。
リップルを殺したのは間違いなく彼だ。
いくら金に困っていたといっても、ナイフで人を脅すという仕事を引き受けた時点で同情できない。
だが彼は、最も憎むべき相手というわけではない。
殺したのは確かにあの男だ。
名前を覚える気にもならない始終震えた哀れな男。
だが、彼は恐れていた。
本当に殺すつもりなんてなかったのだろう。
あの様子が演技だとはどうしても思えない。
そんな彼の手を滑らせることが出来る人物がいるとすれば、一人しかない。
「……ルージュ」
名前を唱えると、抑えきれない感情がこみ上げてくる。
同時に生まれるのは、途方もない無力感だった。
怒りの感情は誰に向けてのものだろうか。
リップルの命を奪った男でもあったし、彼を金で釣った卑しい吸血鬼でもある。
だが、もっと強く怒りを感じてしまう相手は、自分自身だった。
──私がもたもたしていたせいで。
ふと、「あなたのせいよ」という言葉が脳裏に浮かんだ。
他ならぬ、ルージュが残したメッセージの一つだ。
彼女からしてみれば、その通りなのだろう。
決して自分のせいではない。
本来の獲物であるはずの私が逃げたりしたからというのが彼女の言い分なのだろう。
冗談じゃない。
黙って食われてたまるか。
そう言いたいし、いつもなら言っている。
けれど、今はどうだろう。
本当にそうなのだろうかと思いかけている。
あの時、私が逃げなければ、この町の人たちは死なずに済んだのではないかという考えが、気づけば頭の中に浮かんでいて、呼吸が苦しくなっていた。
思考が迷走している。
そんな事にぼんやりと気づいた時、そろそろ耳に馴染みつつある音色が聞こえてきた。
日没を告げる時報だ。
控えめながら町全体に確実に響くその音を聞いていると、ざわついていた心が少しだけ落ち着いた。
今の私に必要なことは考えることじゃない。
休息だ。
そう気づいて宿に戻ろうと振り返った時、不意に声をかけられた。
「いい音だよな」
アンバーだった。
気づかないうちに隣にいたらしい。
「アンバー、いつの間に?」
「たまたま通りかかったんだよ。てか、気づかないのはマズイって。お目当ての吸血鬼だったらどうするのさ」
「その時は、返り討ちにするしかないね」
冗談めかして笑おうとしてみたけれど、うまく笑みが作れなかった。
引き攣った表情を見られたくなくて、再び町を眺めていると、アンバーもまた再び日の沈みゆく町を眺めながら呟くように言った。
「あの探偵のことをさ、知っている人に会ったんだ」
誰の事か聞くまでもない。
動揺を隠すには無心を保つしかなかった。
そんな私の心情を余所に、アンバーは会話を続けた。
「今日行った観光地でたまたまね。まだ彼の身に起きたことを知らないようだった。でも、そのうちに知ることになるだろうね。さっき見かけた夕刊にはもう載っていたから。そう思うとなんだか悲しくなってしまった」
淡々とした口調ながら本心であることは間違いない。
魔物は嘘つきだなんて言うけれど、アンバーの表情を見ていると、そう信じざるを得なかった。
「直接会ったわけじゃないアタシでさえそうなんだ。カッライス、あんたはもっと辛いはずだ。無理してないか。そろそろ休んだ方がいいんじゃないか」
優しい言葉が、私には却って辛かった。
涙を零さないように必死に耐えながら、私はアンバーに言った。
「休むわけにはいかないよ。こんな状況じゃ尚更のこと」
声が震えている。
それを誤魔化したい一心で、私は話し続けた。
「犯人は確かに人間だったけれど、差し向けたのはルージュに間違いない。犯人は手が滑ったんだってさ。依頼では脅かすだけのつもりだったのにって。手を滑らせたのは本当に事故だったと思う? 私は思わない」
そんな私に寄り添いながら、アンバーは諭すように囁いてきた。
「焦っちゃだめだよ」
そっと手を重ねられて、逸る気持ちが少しだけ抑えられた。
「焦ったら奴の思うつぼだ。いいかい、カッライス。探偵君はどうやって死んだ? あの女にやられたのは変わりないが、捕食されたわけじゃない。新聞にはそう書いてあった。吸血鬼による被害ではないとみられるって」
「……その通りだよ。血は現場に残されていた。一滴も吸われることなく。私のせいだ」
飢えや渇きのあまりではない。
ただ邪魔だから殺したのか。
リップルを死なせたのも想定外なんかではないだろう。
その証拠に、現場には口紅のメッセージが残されていた。
リップルを刺した張本人が全く知らなかったメッセージが。
と、再び巡りかけた思考が、不意に止められてしまった。
アンバーに掴みかかられたのだ。
無理やり向き合わされ、肩を掴まれ、その恐ろしい力に対して、本能的に委縮してしまった。
呆然とする私に、彼女は言い聞かせるように言った。
「あんたのせいじゃないよ」
真っすぐそう言われ、私はややあってから俯いてしまった。
限界が来たらしい。
それを自覚した途端、もうどうしようもなかった。
「ごめん、アンバー。みっともないって分かっているんだけどさ」
歪む視界の中、汗と共に雫が頬を伝う不快感から逃れたくて顔を覆っていると、アンバーはため息交じりに私をぎゅっと抱きしめてきた。
「みっともなくなんかないさ。簡単に吸血鬼が仕留められたら、魔物狩りなんて誰にだって出来る。でも、そうじゃないだろう。なあ、カッライス」
優しいその言葉には何の含みもなかった。
意地悪を言う時の彼女とは別人のようだ。
でも、どちらも彼女に違いない。
私にとって大切な家族のようなもの。
そんなアンバーの顔を見つめていると、私はつくづく思ったのだ。
一人じゃなくてよかった。
彼女がついてきてくれてよかった、と。
その感謝を胸に秘め、私は彼女に言った。
「ありがとう、アンバー」
歪む視界の中で、少しの恥じらいを感じながらも、私はその親しい顔をちゃんと見上げながら、言ったのだった。
「だいぶ落ち着いたよ」
すると、アンバーは静かに笑みを返してくれた。




