58 エルロンドとディアナの悲劇 (デイジー過去回想)
デイジーの過去回想となります。
「彼女は……ディアナと私は、愛し合って一緒になった夫婦だった。けれど彼女は……あの卑劣な男の手で……攫われたんだ」
「え──……」
エルロンドの声はあまりにも悲痛で、一瞬彼が泣いているのかと思った。震える声をなんとか絞り出し告げられたその言葉。今も傷つき苦しんでいるのだろう。深く刻まれた苦悩の表情に、その言葉が真実であると感じる。
それからエルロンドは、過去に何が起きたのかを話してくれた。彼らの──いいえ、私の本当の両親の真実を──
「ディアナと私は、アムカイラ王国で生まれ育ったんだ」
「アムカイラ王国で?」
「そうだよ、彼女とは幼馴染だったんだ」
「幼馴染……」
これまで知ることの無かった私が生まれる前の母の話──脳裏には屈託なく笑う幼い頃の母の姿が想い浮かんだ。そしてその隣には優し気な少年の姿が。
私がエルロンドの顏を覗き込むと、彼は優しく笑った。榛色の目が私を見つめている。出会ってからそんなに時が経っていないはずなのに、何故かその目を懐かしいと思った。
「ディアナとは幼い頃から一緒にいて、まるでお互いに兄妹のような存在だったんだ。そして大きくなるにつれて、それは恋に変わっていった……」
エルロンドは母のことを思い出しているのだろう。その優し気な榛色の目を細めて、どこか遠くを見つめるように語る。
「ディアナへ向ける感情が愛だと気づいた時、私は彼女に結婚を申し込んだ。勿論ディアナは喜んで受け入れてくれたよ。お互いに気が付いていたんだ。この人こそが自分の生涯を共にする相手だと──」
「……お母さまと貴方が……」
初めて聞く母の恋の話。それは私にとっては驚きの連続だった。幼馴染がいたことも、そしてその相手と恋に落ちたことも……私は母について何も知らなかった。
「だが私たちの結婚を良く思わない者たちがいたんだ」
「え?……どうして?」
私がわからないという顏をすると、エルロンドは苦し気にその表情を歪めた。
「……アムカイラが当時普通の情勢であれば、何の障害も無く結ばれていたかもしれない。けれどあの頃はとても複雑で……」
その言葉で私はどういうことかを悟った。アムカイラはかつては王制だったけれど、現在は共和制だ。そしてその体制が移行したのが、丁度私が生まれた頃。政治体制が移行するその最中は、政情も不安定だっただろう。そして国を二分する勢力が互いを切り崩そうと躍起になれば、その狭間で苦しめられる人が出てもおかしくはない。
「私とディアナの家は、あの国ではそれなりの権力を持っていた……だがそのせいで政治的な対立に巻き込まれてしまった……私たちの婚姻は、血で血を洗うような争いの原因にまで発展しようとしていたんだ……」
幼馴染で愛し合う二人。けれど社会情勢と二人の血筋が、それを許さない。なんと切ないことだろう。
「……それで……どうしたのですか……?」
私はこれまで知り得なかった母の過去がもっと聞きたくて、彼に問いかける。するとエルロンドは少しだけ切ない表情をして続きを語ってくれた。
「……私たちはお互いの存在こそが全てだった……だからそのまま争いの火種になって離れ離れになるよりも、二人だけで未来を歩んでいくことを選んだんだよ……家も地位も何もかも捨てて……」
そう語るエルロンドは微笑みを浮かべているのに、まるで今にも泣き出しそうな表情をしていた。それは二人が愛を貫く為に、どれだけ大切な物を犠牲にしてきたかを物語っていた。
私にはそんな風に誰かを愛することが出来るだろうか。
そんな崇高な愛が私の中にはあるのだろうか。
そう思った時、私は母とエルロンドが羨ましくなった。私には到底辿り着くことの出来ない場所に彼らはいるのだから。
「……母と貴方は本当に愛し合っていたのですね……」
確かめるようにそう呟くと、心の中が温かいもので満たされていく。
フラネルの屋敷で、不幸な人生を送って亡くなった母。彼女の苦しみと悲しみを、娘としてどれだけ嘆いたことか。けれど幼い私には何もできなくて……それがとても辛かった。
──でも今は知っている。母が本当に愛していた人が誰であるのかを。
顔を上げれば、榛色の瞳が真っ直ぐにこちらを見つめていた。涙が滲んで煌めくその瞳は温かくて穏やかな愛をそこに湛えていて……私を通して母を見つめているように感じた。
(あぁ……この人は、今でも母を愛しているんだ)
私は涙がせりあがってくるのを感じた。
母が愛されているのが素直に嬉しい。
けれど同時に自分の孤独を思い知らされる。
自分がレスターとの間で失ってしまったものの大きさを痛感させられた。
様々な感情の渦に翻弄されて、溢れ出すものを止めることができない。それでも私は涙を拭いながらエルロンドの話を聞いた。
「……私たちは家を飛び出し、平民として暮らし始めた。懇意にしていた商人の友人に頼んで、働かせてもらったんだ」
エルロンドの話を聞いて、彼が商人らしく見えない理由がわかった。元々高位の貴族だったから、その佇まいや所作に生まれの良さが滲み出ているのだろう。
「ディアナは平民の暮らしも厭わずに、慣れない家事をして私を支えてくれた。私は、そんな彼女を何とか幸せにしたいと必死に働いていた。だが──」
愛しい過去の日々は終わりを告げる。エルロンドはその表情に暗い影を落とした。
「あの男がやってきて全てが変わってしまった──」
「……フラネル子爵ですね……」
「あぁ……そうだ。あいつが彼女を……ディアナを攫ったんだ」
胸を鋭い刃で切り裂かれるような苦しみと悲しみ。知らなかったこととは言え、そんな男を父と呼んでいたなんて、吐き気がしそうだ。
「……ディアナはとても美しかった……それは彼女が平民になったとしても変わらない……だがそのせいであの男に目をつけられてしまった……」
たまたまアムカイラ王国にやってきていたセフィーロ・フラネル。当時はまだ子爵の身分ではなく、仕事で訪れた異国の地で、母と出会って恋に落ちたのだと聞いていた。けれど真実は……。
私は黙って目の前の人の言葉を待った。私の本当の両親の真実を──
「……気が付いた時には、ディアナはいなくなっていた。私は最初彼女の家の者たちが連れ戻したのではないかと思ったんだ……けれど真実は全く違っていた。既に彼女はあの男によって国外に連れ去られた後だった……!」
悲しみと憎しみに表情を歪める。私の心にも彼と同じ苦しみと悲しみが広がっていく。
「あの男は人を使ってディアナを無理やり連れ去った。私が彼女を平民にしてしまったから、彼女は無防備な状態で誰にも助けを求める事もできなくて……っ」
エルロンドが血が出てしまいそうなほど強く握りしめた拳で、己の額を叩きつける。何度も何度も……。その様子はとても痛ましく、そこに彼の長年の後悔と苦悩が垣間見えた。
母を無理やり自分のものにしようとしたフラネルは、卑劣にも父の下から母を攫ったのだ。足が付かないようにうまく人を使い、自分の痕跡を消し、父が見つけ出すよりも先にアムカイラ王国を抜け出した。
当然彼は突然いなくなった妻を探し回った。駆け落ちで既に縁を切っていた実家や母の親族にも縋り、彼らに罵られ殴られながらも必死で母を探したそうだ。
けれど母の失踪は事故か事件かもわからぬまま。当てもなく探すのは非常に困難なことだ。それに父が母の失踪に気が付いた時には、既にあの男は母を連れて国外へと出てしまっていた。
「そんな事が……とても信じられない…………」
私は父と思っていたフラネル子爵の悍ましい所業に、身体の底から震えがくるような気がした。しかし同時に、歪なあのフラネル家の在り方が当然のもののように思えた。犯した罪の上に成り立っていたのだから。
「ディアナが連れ去られてからのことは……この日誌の内容で初めて知った。私は自分の力の無さを大層悔やんだよ。もし私が彼女を守るだけの強さを持っていたら──彼女を見つけて助け出せるだけの力があったら……そうしたら君にもこんな苦労をさせなくて良かったのに……」
私は改めて目の前の人物──エルロンドを見る。
(この人が……私の本当の父親なんだ……)
これまで考えもしなかった現実が、何の抵抗もなくストンと胸に落ちてくる。そして次の瞬間には腹の奥から大きな感情の波が沸き起こってきて、それに溺れてしまいそうなった。
漏れ出た吐息が震え唇が戦慄くのは、突き付けられた事実に打ちのめされたからではない。それはきっと、私がずっと求めてやまなかった感情のせいだろう。私はそれを確かなものにしたくて、彼に一つの疑問を投げかけた。
「……母と貴方のことはわかりました……けれど本当に私は貴方の娘なのですか?母は私があのフラネル子爵の娘だと……子爵も私を長子として扱っていました……」
母はフラネル子爵と異国で出会って私を生んだのだと──私はそうずっと聞かされてきた。
確かに物心ついた時に、私と母はあの男からは家族らしい愛情などもらった記憶はなく冷遇されていた。
けれどもし私がセフィーロ・フラネルにとって娘でも何でもない存在であったなら、その扱いはもっと酷いものだったはずだ。血縁でも何でもない子供など、あの男にとっては何の価値も無い。
しかしあの男は、私をフラネル家の長子として扱っていた。フラネル家にとって益のある結婚相手を見つけられるようにと、淑女としての教育に金と時間を費やしていたのだ。全てはフラネル家に──いえ、セフィーロ・フラネルにとって価値のある娘になるようにと。
「……それは彼女が……ディアナが、君を守る為に嘘を吐き続けることを選んだからだ」
「え──?」
エルロンドの手が伸びてきて、私の髪に優しく触れる。そしてそのまま長い指が耳の横を掠めて頬に触れた。
「君の美しい翠玉の瞳は、本当にディアナにそっくりだ……そしてこの柔らかな亜麻色の髪は──」
そう言ってエルロンドは、今にも泣きそうな顏をして自身の髪をつまむ。それは私と同じ亜麻色の髪だった。
「本当にディアナが日記に書いていた通り、君は私に似ている所がたくさんある。君は確かに私の娘だよ……ディアナが私の下から連れ去られた時、既に君は彼女のお腹の中にいたんだ」
「っ──」
「……ディアナの想いは、残された手紙と日誌に綴られていた…………彼女が君をあの男の娘だと偽った理由は君の為だ、デイジー」
「……」
私はそれまで知ることの無かった母の苦悩にようやく思い至った。全ては……私の為だったのだ。そしてそれを裏付けるかのように、エルロンドは話を続けていく。
「君がフラネルの子供ではないと知られれば、殺されるかもしれない……ディアナはそう思ったんだろう。そして事実、あの男はそういう人間だ……彼女は君の命を守る為に、あの男の妻になることを選んだ……」
「そんな……」
フラネルによって連れ去られ、残酷な運命を無理やり背負わされた母は、強引にあの男の物にされ、誰にも助けを求められぬまま、とうとうフィネスト王国までやって来た。
周囲には誰も助けてくれる人間がおらず、独りぼっちの母にとって、祖国の地はあまりにも遠かったはずだ。帰りたいと願っても、それが叶わなかったであろうことは容易に想像がつく。
「そんな……あまりにも酷い……酷すぎる……」
私は母の悲劇に、怒りと悲しみで涙を流していた。自分勝手で卑劣な男のせいで、私の本当の両親は引き裂かれたのだ。
もし母がフラネルにただの愛人として扱われたのならば、逃げ出すことができていたかもしれない。けれどフラネルは美しいディアナを正妻にすることを選んだ。無理やり連れ去ったにも関わらず、母との偽りの出会いと恋の物語を作ってまでそれを成し遂げたのだ。
そして私はセフィーロ・フラネルの長女として生を受けた……母は本当に愛する人のことを心の奥底に隠しながら、あの男の妻になるしかなかったのだ。
私はずっと母の不幸を嘆いていた。けれど私という存在こそが、母を不幸にしていたのだ。私がいなければ、母は本当に愛する人の下へ逃げ出せたかもしれないのに……
「……母があの男から逃げ出せなかったのは……私のせい……だったので……す……ね……」
「っ──!!それは違うっ!!君のせいじゃないっ!君は何も悪くないんだ──っ!」
エルロンドは悲痛な叫びをあげると、私をその腕の中に閉じ込めた。
彼の腕が私を強く抱きしめる。どこかへ消えてしまわないようにと、必死に掻き抱いて──
「ごめん……僕がもっと早く君を見つけられたら……そうしたら……」
小さく消えていく声は震えて……やがて喉の奥から嗚咽が漏れる。私よりもずっと体の大きな男の人なのに、彼はまるで小さな子供のように泣いている。
その温もりから感じるのは確かな愛情。出会ってから僅かな時しか過ごしていなくてもわかる。彼こそが私の本当の家族なのだ。そう確信した時、私は思わず声に出していた。
「お……とうさん……」
「──!!」
「貴方が私の本当の……」
「あぁ……っ」
一瞬腕を緩めて私の顏を覗き込んだ彼は、その涙でクシャクシャな顔に笑顔を浮かべると、再び私をその腕の中に閉じ込めた。
力強くて優しい温もり。それは私に本当の家族の愛を伝えている。それが嬉しくて涙と共に私も彼を抱きしめた。
そっと目を閉じれば、母が幸せそうに笑っているのが見える。
そしてその隣には、本当の父──エルロンドの姿が見えた──
お読みいただきありがとうございました。
ようやくデイジーとエルの関係を明かせました。でもほとんどの読者様が彼等の関係を予想されていたのではないかなと思います。この辺の絶妙な関係性の描写は随分気を使って書いてました。
本編終了後、番外編、更にはエルロンド編と続きます。エルロンド編の方では、エルの過去をその半生と共に書いており、本編の裏話もありますので、気になる方はそちらもどうぞお楽しみください。




