40 母の日記とレスターの想い
目を開けると、柔らかな日差しの中に人影が見えた。それはゆっくりと近づくと、私の頬に優しく触れる。
くすぐったくて身を捩ると、すぐにその熱は離れていった。私はそれが名残惜しくて、その人物の名前を呼ぶ。
「……レスター」
「デイジー、体調はどう?」
「すっかりいいわ」
「そうか、よかった」
レスターに助けられて身体を起こす。
窓の外に視線をやれば、日が少し傾きかけている。あれから何度か目が覚めて、その度に眠りについていたから、だいぶ時が経っているはずだ。私はふと気になって、レスターに問いかけた。
「貴方はずっとここにいたの?」
「あぁ……いや……屋敷に戻ったり、王宮に行ったりはしているよ。だがフリークス氏のご厚意で、離宮に滞在させてもらえることになったんだ」
「──え?でもお仕事とか……」
「今やっている仕事は主にフリークス氏の案件だから、こちらの方が都合がいいんだ。領地に関する仕事については、ジェームズが代理でやってくれている」
レスターはそう説明しながら、水差しの水をコップに注いで差し出してくれた。それを飲んで喉を潤すと、ぼんやりしていた頭がはっきりとしてくる。
「……そう言えばエルを見ていないわ……」
あの夜に倒れて以来、目が覚めてからエルを見ていない。レスターは元より、侍女や医師は入れ代わり立ち代わりやってきていたのに……。
「……仕事のことで出ているらしい」
「……そう」
エルはあの時のことをどう思ったのだろう?記憶にあるのは、エルがソファで寝ている所までだった。きっとあのまま私は倒れたのだろう。
(そう言えば、あの日誌はどうなったのかしら──)
日誌は母ディアナの物だった。倒れる前に見た光景を思い出し、眉根を寄せる。母の思い出であると同時に、あの中にある秘密は、今はまだ誰にも知られてはいけない。
(あれを落としてしまったけれど、あの後エルが気が付いて隠してくれたかしら──)
母の日誌はエルが管理している。彼にとっては、唯一手元に残った母の想いの欠片だから──
「あの……私が倒れていたのを見つけたのが誰だったかわかるかしら?」
「え?……いや、それは聞いてないが……どうかしたのかい?」
「いいえ、その……誰か他の人に見られていたら恥ずかしいと思って……」
私の唐突な質問に、レスターが首を傾げる。当然だろう。彼は日誌の存在も、私の心配事も知らないのだから。
「大丈夫。恥ずかしいなんて思う必要はない。皆、君を心配しているのだから」
「……そうね。ありがたいわ」
彼や皆に嘘をついていることが心苦しい。けれどそれはどうしようもないことだった。
「侍女を呼んでくるよ。着替えや食事が必要だろう。私も今日はここに泊まるから、何かあったら呼んでくれ」
レスターはそう言うと部屋から出て行った。
暫くして侍女がやってきて、湯あみの準備をしてくれた。久しぶりの湯あみに心が躍る。しかし介添えに助けられながらベッドを抜け出した所で、はたと気が付いた。何日も風呂に入らず、寝間着姿でレスターの前にいたことを。
(まさかこんな姿を見られてしまうなんて……!)
婚約者時代のレスターとの付き合いは、貴族令嬢としては当然、清い関係そのものだった。お互いにきちんと着飾り、寝間着などといった本当にプライベートな姿など、一度も見せたことはない。
途端に頬に熱が集まり、ドキドキと心臓が喚きだす。他の人から見たら、いい歳をして──と思われるかもしれないが、そういった経験の無い私には、これだけで十分動揺してしまう。
(意識したら余計に顔を合わせづらいのに……!)
チャプチャプと湯に浸かりながら、私は思いもよらなかった恥ずかしい悩みで頭がいっぱいになってしまった──
夕食時──
エルは未だ戻らず、レスターが再び部屋を訪れた。
「食事をこちらへ運ばせるよ。色々作ってもらったから、食べられそうな物を食べるといい」
「ありがとう」
「気にしないで。どうせ私もここで一緒に食事をするから」
「え?」
レスターの言葉に呆気に取られていると、次々と料理が運ばれてくる。テーブルの上にずらりと並ぶ料理をぼんやりと見ていたら、レスターに手を取られて、椅子に座らせられた。
「君と一緒に食事をするのは嬉しいが……この間みたいに私の手で食べさせてあげられないのは残念だな……」
「な、何を言っているの?もう自分で食べられます!」
「ははは。怒っている君を見るのも久しぶりだ。なんだか嬉しいよ」
笑い声をあげるレスターは、とても機嫌が良いようだ。まるで婚約者時代に戻ったような気がして、俄かに心臓が暴れ出す。
(……レスターは倒れた私を気遣っているだけなのだから、勘違いしてはいけないわ……)
頭ではそう思うのに、心は言うことを聞いてくれない。私はそれ以上動揺しないように、黙々と料理を口に運んだ。しかしそんな私に、レスターはじっと視線をこちらへ向ける。
「デイジー」
名前を呼ばれて無視することも出来ず顔を上げると、真剣な眼差しがそこにあった。ドキリとして思わず食事の手が止まる。
「君の力になりたい……仕事についてだけでなく、君自身のことについて」
「え……でも……」
「デイジー、君が何か悩みを抱えて苦しんでいるのなら、それを見過ごすことはできない」
その言葉にはある種の厳しさがあった。嘘偽りなく心から伝えてくれているのだとわかる。
「……今度こそ君の為に──君の幸せの為に尽くしたいんだ」
レスターの大きな手が私の手を捕らえた。重ねられたその手から、確かな熱と彼の想いが伝わってくる。
「レスター……私……」
彼の優しさに思わず弱音が零れそうになる。しかしそれ以上の言葉は紡げなかった。
(これ以上彼に頼ってはダメよデイジー。私はもう彼の婚約者でも何でもないんだから……)
その優しさに縋れられたら、どんなにいいだろう。この胸の内の苦しみを告げられたら、どれだけ楽になれるだろう。
けれどこの件はレスターには直接関わりのないことだ。協力してもらっているとは言え、私自身の苦しみを分かち合うなど、到底できるはずもない。
私は静かに首を横に振り、彼に微笑んだ。
「悩みなんてないわ。……もう貴方との誤解も解けたのだもの。それだけで十分よ」
「デイジー……だが……」
「もう、みんなして心配症なんだから。今回のこともちょっと疲れが出ただけよ?」
私は誤魔化すように笑うと、皿にあったパンを一切れ口に放り込んだ。そしてそれ以上はその話題が上らないように、料理についてあれこれと話して食事を続けた。




