後日譚6 侯爵の嫉妬3
「……どういうことですか?」
タジールのとんでもない発言に、レスターの声が低く剣呑さを帯びる。一気に不穏な空気が流れ出したが、タジールは何でもないことのように言葉を返した。
「そのままの意味ですよ、侯爵様。俺はエルロンドさんに選ばれた、デイジーの夫候補だったんです」
「ちょ……どういうことなの?タジール!」
流石にこの話をしてはダメだと、私はタジールに詰め寄ろうとした。
……が、椅子に座ったままレスターに強く手を握られてその場に留められてしまう。チラリとレスターの方へ向くと、激しい怒りに燃えた視線とぶつかった。
レスターが何かを言おうとして、しかしそれを遮るようにタジールが先に話しかける。
「デイジー、君が俺のことを兄のように慕ってくれていたのは知っている。だがエルロンドさんも俺も、もう一歩進んだ関係を望んでいたのさ」
「それは……」
タジールの言葉に思い当たることがないわけでもない。かつての私は恋愛というものから意識的に遠ざかっていた。そしてそれをエルが酷く心配していることも知っていた。
「君が一人で人生を歩んでいこうとしていたのを、エルロンドさんは懸念したんだろう。それは勿論、俺も一緒だ。君が恋愛を避けているのを知っていたしね」
「……」
兄のような存在のタジールにそこまで言われて、私は何も言い返せなかった。
確かにエルは私に男の人を紹介しようとしたことがあったし、誰かいい人はいないのかと聞いてきたりもした。そしてそれが私を心配する気持ちから来ているのも勿論知っていた。だからこそ私はエルの気持ちに応えてあげられないのが心苦しくて、いつも恋愛から逃げていたのだ。
私が黙ってしまうと、その代わりに今度はレスターが口を開いた。既に不機嫌さを隠すこともなく、睨みつけるようにしてタジールへと向き直る。
「……それで、今更なんでそんな話をデイジーにするのですか?彼女は今は私の婚約者だ。貴方のその話は、いくら家族のような相手とはいえ、少々不適切だと思いますが」
「ははっ。侯爵様は想像通りお堅いお人ですね。なぁに、夫候補だったという事実を告げたまでです。デイジーがこれから先ちゃんと幸せになれば、特に言うことはないですよ。……けど俺はこれでも二十年以上彼女の側にいたんです。侯爵様がデイジーに相応しくないと判断したその時は……覚えておいてくださいね?」
「……勿論、そんなことにならないよう精一杯努めますよ」
「……えぇ、期待してますよ」
意味深な笑みを浮かべてタジールはレスターへと握手を求めた。
レスターは僅かに逡巡した後に、自らも手を差し出してタジールの浅黒い手を握り返した。一見にこやかに握手が交わされはしたが、その後の空気は微妙なものになってしまった。
そうしてお茶を飲み終えた私達は、また連絡をするというタジールを置いてその場を辞した。既に午後の日差しは傾いており、あと数時間もすれば夕暮れとなるだろう。
馬車までの道のりを歩きながら私はレスターに謝った。
「……レスター……なんかごめんなさい……」
「デイジー?……どうして君が謝るんだい?」
「その……タジールのこと……色々失礼な感じだったから……」
「別に彼には怒ってはいないよ。あれくらいはっきりと釘を刺してくれた方が、私も気が引き締まるからね。それに……彼の言葉は私が見えていなかった真実を捕らえていたから」
「……どういうこと?」
何を意図しているのかわからなくて聞き返すと、レスターは自嘲しながら視線を虚空へと向け、再び口を開いた。
「……もう一度君と婚約して、今度こそ結婚をするんだって意気込んでいたけど……本当の意味で君との間で失った時間を思い知らされたというか……私は何もわかっていなかったんだなって思ったんだ」
その表情はどこか切なげで、彼が過去に想いを馳せているのが分かる。
私達は二十年近い時間を、遠く離れて過ごしたのだ。今こうして共にいられることは例えようのない喜びだが、同時に失ってしまった時間を惜しむ気持ちになるのは仕方ないことだろう。
「私の知らないデイジーを、彼が知っていると思ったら……嫉妬の感情を止められなかった。今にも君を連れ出して、あそこから逃げ出してしまいそうだったよ」
「まさか……さっきはそんなことを考えていたの?」
「あぁ、情けないことにね。自分の負けを認めたくなかったんだ……」
そう言ってレスターは弱々しい笑みを向けた。あの時、私の手を強く握ってきたのは、そうした感情と一人闘っていたからなのかもしれない。
「でもそんな未熟な私のままでは、君とのことを認めてはもらえないだろう。何せ彼は君と家族として二十年近い時間を過ごしたのだから」
「レスター……でも……」
「いいんだ。そのことは紛れもない事実だし、そうなった原因は私にある。私自身が受け入れていかなければならないことなんだ。それに……」
そう言ってレスターは足を止めて、私に向き直った。そしてその大きな掌を私の頬へと沿える。
「今度はもう間違えない。失ってしまった時の代わりに、私は一分一秒だって君との時間を無駄にはしたくない。君と一緒にいる為なら、なんだってするつもりだ」
「レスター……私も……私も同じ気持ちよ?貴方と過ごす時間がとても大切だわ」
「あぁ……デイジー……」
どちらからともなく私達は抱き合った。人通りのある街中で、そこだけまるで時が止まったかのように音が消える。聞こえてくるのは互いの鼓動の音だけ。そして伝わってくる温かな熱に、心の奥から愛しさが溢れてくる。
「……デイジー、これからは君のことをもっと教えてくれないか?」
「え──?」
「君の本当の気持ちや、やりたいことや好きな物について、何でもいい。離れ離れだった過去のことだって……私はもっと君のことを知りたい」
「レスター……」
「かつて私は過ちを犯してしまった……もっと君のことを良く知って、ちゃんと理解していればあんなことにはならなかったと思う。だからもう二度とそんな後悔をしないでいいように……デイジー、君の全てを知りたい」
「っ──!」
レスターのその言葉が熱烈な愛の告白に聞こえて、私は一瞬で顔が真っ赤になってしまった。レスターはそういう意図はないかもしれないけれど、大好きな彼の冬空色の瞳に見つめられたら抵抗できそうもない。
「……デイジー?……駄目かい?」
「だ、ダメではないけど……」
私を見つめたままコテンと首を傾げるレスターに、私は慌てて手を顔の前で振って赤面しているのを誤魔化した。何だか一人で動揺してしまっているようでとても恥ずかしい。
「……レスターにそこまで思ってもらえて、私は幸せ者ね。……勿論なんでも聴いてちょうだい?……あと……私も貴方にたくさん聞いてみたいことがあるわ。それも教えてくれる?」
レスターから素敵な言葉をもらった私は、彼と同じように首を傾げてそう聞いてみた。するとそれまでどこか沈んだような表情だった彼の顔に、満面の笑顔の華が咲く。
「あぁ、勿論!一緒に話そう!お互いのことを全部!」
「ふふっ。そのうちレスターが私について一番詳しくなりそうね」
「当然だ!タジールに負けたままではいられないよ。絶対に」
レスターが笑顔から一転、激しい感情をその顔に表した。それはまさに嫉妬という名のつくものだろう。いつも冷静なレスターが、私についてのことで感情をコロコロ変えるのが何だか可笑しかった。
「レスターってば、そんなに負けず嫌いだったのね?」
「そうさ。デイジーに関することでは誰にも負けたくは無いからね」
私が揶揄えば、何故かレスターは得意げに答えてくる。まるで子供のような一面を垣間見た気がして、それすらも何だか嬉しかった。
「ふふ、レスターの新たな一面を見ることができたわ」
「そうか……それならもっと知って欲しいところだけど……やはり嫉妬している姿は恥ずかしいからあまり見られたくないな……」
「でももう見てしまったもの。今日タジールにたくさん嫉妬していたのよね?最初は気が付かなかったけれど……」
「っ──!」
今思えばレスターの様子が可笑しくなったのは、タジールが現れてからだ。どこか硬い雰囲気になって、時折視線を逸らされたり、かと思えば縋るように見つめられたりと、いつもと違う様子だった。
「……それについては気が付かないままでいてほしかった……まだまだだな私も……」
はぁ……と深いため息をついたレスターは、顔を手で覆ってしまった。けれどその隙間から見える部分が少し赤くなっているから照れているのだろう。
そのため息も、視線を逸らすのも、顔を隠すのも……昔の私なら彼が怒ったり呆れているのかもしれないと思っていたかもしれないが、今は違う。
「大丈夫よ。そんなレスターも私は大好きだから」
「!!?」
「だからたくさん嫉妬してくれると嬉しいわ」
「で、デイジー……」
「ふふっ、真っ赤になっている顔をこっちへ見せて?」
「!!!」
私は顏を覆っているレスターの手を取ってそれを引きはがした。途端に困惑した赤い顔のレスターが現れる。
彼は気まずげに視線を彷徨わせているけど、私はその両頬を手で覆って自分へと視線を向けさせた。そして──
「朝のお返し!」
──チュッ──
「なっ──……!」
驚くレスターに、私は朝の仕返しの意味を込めて口づけを送る。そして抗議の声が上がるよりも先に側から離れた。
「少しは恥ずかしがる側の気持ちを分かったかしら?レスターさん?」
今朝は出かける前に散々人前で恥ずかしい思いをさせられたのだ。少しくらいレスターも恥ずかしがらせてやりたいと思うのは、仕方ないことだろう。
私自身すごく恥ずかしいけど、今みたいに色んな感情に翻弄されているレスターはとても珍しい。それを見ていたら無性に愛しさが込み上げてきたのだ。
驚いて固まるレスターを振り返って、私は笑みを零した。彼はまだ顔を真っ赤にして恥ずかしそうに口を引き結んでいる。
私の為に嫉妬してくれたレスター。それを嬉しいとは思うけど、それでも私自身の気持ちをきちんと伝えておきたかった。
「タジールとは本当に何でもないの」
「っ──」
タジールの名前を出すと、一瞬レスターの肩が震えた。そこに彼の動揺が見て取れる。申し訳なさを感じながら私はタジールについて話した。
「歳が少し上の兄みたいな存在で。いつも一緒にいたわけじゃないのよ?私はエルと一緒に色んな商会の拠点へ行っていたから」
「そうか……でも彼は君の夫候補だったって……」
「それは私も今日初めて聞いたわ。エルにそういう意図があったのかもしれないけど……私にとっては兄みたいなものだから、本当になんでもないのよ?」
「……あぁ」
レスターが私の言葉に小さく頷く。まだどこか不安を感じているのかもしれない。私は少し怒ったように頬を膨らませて更に言葉を重ねた。
「それにあっちにはちゃんと恋人だっていたんだから。今日のあの態度は兄として、妹の婚約者への嫌がらせみたいなものね。全く困ってしまうわ!」
私がタジールとの関係をそう話すと、ほっと息を吐いたレスターは私を腕の中に閉じ込めた。
「デイジー……ありがとう……」
「どうしたの?急に」
後ろから抱きしめられて、その吐息が耳に掛かる。ほんの少しくすぐったくて身を捩れば、更に抱きしめる力が強まった。
「こんな子供っぽい嫉妬をしてしまう私を好きだと言ってくれて……」
「……だって……好きなんですもの……」
「ふっ……私も君が好きだ……大好きだよ」
「えぇ……」
愛しい人からもらえる好きと言う言葉。その喜びを噛み締めながら、私は振り返った。そして今度はちゃんとレスターと見つめ合ってから唇を寄せる。
唇から伝わる互いの熱に、私達はどちらからともなく微笑み合うと、手を握って歩き出した。
しっかりと繋がれたその指先は、馬車に着くまでずっと握られたままだった──
お読みいただきありがとうございました。
タジール側の心情や事情を詳しく書く場所が無かったので、ここでちょっと補足。
タジールは、恋愛から遠ざかっていたデイジーを心配したエルが、彼女との仲が進展するといいなと思って側に置いた部下であり夫候補でした。ただ実際は兄と妹みたいな関係に終わったので、今では普通に家族みたいな間柄です。
エルが自分の死後にデイジーが一人になってしまうのを懸念していたので、タジールはいざという時はエルの代わりに自分がデイジーの面倒をみるという覚悟がありました。それは恋愛感情ではなく、家族への愛情からきているもので、独身を貫いていたのも自分を拾ってくれた大恩のあるエルに恩返しをしたいと思っていたからでした。
そんな妹のように大切なデイジーが、自分の見知らぬ男と婚約したと知って、タジールは複雑な思いを抱えました。そしてついにレスターと邂逅。ついつい兄としての敵愾心のような物を発揮させて、二人を試すような言動を取ったというのがこのお話の裏事情です。
どこかでこんなタジールの心情を書きたかったのですが、メインキャラでもないし、エルロンド編でも書く場所が無く、作者の心の中でだけ妄想が花開いていたという次第です。感想欄でちょっとご質問がありましたので、後書きに追記させていただきました。




