57 見知らぬ過去との邂逅 (デイジー過去回想)
デイジーの過去回想となります。
私が本当の両親のことを知ったのは、フラネルの家から出て暫く経った後のことだった。それまで信じていた自分を構成する事象が全て偽りだったと知った時には、私は生まれ故郷で全てを失った後だった。
当時の私はレスターとの婚約破棄、そしてフラネル子爵からの酷い暴行を受け、すっかり心を閉ざしてしまっていた。けれど何もかもを忘れて心を失っている方が痛みに鈍感でいられた。
何も見えず、何も聞こえず……まるで人形のようになり、もうこのまま死んでしまってもいい、そう思っているうちに金で商人に売られたのだ。
フラネルの屋敷を出た前後のことは、正直あまり覚えていない。はっきりとした意識の無いままの状態で連れ出されたのだろう。気が付けば故国は遠く、私はエルと共にいた。
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ガタゴトと揺れる振動に目を覚ますと、そこは馬車の中のようだった。
ぼやける視線の先に誰かが座っているのが見える。ガンガンと痛む頭でようやく自分が金で売られた事を思い出し、目の前の人物こそが私を買った商人の男なのだろうと思い至った。恐怖に思わず身がすくむ。
しかし目の前の人物が発した言葉は予想外のものだった。
「ようやく……君に会えた……」
「……?」
はっきりとしない意識の中に降り注ぐ優しい声。その声が持つ熱は冷え切った心にじわりと染み込んでくる。
「デイジー……君はデイジーという名前なんだろう?……ディーが……ディアナがそう名付けたと……」
ディアナ──母の名前を聞いて、私は一瞬で頭の中の靄が晴れていくのを感じた。
ぼやけていた視界が鮮明になり、目の前の人物の表情が露わになる。
(……なん……で…………泣いているの……?)
目の前の人物は、私を見つめて顔をくしゃくしゃにしながら涙を流していた。その様子に驚きと共に何故か胸の奥をぎゅっと掴まれるような気がした。
しかし記憶の中をいくら探しても目の前の人物に心当たりはない。けれど彼から向けられていると感じるのはとても深い愛情。家族でさえ与えてくれなかったそれを、何故か見知らぬ目の前の人物が私に向けてくれていた。
(なぜこの人は……こんな目で私をみるんだろう……)
何故どうしてという疑問は、喉の奥に引っかかって言葉にならない。けれども私の心は彼の言葉とその優しい眼差しを求めていた。じっと見つめていると、感極まったように彼は神に祈りを捧げた。
「あぁ……神様……本当に感謝します。私の命よりも大切な宝物を、こうして取り戻させてくれたことを……心から……」
その真剣な様子に、私は己の心に残った傷が癒されていくような気がした。
その後も私達を乗せた馬車は走り続けた。彼は自らをエルロンドと名乗り、道中ずっと私を気遣いながら側にいてくれた。男である自分が世話をするのは気を使うだろうと言って、女性の使用人をつけて適度な距離を保ってくれた。宿はかなり良い部屋を用意して、私に一人の時間を作ってもくれた。
それは私にとってとてもありがたいことだった。どんなに人当たりが良く優しくしてくれたとしても、彼は私をお金で買った張本人。愛する人を失った私にとって、エルロンドという人物は脅威でしかなかった。
けれど彼はそのことをよくわかっていたのだろう。辛抱強く私の心が落ち着いていくのを待ってくれていた。そしていつも優しく言うのだ。ゆっくり心と体の傷を癒せばいい。ここは安全だからと。
始めの頃は言葉を話すことすらできないほどに疲弊していた私の心も、穏やかな時を与えられて次第に癒されていった。
そうしてある時、ずっと疑問に思っていたことを聴いたのだ。
「……あの……」
「っ──……」
「貴方は一体…………私をどうするおつもりなのですか……?」
彼は私が声を掛けてとても驚いていた。もしかしたら声を出せないと思っていたのかもしれない。けれどすぐに破顔して、嬉しそうに私を見つめる。
「あぁ……デイジー……ようやく……ようやく君に告げることができる……」
彼は感極まったように瞳を潤ませると、おもむろに懐から何かを取り出した。
「……これは……?」
彼が出したのは一冊の革の手帳だった。私は何故かそれに既視感を覚えた。
「……中を見てみて」
手が震えそうになるのを抑えて、それを慎重に受け取る。見た目よりも重く感じた手帳を掌にのせ、もう片方の手でゆっくりと開いた。
(っ……これは……)
中に綴られていたのは美しい流麗な文字。書かれている内容は、主に私に関することだった。それは母ディアナの日記。幼い頃の記憶が鮮明に蘇る。
『おかあさま、なにをかいているの?』
『ん~、可愛い貴女のことよ、デイジー。貴女のお父様に貴女の可愛らしさを教えてあげようと思って』
『どうして?おはなしすればいいのに』
『いいのよ。でもこのことは内緒にしてね?誰にも言ってはダメよ?』
『うん!』
記憶の中の母はどこか切なそうに笑っていた。あの時書いていた日記に間違いない。
私は顏を上げると、そのままその疑問を目の前の人物にぶつけた。
「なぜ……?どうしてこれを貴方が……」
「……それのおかげで君を見つけることができたんだ。彼女が……ディアナがそれを私の下へ送ってくれたから……」
遠い記憶の中にしか存在しなかった日記は、確かに今この手の中にある。母はそれを絶対に人目に触れさせなかった。私でさえその中身を見たことはなかった。
私が5歳の時に母が亡くなりその荷物は私が受け継いだが、その中にこの日記はなかったように思う。もう十年近く前のことなので記憶が曖昧だけど、あの時以外で目にした覚えがなかった。
私が神妙な面持ちで俯いていると、やがて彼が静かに語りだした。
「……ディアナはもう自分が長くないとわかっていたのだろう。病魔に侵されて、それでもなお私のことを覚えていてくれた」
「貴方のことを……?」
「あぁ……それで彼女は私の下へこの日記を送った。出入りしていた信頼のおける商人に密かに頼んで……私の下に届くようにと……」
日記が彼の下にあった理由はわかったけど、何故という疑問が残る。それに母が亡くなったのは十年以上も前のことだ。どうして今更?という想いが募る。
私が良く分からないといった表情をしていたのだろう。彼は尚も説明を続けていく。
「彼女はアムカイラ共和国にいるはずの私の下へ、この日記と手紙を送った。……けれどその時は既に私はあの国にはいなかったんだ」
「え……?」
「彼女を……君のお母さんをずっと探していたから……ディアナは私の妻だった」
「!!」
目の前の人物の口から信じられない言葉が紡がれていく。ガラガラと自分の中にある家族の偶像が、音を立てて壊れていった。
私が必死に縋りついていた家族は一体何だったのだろう?私は自分の価値を見失おうとしていた。けれど──
突然、そっと壊れ物を扱うようにふわりと温かな熱に包まれた。どこか懐かしい香りが鼻を抜けていく。気が付けば私はエルロンドという人の腕の中にいた。
「……デイジー……よく聞いて欲しい……信じられないかもしれないが……私は……君の……君の本当の父親なんだ」
「!!」
「彼女は……ディアナと私は、愛し合って一緒になった夫婦だった。けれど彼女は……あの卑劣な男の手で……攫われたんだ」




