14.海の見える丘より
翌日、目を覚ましてみれば、アンバーは狼の姿になっていた。
ベッドの中にうずくまり、出てこようとしない彼女を毛布越しに撫でてみると、唸るような吐息が聞こえてきた。
「おはよう」
声をかけると、猛獣のような吐息の後で、かすれた声が返ってきた。
「……おはよう」
それ以上はあまり会話をしたくないらしい。そんな彼女をひとまずそっとしておいて、私は服を探した。
思考は明瞭だった。少なくとも、昨日、この客室へ戻った時のような混乱はもうない。術を掛けなおしてもらったおかげだろう。
もしも、間に合わなかったどうなっていたのか。考えるだけでぞっとする。
着替えてからすぐに朝食を頼むと、様子が気になったのだろう、支配人であるマガラニカ氏が会いに来てくれた。
さすがにアンバーの姿を見せるわけにはいかないため、ひどく疲れているから休ませたいと言い訳をして、入り口付近で少し会話をした。どうやら、今宵のオールナイトショーは中止になったらしい。
「団員の過去やその詳細については、私たちもとやかく言いません。しかし、今回はお客様に手を出し、狩人さん達を危険に晒した者が出てしまいました。そういった者がショーの売りになっていたのです。この事で、我々も、そして座長を含めた団員達もかなり動揺しているようです」
深刻な顔でマガラニカ氏はそう言った。それもそうだろう。犯人がそこにいたのだから。しかし、心配もあった。元凶は退治出来たが、それだけで人々の恐怖が収まるとは限らない。もっと悪いことが起こるのではないかという不安が、皆の心を神経質にすることだってあるだろう。だから、私は訊ねた。
「……ペリュトンはどうなるんですか?」
脳裏に浮かぶのは、心配そうなムーの顔だった。昨日、アンバーと共に見世物小屋を去っていく時、マイヤとムー、そしてペリュトンにもう一度会うことが出来た。そこで気づいたのは、ペリュトンを取り巻く眼差しの変化だった。
皆、恐れていた。人殺しだった魔物に飼われていた異形の少女を。ペリュトンもそんな状況の変化を察知したのだろう。人間のように呻きながら翼をたたみ、縮こまっていた。そして、そんな彼女を数多の視線からさり気なく庇っていたのが、ムーだった。
「かなり揉めたようです」
マガラニカ氏は言った。
「その話し合いの場に、私は少ししかいられなかったのですが、座長からその後の報告がありました。新たな引き取り手がいればよかったのですが、ペリュトンも有害なんじゃないかと疑う人が多く、誰も名乗りをあげなかったそうです。中には処分してしまえばいいという人までいたようで……」
小さなため息が漏れる。
思っていた通り、よくない状況だ。しかし、マガラニカ氏は落ち着いた声で私に言った。
「しかし、ペリュトン自身の罪ではないと庇う者もいたようです。そもそも、あの子を見世物にするのが間違っていたのだと。実はですね、この件に関して、オーナーも強く関心を示しておりまして」
「オーナーというと、ハニー……代表ですね」
呼び捨てにしそうになったのを何とか堪えた。
マガラニカ氏はそんな私の様子に特に気にせず、ただ頷いた。
「彼女は世界各地を飛び回っておりますので、そういった事情にも色々と詳しいんです。それで、ここより船で南東に進んだ先に、ペリュトンのような魔物たちが静かに暮らす島があるのだと。あの種族は同じ仲間たちと一緒に過ごすのが幸せなんだそうです。だから、そこに返してあげようと」
「……では」
安堵が溢れる私を前に、マガラニカ氏はにこりと笑った。
「詳しい話は恐らく座長がするはずです。お昼頃に窺いたいと」
「お昼ですね……分かりました」
「はい、では、失礼ながら私はそろそろ」
「──ありがとうございました」
彼が廊下の向こうに去っていくのを待ってから扉を閉めると、一気に緊張の糸が解けた。それに、嬉しさもあった。ムーの願いが叶うかもしれない。そう思ったのだ。
「良かったじゃないか」
と、その時、ベッドの方から声が聞こえてきた。アンバーだ。布団の中に潜ったまま、彼女は私に話しかけてきた。
「人食いオーナーと言い、口紅お化けと言い、気に入らない輩だが……今回ばかりは何も言えない。奴らのおかげで上手くいったのは確かだ」
「たまたま噛み合ったんだよ。ハニーは遠出中、ルージュはこのホテルで勝手な行動が出来ない。私たちの相手よりも優先しなきゃならなかったんだろうね」
「随分理解がいいじゃないか。まだ術が足りなかったかな」
軽く笑うように言うアンバーに、私はそっと返した。
「……大丈夫。今、私が愛していると心から言えるのは、君だけだ」
それがどれだけ信じて貰えたのかは分からない。ただ、アンバーは納得したように肯き、そのまま沈黙してしまった。
昼前になると、約束通り座長はやってきた。マガラニカ氏からあらかた聞いていた話と共に教えてくれたのは、その後の決定やさらなる詳細だった。
「支配人からお話があったと思いますが、ペリュトンは仲間のもとに返してあげる事で落ち着きました。島には私も行くことになっていますが、ムーも同行したいと」
「ムー……」
その名前を呟くと、座長は軽く目を細めた。
「あの子を最初からずっと一貫して庇ってきたのはムーなんです。その理由も何となく察しがつきますが、ただの若者の一時的な恋にあらず。あれは愛でしょうな。状況が状況だったこともあり、そんな彼の態度にも噛みつこうとする団員はおりました。が、責任者はこの私です。レムリアの事を見抜けず、悪事を防げなかった。そこに利用されたペリュトンは悪くない。どうにかそう説得して、団員たちの納得もいただきました」
「……そうでしたか」
座長のその憔悴ぶりからして、決して順調な話し合いにはならなかったことが窺えた。それでも、やり遂げたのだ。彼らはペリュトンを守ったのだ。
「それで、あの……もし、よろしければ、ペリュトンのお見送りに来ていただけませんか。船は明後日でます。盛大に……とはいきませんが、それでも長くこのショーの顔として頑張ってくれた天使なのです」
そう言ってから、座長は苦笑を浮かべた。
「すみません。無理を言って。気が向いたらでいいんです」
「明後日ですね。憶えておきます」
私がそう言ってからしばらく会話は続いたが、彼もまた程なくして去っていった。客室の扉を閉じると、すぐにまたベッドからアンバーの声が聞こえてきた。
「……どうする?」
「君の体調次第」
「アタシの事は良い。あんたはどうしたい?」
「私は……行きたい」
少し見届けたくなったのだ。純粋な心で魔物の少女に寄り添おうとする青年の事を。最後まで私が見届けることは出来ない。しかし、船に乗ってもっと明るい可能性へと去っていく彼らの姿を、見送りたくなったのだ。
そんな私の返事に、アンバーは静かに息を吐きながら答えた。
「なら、決まりだね」
そして、約束の日はやってきた。聞いていた時間、聞いていた場所へと駆けつけてみれば、かつての歌姫を見送るとは思えない程ひっそりと人が集まっていた。
港はハニーが代表を務めるミエールグループの影響下にあるという小さなもので、一般利用者は基本的にいない。船もまた小型船で、同じくハニーが手配したものだという。そこに座長とムー、そして落ち着いた服とマントで翼を隠したペリュトンが乗り込んでいった。
見送りに駆けつけたのはマガラニカ氏と、主に団員たちだった。とはいえ、全員ではない。規模を考えるとかなり少数だ。それでも、集まった人々はペリュトンに暖かい眼差しを送っていた。
ペリュトンのファンと思しき人物も何名かいた。それぞれ事情は知っていても、それでもペリュトンを嫌えなかった人達だという。
「ペリュトン、幸せにね……!」
船に向かって元気な声をかける人物がいた。マイヤだ。近づいていくと、彼女も私たちに気づきこちらを振り返る。その腕には見覚えのある猫がいた。黒猫だ。ダイアナだ。不満そうな眼差しながら、本物の猫の振りをし続けていた。
「これで、全部終わりだね。……全部」
マイヤは言った。
「だけど、これで良かったんだっていう気持ちの方が強いや。たとえ、わたしの居場所もなくなっちゃったとしてもね」
「見世物小屋はなくならないんじゃないの?」
アンバーが言った。だが、マイヤは切なそうに目を細めた。
「一座自体は残るかもね。でも、座長は辞めちゃうかもしれない。ううん、辞めなかったとしても、これからは事情が変わっちゃうかもしれない。わたしもやっぱり、他人と違うからさ。どんだけ人間のふりをしていても、おかしいんだって思われたら……」
落ち込んだ様子の彼女に、なんと声をかければいいか分からなかった。だが、ため息を漏らして、うんと潜めた声でマイヤを励ます者がいた。ダイアナだ。
「大丈夫よ、あなたなら。人間はね、自分たちに危害を加えてくるものを疑って恐れるの。あなたはそうじゃないでしょう。たとえ、そう疑われたとしても、関わる人に出来る限り優しくする。それがあなたのモットーであり続ける限り、きっと大丈夫よ」
囁く声は近くにいる私たちにしか聞こえない。その小さな励ましに支えられたのか、マイヤは表情を変えて頷くと、もう一度、ペリュトンの方を見た。私も共に見てみれば、ペリュトンはムーに寄り添いながらこちらを見つめていた。
どうやら、この数日で、新たに誰を頼るべきなのかが分かったらしい。ムーはすっかり彼女の保護者になっていた。その天使のような少女の体には鎖はついていない。鳥かごに入れる事もない。彼女の自由に任せ、寄り添おうとするムーの事を、ペリュトンは好いているようだった。
ムーが手を振ってくる。何か言っているが声は届かない。しかし、その表情からするに、感謝と別れを口にしている事は分かった。
「さようなら」
「どうか、お元気で」
私とアンバーが口々にそう言ったその時、船は出港した。段々と小さくなっていく小型船を見送りながら、マイヤがふと私たちに言った。
「ムーは……あのまま帰ってこないのかもしれないね。そうだとしたら、二人とも……幸せでいて欲しいな」
彼女の言葉に共感しながら、私たちはその後も、船が見えなくなるまでずっと、小さくなりゆく船の姿を見送り続けた。




