61 過去を乗り越える勇気
恐ろしい顏で拳を振り上げる男──セフィーロ・フラネル子爵。
まるで時が止まったかのように、私はその光景を酷く冷静な頭で見ていた。
(不思議だわ──あの頃のようには怖くはない──)
子供の頃は、いつもこの男の暴力に怯えていた。そのせいで私は卑屈で臆病な娘だったと思う。
けれど今の私には、私のことを愛してくれる大切な人たちがいる。彼等からもらった優しさと愛情は、私を強くしてくれた。傷つけようとする者に立ち向かう勇気をくれたのだ。
(もう逃げたくない……私は私の大切な人たちを守る為に、戦ってみせる……!)
私は向かってくる子爵を真正面から見据えた。向けられる暴力が全く怖くないわけではない。けれど落ち着いてみれば、かつて大きく見えたその体も力強く見えたその拳も、今は衰えた老人のものでしかない。
私は真っ直ぐに突進してくる子爵を前にして、その体が触れるよりも先に横に飛び避けた。
空振りした反動で子爵は思い切りたたらを踏む。すぐにレスターが背後から掴みかかった。肩を掴まれて子爵は後ろへとのけぞり、そこに一瞬の隙が生まれた。
私はそのまま子爵へと近づいて手を振りかざす。そして──
──パンッ!──
その場に響く乾いた音。
それまで憤怒の形相をしていた男は、自分よりも弱いと思っていた相手に頬を叩かれて呆然としている。
今はもう相手が貴族だとかこちらが平民だとか、そんな考えはどこかへ吹っ飛んでいた。
私は両親が受けた屈辱と絶望の日々を、少しでもこの男に分からせてやりたかった。相手を叩いたことへの罪悪感は無い。むしろその手の痛みすら誇らしく思えるくらいだ。
「貴方のせいで……母は愛する人と離れ離れになったのに……!貴方は人でなしよ!人間らしい感情など持ち合わせていないんだわ!」
一度沸き上がった怒りを言葉にしてしまえば、最早その感情の波を止めることはできなかった。
「母の幸せを返して!父の幸せを返してよ!!」
溢れ出る涙をそのままに、全ての怒りをぶつける。自分の中にこんなに激しい感情があるだなんて思いもしなかった。
「デイジー……」
怒りのままに滂沱の涙を流す私をレスターが心配そうに見つめる。けれど私たち親子の因縁をここで断ち切らせる為、彼は私を止めはしなかった。
「私の本当の家族を返して……返してよ!うぁぁぁぁぁっ……!」
決壊してしまった涙腺はなかなか元には戻らず、私はそのまま泣き崩れて床に膝をつく。
父や母のことを想うと、失った過去を嘆くのを止められない。どうにもならないことだとしても、その怒りと悲しみを相手に突き付けてやらなければ気が済まなかった。
「……ふ……はは……」
「っ──、何がおかしい」
泣き崩れた私を呆然と見ていた子爵が、突如不気味な笑い声をあげた。レスターが捉えている子爵の腕をきつく掴んで問いただす。だがそれをものともせずに子爵はレスターを見上げると、歪な笑みを浮かべながら言った。
「……これで言い逃れはできないぞ。この女は貴族である私に害をなしたのだからな」
「ここまで来てまだ本当にその言い分が通ると思っているのか!」
レスターが激しい怒りを滲ませて子爵を睨みつける。けれど肥大した自尊心の塊のようなこの男は、平民の小娘を相手に少しも自分の立場が悪くなるなど考えてもいないようだった。
「あの商人の男も同罪だ。良かったな、仲良く二人で処罰されるだろう」
「貴様っ──!!」
レスターが子爵へと怒りをぶつける。後ろから肩を強く引き寄せると、そのまま自分の方へと向かせる。そして胸倉を掴み思い切り締め上げた。
「くっ……!こんなことをしては、侯爵と言えど罪は免れないぞ……!」
「レスター!!」
今にも子爵に殴りかかろうとするレスター。私はそれを止めようと叫んだが──
「そこまでだ!」
「っ!!」
突如私たちを制止する声が掛けられ、慌ただしい足音と共に誰かが温室に入ってくる。
やって来たのは数人の近衛騎士達。厳しい表情をこちらへと向け、すぐさま掴み合っていたレスターとフラネル子爵を引きはがした。
「この場は近衛騎士団が預からせてもらおう。詳しい話は王宮に戻ってからだ」
「っ──」
近衛騎士の一人がそう言うと、部下の騎士に命じてレスター達を連れて行こうとする。私は慌ててそれを呼び止めた。
「あのっ!彼は……エスクロス侯爵は違うんです!私を守ろうとしてくれただけなのです!」
子爵だけでなくレスターまで近衛隊に捕らえられそうになるのを見て、私は必死に訴えた。
すると部下に命じていた騎士がこちらを向いて僅かに微笑すると、丁寧な言葉で説明してくれる。
「貴女様のことは陛下から伺っております。……大丈夫。悪いようにはなりませんのでご安心ください」
そう言うとその騎士は今度は部下達の方へ向き直った。
「連れていけ!」
厳しい声で命じて、レスターとフラネル子爵が温室から出て行くのを見守る。私はどうするもこともできずに、ただ茫然とその様子を見ていた。
彼らの姿が完全に見えなくなってから、その騎士は私のすぐ側へとやって来て頭を垂れた。
「っ──」
「すみません。驚かれたでしょう?……申し訳ないと思いましたが、貴女様の立場の為に強硬手段を取らせていただきました」
そう言って顏を上げた騎士には先ほどのような厳しさはなく、眉をさげて申し訳なさそうにしていた。そして懐からハンカチを取り出すと、私の頬へとそれを優しくあてる。涙でぐしゃぐしゃになっているのを気遣ってくれたのだろう。彼はどこか心配そうに私を見つめていた。
申し訳なさでいっぱいになりながら小さく謝罪とお礼の言葉を口にして、私はそのハンカチを受け取り涙を拭いた。そして少し気持ちを落ち着けてから、その騎士に問いかけた。
「……あの……貴方は一体……?」
「ライオネルと言います。ミネルヴァの……レスターの従妹の夫です」
そう言ってニコリと笑った顔は、確かにジェームズに似ていた。
「貴方が……でもならどうしてレスターまで連れて行ったのですか?彼は悪くないんです!」
「落ち着いて……このような場所で騒ぎが広がると都合が悪いのです。あくまでもこの場を治める為の処置ですので…どうかご理解ください」
ライオネルは申し訳なさそうに言うと、私を伴って王宮への道を戻った。
お読みいただきありがとうございました。
デイジーが自分の中にある恐怖と闘って、それを乗り越えていく様を書きたくてこの回が生まれました。
他の作品では、ヒロインが男装騎士なので剣で闘うわけですけども、今作のデイジーのように大人しいか弱いヒロインに、どうやって対決をさせるのか。これは悩みどころでした。
アクションものが好きなので、今作のように戦闘に特化したキャラがいないのは辛いな……と思っていたんですけど、精神的な成長を書くのも中々楽しかったですね。いい勉強になったな~と思います。




